気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2020/05/19

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day3 その③



時平神社に立ち寄る。大和田宿には大和田村に慶長15年(1610年)、萱田村に元和元年(1615年)創建の時平神社があり、こちらは萱田側。時平神社は藤原時平を祀る神社で、八千代市内に4箇所ある。

藤原時平の子孫が久々田(現在の習志野市津田沼あたり)に流れ着き、深山(船橋市三山)に住み着いたという伝承から創建されたものと考えられ、その後子孫は三山にある二宮神社の神主となったと伝わる。その事もあってか、時平の政敵・藤原道真を祀る天満宮や天神が大和田周辺にほとんどない。


大和橋で新川を渡る。新川は印旛沼の疎水路である。上流の大和田排水機場を臨む。


新川を渡ると下市場の集落に入る。左手の皇産霊神社に立ち寄る。「皇産霊」には「こうさんれい」、「みむすび」と呼び方があるようだが、この神社の由緒は不明。


その少し先には白旗神社があった。この神社も創建年代等の詳細が不明だが、御祭神は誉田別命(応神天皇)で、社名は源氏の旗印である白旗にちなむという。いわゆる八幡神社系統の神社ということのようだ。


境内には馬頭観音、庚申塔、社殿改修記念碑、子安講碑などがならんでいる。


境内に第十六番の札が付いた祠があった。実は道中でこれまでいくつか目撃したのだが、これは「吉橋大師講」という四国八十八ヶ所のミニマム版。文化4年(1807年)に開創された下総四郡八十八ヶ所霊場が元になっており、霊場は八千代市、習志野市、白井市、船橋市に点在する。

現在は霊場としての活動をしておらず、御朱印がない札所も多いが、個人で散歩がてら巡礼しているケースはWeb上でも散見できるので、興味がある方は実施してみると良いかもしれない。


下市場交差点で国道16号を横切り、少し歩くと右手に八坂神社がある。これまた由緒は不明だが、境内には道祖神、金比羅宮の祠、馬頭観音、子安観音の碑などが並ぶ。


ここには吉橋大師の第七十八番札所がある。


八坂神社のすぐ近くに台町稲荷神社がある。平成23年(2011年)の住居表示実施により勝田台北となった地域で、それ以前は村上(旧印旛郡村上村)であった。この北の米本(よなもと、旧印旛郡米本村)には米本城があり、その城主は代々村上氏が務めていたという。米本城は永禄元年(1558年)または永禄4年(1561年)に落城し、昭和年間に土の採掘により城郭の大部分は失われている。


境内には吉橋大師の第八十四番札所の祠があった。


勝田台駅前を通過すると佐倉市域に入る。勝田台駅は昭和43年(1968年)に開業した京成電鉄の駅。駅周辺は京成電鉄によるニュータウン計画によるまちづくりがなされ、駅の完成と同時に駅南側の勝田台団地の入居が開始した。その後も高度経済成長による都市郊外の人口増加の影響を受け、平成8年(1996年)には第三セクターの東葉高速鉄道が開通し、勝田台駅に東葉勝田台駅が接続した。

街道の左手、ゴルフショップの敷地内に小さな庚申塔がある。明治42年(1909年)のもので、「北 米本木下道」と刻まれているという。成田街道沿いの集落にとって、近場で最も物資が集積する木下へ向かう需要が大きかったことが伺える。


井野交差点の数百メートル手前に成田街道道標2基、句碑兼道標1基、そして常夜燈が置かれている。常夜燈は文政10年(1827年)に、茶店「林屋」の前に建てられたもの。林家ではここから北に100m程の場所にある「加賀清水」と呼ばれる湧き水を振る舞っていた。加賀清水の愛称は第八代佐倉城主の大久保加賀守忠朝が愛飲したことに由来する。

一番右の道標は七代目市川團十郎が天保2年(1831年)に建てたもので、「天はちち 地はかかさまの 清水かな」と刻まれている。真ん中の道標は明治27年(1894年)に岩田長兵衛が建立した5基のうちの1つ。一番左は天保11年(1840年)に江戸の豪商・古帳庵夫妻が、大和田原の情景を詠んだ句が刻まれている。


志津駅前を通過し、ユーカリが丘駅に到着する。昭和46年(1971年)に山万が開発を開始し、昭和54年(1979年)に分譲を開始したニュータウンの拠点である。ユーカリが丘駅は京成電鉄と山万ユーカリが丘線の駅として昭和57年(1982年)に開業した。この日は地元のマーチングバンドが駅前の広場で発表会を行っていた。


ユーカリが丘の特徴でもある「山万ユーカリが丘線」は、ユーカリが丘ニュータウン内をラケット状に移動することの出来るAGT路線(自動で移動する中型車両の軌条式路線)である。遊園地のアトラクションにも似たこの路線により、ユーカリが丘を一周15分程度で周回することができる。また不動産会社が鉄道事業に参入する事例が珍しいだけでなく、「女子大駅」「中学校駅」などの何とも言えないネーミングの駅があることでも知られている。山万の長期的な都市開発は、「循環型社会創出活動」としてグッドデザイン賞を受賞するに至っている。

本日はユーカリが丘線を1周した後、京成電鉄で帰路についた。

2020/05/14

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day3 その②



右手の高い壁は陸上自衛隊習志野駐屯地のもの。明治5年(1872年)に陸軍練兵所がこの場所に設置されたことに始まる。


習志野駐屯地には習志野演習場が併設されている。陸上自衛隊第一空挺団が所属することで有名で、1月に行われる降下訓練はじめには多くの見学者が訪れるという。


演習場の境で船橋市から八千代市へ突入する。さくら八幡公園の一角に有縁無縁仏が置かれていた。卒塔婆と献花は比較的新しい。


県道57号との分岐点、ガソリンスタンドの前に享和3年(1803年)建立の血流地蔵道の道標がある。八千代市吉橋にある貞福寺の本尊・血流地蔵尊への案内を示したもので、天文6年(1537年)の吉橋城落城の際、この地蔵を本尊として貞福寺を建立したと伝わる。長年頭しか出てない状態で埋まっていたが、平成12年(2000年)に掘り起こされ、分断していた下の部分も発見された。


同じ交差点の街道を挟んで向かい側には成田山の道標がある。「成田山是より七□ き□□道吉橋 一リ塚□□」と刻まれているという。真ん中に修復跡がある。


新木戸八幡神社に立ち寄る。神社の創建は不明だが、境内には多くの石仏が並んでいる。中でも子安講が建てた7基の子安観音像(写真奥)は、天保3年(1832年)のものから平成19年(2007年)と最近のものまである。「おいぬ」「おきぬ」など各像に名前が付いているのも珍しい。


その少し先、街道沿いに大量の石碑が並べられている一角がある。馬頭観音コーナーには馬のイラスト入りの馬頭観音が置かれていた。日露戦争で出征した馬の墓を兼ねているのだろうか。


こちらは出羽三山碑コーナー。千葉県は出羽三山講(奥州講)が盛んな土地で、特に八千代市では今でも集落ごとに奥州参りを行っていたりする地域もあるという。女性が中心であった子安講に対して、遠征を伴うこともあり奥州講は男性が中心で行われる。


奥には神明社があり、この石碑群が神明社の境内にあったことがわかる。


工業団地入口の交差点に慶応元年(1865年)建立の「おたきさん道標」がある。船橋市金杉にある御滝不動尊(金蔵寺)への道を示したもの。


路傍の地蔵に目が留まった。実はこの右側に一本松石造物群があったのだが、一般の墓だと思いスルーしてしまった。佐藤家墓地の中に佐倉藩士小柴宣雄と長男小次郎の墓があるという。小柴小次郎は佐倉藩を脱藩して会津戦争に参加し、慶応4年(1868年)に戦死した人物。


路傍に十九夜塔と子安塔がまとめられている。この辺りの地域の子安講の信仰の篤さが伺える。幕末の名主・小林左圓司を祀った筆子塚が隣りにある。


庚塚バス停の前に道祖神が祀られている。ここが大和田宿の西の端にあたる。大和田宿は西の大和田村、東の萱田村からなる宿場。最盛期には旅籠が約10軒、一ヶ月に1400人(うち成田詣の客が900人)の宿泊客でにぎ


寛永3年(1626年)の建立とされる長妙寺に立ち寄る。徳川家康の側室・お万の方が開設した飯高壇林(匝瑳市飯高)へ向かうため、江戸から一泊二日の行程でちょうど中間地点であることから、宿泊寺としても機能していた。

また境内墓地には八百屋お七の墓がある。お七は八千代市の生まれとされ、天和3年(1683年)に放火の罪で火あぶりの刑となった人物。放火のきっかけとなった恋模様を描いた創作が、江戸時代から現代に至るまで歌舞伎、映画、歌謡曲など様々な形で取り上げられているので、知っている人も多いはず。個人的には坂本冬美の『夜桜お七』が好き。


明治天皇行在之所碑がある。習志野原での天覧演習の際、ここにあった大沢家で休憩したというが、現在は家はなく碑が残るのみである。


その先の脇道の入り口に、草に埋もれた道標がある。天保4年(1833年)の道標で「可やた山 いつ奈大権現道 是より十二丁」と刻まれているという。飯綱大権現は長野県飯綱山を発祥とする修験道の神で、この道標はそれを祀った萱田飯綱神社への道を示したもの。


薬師寺へ立ち寄る。由緒がわからず、境内も不思議なまでに開けていて、ほぼ廃寺同然のような状態にみえた。


ここでも境内に女人講の石碑が多数あった。

2020/05/12

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day3 その①



千葉県西部を代表するターミナル駅・船橋駅前より3日目開始。まずは船橋宿の現在の様子を見る。

船橋宿は西から海神村・九日市村・五日市村からなる宿場で、九日市村に問屋場が置かれていた。成田詣の流行以降に宿場として認められ、特に飯盛女は「八兵衛」の隠語で江戸でも有名になった。成田詣と偽って、実際は船橋の飯盛女が目当ての旅人も多く、成田街道最大の宿場にまで発展した。

千葉銀行船橋支店前に明治天皇船橋行在所の碑が置かれている。明治天皇が初めて千葉県を訪問した明治6年(1873年)、船橋町九日市の現在地にあった旅館・桜屋で昼食を取って以降、千葉方面訪問の度によく利用する場所となった。


船橋駅近くの水戸佐倉道・成田街道は「本町通り」の通称がある。その通り沿いにいくつか古そうな建築物があるが、その一つが江戸時代初期創業の駄菓子屋・ひろせ直船堂である。

大正7年(1918年)の木造二階建て切妻造瓦葺で出桁造の建物は、戦争によって資金がなくなってしまい、建物の建て替えができなかったことが功を奏し、船橋市の景観重要建造物に指定されるに至っている。


ひろせ直船堂の向かいにある森田呉服店も古い建物である。江戸時代末期に創業し、建物は明治5年(1872年)の二階建て商家建築である。今でも手ぬぐいなどを販売している。


森田呉服店の隣には、厳島神社がこじんまりと鎮座している。詳しい創建については不明だが、宮島から勧請され、古くから弁天様として親しまれていたという。船橋は古くから漁業で栄えていたこともあり、宗方三女神を祀って航海の無事を祈ったのだろうか。


船の先端がオブジェとして飾られている海老川橋を渡る。ここに船橋発祥の地碑が設置されている。今渡っている海老川は、かつては川幅も広く、水量も多かったことから橋を架けることが難しく、代わりに船を横一列に並べて繋いで橋として利用したことから「船橋」の地名が起こったという。この橋より先が旧五日市村となる。


商店街を抜けた先の小山が、船橋大神宮こと意富比(おおひ)神社である。神話ではヤマトタケルの東国平定の際に、干ばつに苦しむ民衆のために天照大神を祀って祈願したことを創建としており、式内社として古くから存在していた神社である。


本殿は江戸初期に徳川家康によって寄進されたが、戊辰戦争で重要な書物とともに消失してしまった(船橋戦争)。その後、明治6年(1873年)に造営され、改修を繰り返して今に至っている。


西福寺の前には庚申塔がいくつか鎮座していた。江戸時代には「境内七反歩(約7,000㎡)」の広さだったこの西福寺もまた、戊辰戦争によって本堂が消失している。


大神宮北側の宮坂を登り、県立船橋高校の校舎を横目にグラウンド前に差し掛かると、路傍に小さい祠があった。馬頭観音などを祀っているようで、往時は宮坂も急坂で馬にはきつい坂だったかもしれないことを思い知らされる。


中野木交差点の一角に、庚申塔を集めた祠がある。文字が摩耗して見えなくなっているものがあるが、天保5年(1834年)と享保18年(1733年)の庚申塔があるという。


中野木交差点を越えると、街道は国道296号に合流する。すぐ右手あるのが徳兵衛地蔵堂。安政年間に疫病が流行った際、地元も名士が西福寺に土地を寄進した代わりに授かったものだそう。堂宇は昭和43年(1968年)に建てられたもの。
この地蔵堂の南側はJR東日本の車両基地になっており、地蔵堂の敷地の一部は車両基地建造のため売却したという。中野木交差点からこのお堂までの区間だけ習志野市であり、この先から再び船橋市になる。


成田街道入口という交差点を左折する道が水戸佐倉道・成田街道。直進する道は東金御成街道で、実は船橋宿の西向き地蔵からここまでは水戸佐倉道・成田街道と重複していた。東金御成街道は、慶長18年(1613年)に徳川家康が整備を命じた道で、将軍家の鷹狩場であった東金御殿までを直線的に結んでいる。
追分でもあるこの地点には、輪宝付きの立派な道標が建っている。明治12年(1879年)の比較的新しい道標である。


追分からすぐ左手に庚申塔群と安永6年(1777年)の成田山道標が置かれている。成田山道標の正面には「右なりた道」右側面には「左とうかね道」と刻まれているという。


前原東五丁目交差点の左手に道入庵がある。1873年(明治6年)に前原尋常小学校(現在の船橋市立前原小学校の前身)が境内で設立された。1675年(延宝2年)建立の延命地蔵は、二宮小学校前より移設したもので、前原新田を開拓したときにあったという聖徳太子作と伝わる地蔵の代わりに作られたものだという。


長い参道が特徴の御嶽神社に立ち寄る。1676年(延宝4年)創建の前原新田の鎮守だというが、1715年(正徳5年)に前原新田を開拓した上東野新助が江戸で買った蔵王権現像を祀ったことに始まるという話もある。


前原東と滝台の境に石碑が置かれている。この石碑の詳細は不明。滝台は古くを滝台新田といい、前原新田と同時期の延宝年間に開拓された土地である。


不明な石碑と道を挟んで向かい側に馬頭観音碑が4基並んでいる。一番右は寛政5年(1793年)のもので、これだけ馬頭観音像が彫られている。石碑に囲まれるこの道は、は木下(きおろし)道と伝わる。利根川の木下河岸(現在の印西市木下)は銚子からの物資輸送などで繁栄した場所である。


船橋市二宮出張所の街道を挟んで反対側に、二宮町道路元標があった。明治22年(1889年)に千葉郡滝台新田、薬園台新田、三山村、多喜野井村、前原新田、上飯山満村、下飯山満村が合併して二宮村が成立した。村名は三山村にある二宮神社に由来する。昭和3年(1928年)に町制施行し、二宮町になった。昭和28年(1953年)に船橋市に編入したため、二宮という名前は小学校名などに残るのみとなっている。


明治27年(1894年)に岩田長兵衛が建立した成田山道標がある。この人物は街道沿いに5基の道標を建立している。


薬園台公園・船橋市郷土資料館の向かい側にひっそりと天明3年(1783年)の道祖神がある。道祖神の脇の道が旧道で、この場所は薬園台集落の東端にあたるようだ。

薬園台公園内には明治天皇駐蹕之処の碑があり、明治6年(1873年)が小金牧の一部(大和田原)で近衛兵の演習を天覧した際、この場所を「習志野原」と命名した。現在の「習志野」の地名の発祥である。