秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の③ 〜最後の峠へ向けて〜
三十三番寺・菊水寺に到着。
正面に「正大悲殿」の額が掲げられている本堂は、文政3年(1820年)に再建されたもの(大悲殿は観音菩薩が祀られている建物を指す)。入母屋造りの建物に菊水の紋がよく映えている。
写真に収めるのを忘れてしまったが、境内には県内最古と言われる寛保年間の芭蕉句碑「寒菊や こぬかのかかる 臼のはた」がある。
ここまでくれば最後のひと踏ん張り、意気揚々と34番寺を目指す。
桜井橋までの区間はところどころ旧道が残されており、旧道のうねうねとした線形を楽しむことができる。桜井橋はかつて現在よりも少し上流に位置しており、そこまでの旧道が残されていたが、川をそのまま渡ることはできないので、結局桜井橋に戻ることになる。
取方の交差点で永法寺の参道にぶつかる。「萬福山永法禅寺」と揮毫された寺標の脇に「左三十四番」と刻まれた道標がある。とはいえ下の方は草と土に埋もれて判読できない。
従来の古道はこの辺りから吉田川を越えて土手道を進むが、現在は通れないので吉田下橋まで迂回する。
吉田下橋の辺りに八幡神社と旧武毛銀行本店のレトロな建物が残されている。県道をこのまま進むと旧吉田町の中心街となる。秩父盆地の明治初頭の人口を見ると、(秩父)大宮に次いで2番目の規模を誇ったのが下吉田である。
今回は中心街には寄らずに、手前の吉田下橋で吉田川を渡る。橋を渡ってすぐに右折すると、旧道の土手を少しだけ歩くことができる。
ここから先の道筋がやや難解で、ガイドマップはややデフォルメされている。基本的には曲がり角などに設置されている江戸巡礼古道の道標に従っていけば問題ない。
畑と畑の間の細い道を通ったり、短い区間だが未舗装の足場の悪い登り坂もあるので注意が必要である。この坂を登り切ると秩父事件激戦地でもある清泉寺の前に出る。
龍勢会館前を通過する。吉田の龍勢祭りは毎年10月の椋神社の例大祭内の催しとして行われる。火薬を仕掛けたロケットを天高く打ち上げる「龍勢」が見ものである。
そのまままっすぐ行くと天徳寺の入口前を通過する。この寺の浦山には「天徳寺城」や「寺山砦」と呼ばれる山城の遺構が残されているが、関連する記録がほとんど存在しない謎多き山城となっている。
道なりに進むと県道37号線と合流する。信号を越えると左手に立派なお堂が鎮座している。この平石(ひらなめ)馬頭尊堂は弘化四年(1847年)に竣工したもので、現在の吉田久長地区の前身にあたる久長村が発願したものである。
境内には明和五年(1768年)建立の宝篋印塔や、元禄・大正期の道標があるようだが確認しそびれてしまった。
ここから最後の山越え、破風山への登りが始まる。まずはしばらく沢沿いの車道を行く。車通りもほとんどなく、巡礼かハイキングを楽しんでいると思わしき二人組が、たまに訪れる直線区間でチラチラと見える程度。
左手の山が少し開けた場所に石碑が3つ並んでいた。調べた所一番右の石碑には「享保十六辛亥天 右水込道 奉唱念佛百万遍供養塔」と刻まれているらしい。丁度この石碑の裏山に、鉢形城の支城であり「吉田の盾」とも呼ばれた「龍ヶ谷城」があったようだ。
石碑群の少し先に草木が綺麗に整えられた場所がある。そこから沢を土橋で越える道が伸びている。これが「水込道」なのだろう(ちなみに「水込」は水潜寺を指す)。
ここからしばし山道となる。ひとしきり登り切ると石塔と巡礼道のプレートが掲げられており、そこからは緩やかに下り、すぐに車道へと出てくる。
林道頼母沢(たのぶさわ)線をひた登っていく。おそらくこの林道沿いに流れる沢が「頼母沢」のようで、今回の旅最後の集落の名でもある。
頼母沢を堪能していると石碑群と小さなお堂が現れた。お堂はおそらく地蔵堂。石碑は念仏二百万遍供養塔、如意輪観音、そして光明真言百万遍・阿弥陀名号一億・具一切?百万遍がセットになった供養塔が並んでいた。
まだまだ登りは始まったばかり。ここからが本番となる。