【歩き旅】水戸街道 Day4 その② 〜牛久沼に沿って〜
田園風景が広がる整備された道を進む。
車通りが少ないが舗装が綺麗な道をくだりきると、農業用水の施設か何かの脇に「沃土豊熟」と題した碑が置かれていた。
ここは「牛久南部土地改良区」と呼ばれ、かつては超湿田と谷津田が広がる地帯であったが、昭和49年(1974年)に竣工された土地改良工事によって近代農業が可能な土地に整備されたことを記念したものである。
ここから坂が上りになり、整備された道から左に逸れて、やや鬱蒼とした雰囲気の道を進んでいく。
旧道消失区間を迂回して、常磐線の線路と国道6号を横切ったあたりから牛久宿であった。牛久宿は南北1kmほどの宿場で、人馬継立業務を隣の荒川沖宿と合宿して行っていた。牛久宿は水戸街道の真ん中に位置することもあって往来が盛んで、人馬の配置が50人50疋(普通の宿場では25人25疋が一般的)の常設が義務付けられていた。
周囲の加助郷から人員を確保する必要があったが、度重なる飢饉や交通量の増大により、負担が増した加助郷村が反発し、文化元年(1804年)には牛久助郷一揆も起きた。
「芋銭河童碑道」と書かれた石碑があった。「芋銭」とは日本画家の「小川芋銭(おがわうせん)」のことであり、魑魅魍魎や河童の作品を多く残していることから「河童の芋銭」とも呼ばれている人物である。
彼のアトリエである「雲魚亭」がこの石碑の先、牛久沼の畔に位置している。
明治天皇牛久行在所碑が立つ飯島家は、明治17年(1884年)に女化原(おなばけはら)で行われた近衛砲兵大隊による天覧射的演習の際、明治天皇の宿所となった場所である。
山門の前に仁王像があり、右手の秋葉堂(旧観音堂)は天正20年(1592年)建立と伝わっている。
宿場を出た辺りに、慶応4年(1868年)創業の「宮崎利兵衛商店」がある。往時を偲ばせる門構えの建物の食料品店である。
再び国道6号に合流し、しばらくは国道沿いを行く。牛久駅は牛久宿の北側に設置されているため、現在ではこの辺りが牛久市の中心街になるのであろうか。途中地蔵のような石仏が祀られている祠があった。
薬師寺の参道は150mに及び、杉並木は市の天然記念物に指定されている。神仏混淆の寺院であったため、鎮守の森としての意味合いもあったという。
参道には石仏や石祠などが立ち並んでいる。上の写真の中央にあるのは、「金剛界大日如来石仏」である。寛文8年(1668年)造で、牛久市内最古の石仏である。
寛永年間には常総で石仏胎蔵界大日如来(法界定印・お腹の前で楕円を作る手の形)の建立が盛んであった。寛文年間には金剛界大日如来(智拳印・胸の前で人差し指を握る手の形)が多く作られ、その変遷を知る貴重な史料と言える。
参道には明和5年(1768年)建立の宝篋印塔も置かれている。苗字を称することを禁止されていた江戸時代に、寄進者の氏名が刻まれているのが珍しいとのこと。
薬師寺の本堂は瑠璃殿と呼ばれる。薬師寺も由良国繁の七観音八薬師の一つで、幕末以降荒廃していたが不思議な力で復活を遂げた。そのことから本尊の薬師如来は「お目覚め薬師」とも呼ばれる。
境内の石仏を見ながら薬師寺を後にする。こちらは阿弥陀三尊を掘ったものだろうか。
こちらはおそらく道祖神。他にも様々な石仏が見れる場所であった。