気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
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2013/12/22

名所江戸百景:四つ木通用水引ふね -「足」が変わる町-



前回のエントリーで四つ木について取り上げたので、名所江戸百景から「四ツ木通用水引ふね」を紹介したい。

■作品概形

四ツ木通用水を「サッパコ」と呼ばれる船が行き来している様子を描いた一枚。
サッパコとは人力で引いて進む舟のことで、亀有村から篠原村(現在の四ツ木)までの区間で運行していた。
※四ツ木通用水、サッパコについては「小梅堤」でも記述しているので、そちらを参照していただきたい。

作品をよく見ると、奥の方に船着場が見て取れる。
筑波山が遠方に見えることから、篠原村側から亀有の船着場方面を臨んだ風景と考えられる。

この作品では広重が得意とする「風景を創造する」技法も満載である。


上の地図は1890年(明治23年)発行の東京市區改正全圖から引用している。
右側が北になっているので注意して見て頂きたいが、中央に「四ツ木村」・「篠原」の文字が確認できる。
地図の左上から右下にかけて四ツ木通用水こと曳舟川が流れており、四ツ木村の辺りで中居堀と分岐している様子がわかる。

一見すると、四ツ木から北東の区間で川幅が太くなっているように見えるが、目を凝らすと川の中央に「しきり」のようなものが確認できる。
実は中居堀と曳舟川はぴったりと寄り添うように平行して流れており、この流れは地図のさらに右方、亀戸まで続いているのである。

ここで疑問が浮かんでくる。
篠原村から亀戸方面を臨んだ風景を描こうとすると、普通は曳舟川と中居堀の2本の川が目に飛び込んでくるはずである。
しかし広重はあえて一本の流線に絞り、風景を描いている。
また、実際の河川の線形は極めて直線に近いものであるにもかかわらず、広重の絵には曲がりくねった流線が描かれている。

事実とは異なる風景ではあるが、あえて現実には存在しない風景を描くことで、川のダイナミックさを演出することに成功している。

■交通の移り変わり

時を遡ること西暦645年。
中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我氏を打ち倒し、日本の政治制度を大きく変えることとなった「大化の改新」が始まった。
(※最近の歴史の授業では646年になっていたり、そもそも大化の改新なんてなかったという説もあるようであるが。。。)
改革の主要なテーマである「律令制」とそれに伴う「国郡制度」により、日本全国に「国」と「郡」が配置された。
このとき、地方の支配をより強靭にし、各地の情報伝達を円滑するために設置された幹線道路の一つが「古代東海道」である。
(古代東海道については別エントリ「立石」で紹介しているので、そちらも参考にして頂きたい。)


上の画像は大正8年発行の「1/25000 東京首部」から引用したものである。
四ツ木の集落が東西にまっすぐ伸びる古代東海道沿いに形成されているのがわかる。

南西の空白地帯は、大正2年から始まった荒川放水路の工事によるもので、まだ水が流れていないため一部の道路などが残されている状態である。

また、大正元年に開業した京成電気軌道(現在の京成鉄道)の線路が綾瀬川を渡って古代東海道にそって伸びているのがわかる。
さらに古代東海道に差し掛かるカーブの箇所に四ツ木駅が設置されている。
四ツ木駅大正元年に設置されたが、荒川放水路の開削に伴って大正12年に移動され、現在の京成押上線四ツ木駅の位置に落ち着いている。

大正後期になるとモータリゼーションの波が押し寄せ、主要な幹線道路計画が急ピッチで進められたが、荒川放水路の開発や戦後の混乱などで、東京の中心側・墨田区と四ツ木間の道路による繋がりが寸断されていた時期もあった。

大正11年には、四ツ木橋が現在の木下橋と京成押上線荒川架橋の間あたりに架けられたが、幹線道路と直接結ばれていなかった。その後、現在の国道6号線にあたる部分の開発が進み、昭和27年に永久橋(現:四ツ木橋)が竣工し、四ツ木を通過する主要道が整備されることとなった。また、昭和48年には新々四ツ木橋(現:新四ツ木橋)が国道6号線に平行する形で整備され、渋滞の緩和に一役買っている。

かつては「古代東海道」の経路として、江戸時代には曳舟による水運観光の拠点として、近代には鉄道や車による交通の中継地として、その役割を時代によって面々と変化させているこの街には、日本を支える「縁の下の力持ち」的な哀愁を感じさせられる次第である。


2013/12/11

四つ木でキャプテン翼に会ってきた


今年の春、葛飾区四つ木にキャプテン翼の銅像が建てられた。

なんでもキャプテン翼の作者・高橋陽一氏が生まれ育ったのが四つ木なのだという。
しかも未だに四つ木在住とのこと。

また、キャプテン翼に登場するキャラクターたちが幼少期を過ごした「南葛小」・「南葛中」は「南葛飾」に由来しているようである。

そんな郷土愛豊かな高橋陽一氏が、念願かなって地元に銅像を残す機会を得たのである。

目的地へは四ツ木駅の北口を出て、北口商店街「まいろーど四ツ木」を道なりに進む。
コンビニを左手に曲がると「西光寺」の門が見える。
この西光寺も非常に興味深い寺院なので、機会があれば取り上げたいが、今回はその隣にある開けた空間にフォーカスをあてる。

葛飾区四つ木1丁目22、その名も「四つ木つばさ公園」の敷地内。

最近まで保育園があった土地を、災害避難時に利用できる公園として整備したそうだ。

肝心の翼くんはこんな感じ。


笑顔が眩しい。銅像だけど。
そしてお友達のボール君もちゃっかりご一緒。

今後は他のキャラクターの銅像も設置していく方針だとか。
亀有の両さんと共に葛飾区を盛り上げてほしいものです。


2013/10/20

帝釈道 〜帝釈天で産湯を浸かりにいこう〜


前回のエントリー(http://rekisanpota.blogspot.com/2013/09/blog-post.html)で立石をぶらぶらしていた私だが、立石様の辺りを徘徊していたとき、中川沿いの道端にぽつりと佇む一基の道標に出会った。

正面には大きく「帝釋天王」と彫られている。
横側には「文政三(=1820年)庚辰歳四月」の文字が見て取れる。

このあたりで「帝釋天(たいしゃくてん)」といえば、言わずもがな、「柴又帝釈天」こと「題経寺」のことを指す。

つまりここから帝釈天へ通じる道があったというわけである。

そこで一体どのようなルートを辿って人々は帝釈天へ向かっていたのかを調査してみた。
参考にしたのは以下のような媒体。

・東京スカイツリー(R)ビューマップ 葛飾今昔まちあるき
http://www.katsushika-kanko.com/katsumaru/news/r/
神さま仏さま探訪記ーご利益をたどれば日本人が見える(著:小松美保子)



江戸から帝釈天へ向かうルートは主に2つあったとされる。

一つは、水戸街道を利用して千住→新宿(にいじゅく)、新宿で水戸街道を離れ国分道を利用して帝釈天へ向かう方法(緑のライン)である。

もう一つは、浅草から吾妻橋を渡り、曳舟を抜けて四つ木の渡しを越え、(おそらく立石道を通って)立石、そこからは諏訪野の渡しもしくは曲金の渡しを利用して中川を渡り、帝釈天へと至るルート(オレンジのライン)である。

ちなみに、立石からはより中川沿いを行く「帝釈枝道(青のライン)」も整備されていたようだ。帝釈枝道は諏訪野の渡し付近で帝釈道と合流しており、そこからは帝釈道と共通のルートを辿るようである。

今回発見した道標はオレンジのラインの起点にあたる道標で、立石道との追分地点に置かれたものと推定される。

この近辺には、他にも帝釈道の名残を示すものがいくつか点在するという話なので、後日追取材をしてきた。

□福森稲荷神社内の道標


オレンジのラインと青のラインの合流した辺りに、福森稲荷神社が鎮座している。
この神社は寛政8年(1796年)に創建されたとされているが、その敷地内に「帝釋天王通」と彫られた道標が置かれている。
この道標自体は安政3年(1856年)に建立されたもので、当時この場所付近にあった「諏訪野の渡し」を利用する参拝客に向けたものではないかと考えられる。

□新宿の道標


緑のラインこと「国分道」の入り口に、「帝釋道」と記された道標が立っている。
この道標は、明治30年(1897年)に建立されたもので、指文字が国分道(写真のさらにん右手に伸びる)を指しているのが特徴的である。
ちなみに写真右側に見切れているのは旧水戸街道である。

帝釈詣は江戸期から明治、そして現在までも人気のアクティビティとなっている。
時代の変化に伴って、交通も徒歩から人車・電車・車と変化してく様が、この近辺では見られるのが面白いところであったりする。


2013/09/16

立石様とみちしるべ〜古代東海道を辿る〜



「立石」と聞いて、最近では「立石バーガー」を想像する人が(巷では)多いらしい。
今回はそんな葛飾区を代表する下町「立石」に赴いた。

そもそも私が立石に興味を持ったのは、「古代東海道」の存在からだった。
東海道の説明はそれだけで何エントリーも費やせる自信があるので、ここでは概要だけ説明する(大抵のことはWikipediaさんが詳しく知っている)。

■古代東海道と立石


東海道と聞けば、東海道新幹線あるいは東海道線を思い浮かべる人が多いかもしれない。
この記事を見るくらい物好きな方のことだから、江戸時代に徳川家康が江戸ー京都間で整備した道である、いわゆる旧東海道を想像する人もいるだろう。
しかし、今回取り上げる「古代東海道」は、それよりもはるか古く、奈良・平安時代に整備された道である。当時の道の役割は、国府(地方を司る役所)間の情報伝達を円滑に進めるために整備されたものである。現在の埼玉・東京・神奈川の一部に及ぶエリアは武蔵国と呼ばれ、その中心・武蔵国府は現在の府中辺りに置かれた。また千葉県北部・東京の東側の一部等は下総国と呼ばれ、その中心・下総国府は現在の市川市・国府台辺りに存在していたとされる。
この国府間には中継地となる「駅」がいくつか設けられた。立石は武蔵国豊島駅(場所については諸説あり)と下総国井上(いかみ)駅(現在の市川市辺りとされる)の中間地点に当たる。

立石付近の古代東海道と推定される道筋をトレースしたものを地図に示すと、なんとも綺麗に東西に伸びていることがわかる。国府と国府、駅と駅を効率よく結ぶために、その間の道も直線的に作られたのではないかと考えられている。
古代を代表する主要道沿いということもあり、立石は古くから栄えていた土地のようである。




■「立石」の由来と東海道

「立石」という地名から、「なんかこの辺りにでかい石でも立っているんだろう」と想像するのは容易である。調べてみると「立石様」なるものが存在し、これが立石の地名の由来であるという。立石様とはどんな巨石なんだろうかと胸を弾ませながら現地に向かうと、私の目の前に飛び込んできたのは…。


この真ん中の岩が土から露出しているようなものが立石様だ!

いやいやこの岩全然「立って」いないやないかとツッコミを入れたくなるところであるが、江戸名所図会 第19巻 立石村立石 には、男性のひざ上くらいの高さの岩が描かれており、かつてはより大きな岩として鎮座していたらしいことがわかる。

説明板には次のようなことが書かれていた。

 立石様は、「立石」地名の起こりのともなった石です。岩質は、凝灰岩で表面に貝の生痕を残しているのが特徴です。この石は、房総半島の鋸山の海岸部に産出するもので、本来は古墳時代後期に古墳石室の石材として用いるために運び込まれたものと考えられます。その後、奈良時代以降に官道(古代東海道)の整備の際に目印として転用されたものと推定されます。江戸時代には、「活蘇石」とか「根有り石」と呼ばれ、地下の状況がうかがいしれない大変に不思議な奇石として人々に崇められ、現在に至っています。  
この「鋸山」より産出された石は「房州石」とされている。この房州石は、関東周辺の古墳群の石室の材料として多く使用されている形跡がある。また、近年の調査で立石様の地下には空洞があることが判明しており、立石様自体が古墳の一部なのではないかという説も浮上している。

■「立石」は立石様のことではない?


1884年に記された新編武蔵風土記稿 葛飾郡之四には次のような記載がある。
熊野社 村の鎮守なり。神体は石剣にして長二尺余。村名もこれより起これり。
つまり、熊野社こと「立石熊野神社」のご神体である石剣が立石の由来だというわけである。


立石熊野神社は正式名称を「五方山熊野神社」といい、境内を上からみると五角形になっているのが特徴である。これは陰陽道の「五行説」に由来するもので、陰陽師でお馴染みの安倍晴明がこの社の開基とされている。
熊野神社からも立石様と同様の古墳が見つかっている。この神社のご神体である「石剣」も縄文時代くらいのものとされており、同時期に見つかったものかもしれない。

とはいえ、本当の「立石」はどちらなのか。

立石様にはまだまだ謎が多いようだ。

2013/08/19

桜稲荷神社 〜蔵前橋通りさんぽ②〜



蔵前橋通りを移動中、首都高のほど近くに狭小神社を発見した。
近づいてみると幟も立っており、しっかりと管理がされているような雰囲気。
鳥居には「櫻稲荷神社」の文字が刻まれていた。

中を除くと、狭い路地の奥に本殿が鎮座(?)していた。


昭和59年に記された桜稲荷神社縁起の概要は以下の様な感じ。

大正12年の東京大震災以来、藤堂家にあった稲荷神社が荒廃状態にあった。
これを案じた岡本悟一氏が世話人となり、昭和3年に桜稲荷神社としてこの地に奉じた。
その後太平洋戦争によって一度消失するも有志によって再建され、概ね今の姿になる。
祀られているのは伏見稲荷大明神。(要約) 
とのことである。

ここで出てくる「藤堂家」は、おそらく江戸期にこの地に屋敷を構えていた「藤堂佐渡守」の系譜を指していると考えられる。
藤堂佐渡守は、津藩から別れた久居藩を治め、五万三千石の石高であった。

道を挟んで南側には津藩の藤堂和泉守の上屋敷が構えられており、こちらは現在の「神田和泉町」の由来ともなっている。
当時はこちらのほうがこの地で優位であったと考えられるので、もしかしたら上記の藤堂家は藤堂和泉守の家系かもしれない。

私が写真を撮っている間にもスーツを着たおじさんが拝んでいった。

寺社は地元に根付いてこそのものであることを、改めて感じさせられた次第である。


より大きな地図で 蔵前橋通りさんぽ を表示

2013/07/11

揖取稲荷神社 〜蔵前橋通りさんぽ①〜


蔵前橋通りを歩いたり自転車で通行したりすることが多いので、通り沿いの名所?みたいなものを紹介するシリーズができそうだと思い、やってみる。

蔵前橋から西へ向かっていると、「揖取稲荷神社→」という看板が目に入る。
「いぼとりいなりじんじゃ」とは皮膚系の病気に効力を持ってるんじゃないかと思い、矢印の向きを覗きこんでみると、薄暗い道の影に隠れるようにこじんまりとした神社が佇んでいる。
しかも「いぼとり」じゃなくて「かじとり」とは!
※そもそも病気のイボは「疣」と書きますね。。。

この神社の謂れは以下のようなものである。
慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て屡々遭難あったが或る時稲荷の神の示現を得てより後は航海安全を得る事が出来た。その神徳奉賽の為め稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷と称へ爾来今日に至って居る。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めている。(説明板より引用)
この神社の位置には、江戸幕府最大の米倉「浅草御蔵」があった。
敷地面積が東京ドーム2個分にも及ぶこの米倉の造営には、多くの資源が必要だったに違いない。
土地の埋め立てに必要な土は、近くの鳥越神社の丘などから調達したようであるが、さすがに石は確保できなかったため、遠方から取り寄せたのであろう。
とはいえ、遠州灘といえば波荒れ狂う七十五里の難所である。多くの船が水難に遭ったことは容易に想像できよう。
そんな中、お稲荷さまに救いを求めるとあら不思議、無事に江戸にたどり着くことができるではないか。ありがたやー。

そんなこんなで元和6年(1620年)、ついに浅草御蔵が完成するのである。

ありがとうお稲荷様、というわけで御蔵の敷地内に「かじを取る」神社を奉ることにしたという運びである。


ところで船の「かじ」は普通木偏の「楫」という字を当てるが、何故手偏なのだろうか。
そもそも手偏の「揖」は、古代中国や神道において「礼(おじぎ)」という意味があるようである。
(参考:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/223667/m0u/%E6%8F%96/

調べてみると、「揖取神社」は大阪にも存在しており、こちらも「かじとり」神社だという。
おそらく「楫」に神道に由来する字である「揖」を当てて、霊験あらたかな感じを醸し出そうという流れなのではないかな。

※漢字は違うが、「梶」という字についても「手偏の梶」が存在するようである。
家系の本家と分家を区別するために用いられたという例があるらしい。

(参考:https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&ldtl=1&dtltbs=1&mcmd=25&st=update&asc=desc&state=2200000033&id=1000076693

こんなこじんまりとした神社だが、一つ見所がある。
それは、神社の脇にある貝殻アート。

誰が制作しているかまでは解らなかったが、定期的に絵柄が変わるようである。
(今回の絵柄は、ちょうど富士山が世界遺産に登録されたからだろうか。)
時期や季節を表現した内容が多く、この神社の風物詩となっているようで。

小さな神社だからこそ、町内に根付いた信仰を集めているのではないだろうか。



より大きな地図で 蔵前橋通りさんぽ を表示

2013/05/20

名所江戸百景 -近像型構図について-


名所江戸百景を語る上で外せないのが、「近像型構図」というキーワード。

名所江戸百景の作品群を眺めてみると、その独特な構図が浮き彫りになる。
その顕著な例を以下に並べてみた。
左は「水道橋駿河台」、右は「日本橋江戸ばし」である。
どちらの絵も、手前に大きく物体が置かれ、奥に町並みが描かれている。
このように手前と奥のものを極端に書き分ける「対比の構造」こそ、名所江戸百景作品の特徴である。
名所江戸百景では、近像型構図を取り入れている作品が約50作品ある。

ここでこの構図について疑問に思うことがある。
①なぜ広重はこの表現手法を用いたのか
②「名所」江戸百景であるのに、名所風景では無い「物体」がメインに置かれるのは何故か

これらについては方々で諸説あるが、ここでは私の見解をまとめてみたい。

①近像型構図の果たすもの


この構図の作品を見たとき、人々はそこに「迫力」を感じる。
この視覚的効果を感じる理由は、遠近の対比によるもの言うよりは、遠近の対比によって生じた「何か」なのではないかと考える。

それは「複数の主題」であり、さらにそれがもたらす「アンバランス性」なのではないか。

例えば、上に示した「水道橋駿河台」が目に飛び込んできたとき、視点は間違いなく中央手前に描かれた鯉のぼりを捉えることになる。
しかし、すぐ後ろに視線を移すと、この場所から見える風景が目に入る。
さらにその奥には富士山が臨めるではないか。
ここまでの一連の視線の動きのあと、見ている者は、どの部分がこの作品の主題なのかわからなくなってしまう感覚に襲われる。
ここでこの作品のバランスが崩れ、不安感が込み上げてくる。
これが、複数の主題がもたらすアンバランス性である。

このアンバランス性は、作品の印象を大きく揺り動かす。
メインディッシュが何であるかが明確に捉えられないためである。

この技巧のお陰で作品に深みが増し、いわゆる「迫力」を生み出すことに成功している。

②風景を「あえて」凝視させない理由


名所江戸百景が震災復興の意味を持っていることは別のエントリーで述べた通りである。
作品が描かれたのは震災の翌年以降で、復興が進んでいる場所もあれば、未だ完全復旧に至っていない場所も多く存在した。
顕著な例を2つ紹介する。

一つ目は、左側「糀町一丁目山王祭ねり込」である。
近像型構図が用いられており、手前にクローズアップされた山車が、山王祭の迫力を物語っている。
広重が切り取った風景は、山車が半蔵門から入場していく様であると考えられるが、肝心の半蔵門については具体的に描かれていない。
この理由は、当時の半蔵門が、地震によって損壊していたためだという説がある。
山王祭が開催できるほど復興が進んだものの、半蔵門の完全復旧までには及ばなかったため、意図的に隠しているということである。

2つ目は、右側「神田明神曙之景」である。
山王祭と並んで、神田祭は隔年交互に催され、「天下祭」として盛大に執り行なわれていた。
また、神田明神は眺望の名所としても知られており、画面の奥には本郷台地から東側を臨んだ町並みが広がっている。
しかし、どうにも手前の松が邪魔である。
このワケは、奥に見える町並みをじっくりと見て欲しくないためであると考えられる。
神田周辺は、震災の影響を大きく受けた地域でもある。
そのため、この絵が描かれた当時は復興真っ只中であり、美しい町並みが完全に復旧できていなかったと考えられる。
あえて手前に注目物を置くことで、町並みを遠景に留めることに成功している。

このように、広重の「近像型構図」には、美術的観点や印象操作だけでなく、のっぴきならぬ理由によってこの構図を採る必要があったという点にも注目である。






2013/03/27

名所江戸百景 考察


名所江戸百景の個別の作品についてまとめ始めたら、そもそも「名所江戸百景」がどういう作品なのか、その全体像をあまり把握していないことに気づいた。
これではマズいということで、改めて名所江戸百景どのような作品なのかについて調べてみた。

※(追記)読み返してみたら「考察」成分がほとんどなかった・・・。

「名所江戸百景」は歌川広重によって制作された連作浮世絵名所絵である。
と、某Web百科事典にはあった。
大体のことはそちらを参照して頂ければ十分なので、ここではその補足的な内容を添えて記述しようと思う。

歌川広重と言えば、言わずと知れた江戸時代を代表する浮世絵画家である。
彼の代表作と言えば、これまた言わずと知れた「東海道五十三次」であり、この作品を期に彼の名は日本中に広まることとなった。

そんな広重の晩年の作が「名所江戸百景」である。
名所江戸百景は、安政3年(1856年)から安政5年(1858年)にかけて制作された作品で、118枚の絵から成る。あれ?100景じゃないの?
(119枚目の絵として「赤坂桐畑雨中夕けい」が存在するが、二代広重の落款が押されており、シリーズには含めないのが通例となっている。)

118景の作品は、春夏秋冬4つの季節毎に分けられており、春には梅が、冬には雪が、江戸の風景に季節感を添えている。

しかし、晩年の策であるが故、すべての作品を生前に書ききることが出来ず、一部の作品は二代広重(歌川重宣)の手が加えられている。改印が安政6年4月となっている、
12.「上野山した」
41.「市ヶ谷八幡」
115.「びくにはし雪中」
がそれにあたるとされている(広重は安政5年9月に死去)。

広重の死後、1870年頃からは、フランスを中心に「ジャポニスム」と呼ばれる日本を趣味とする風潮がヨーロッパで広まり始めた。
とりわけ広重の作品は、日本の浮世絵を代表する作品として認知されており、多くの画家が名所江戸百景に興味を持っていたようである。
有名どころでは、ポスト印象派のフィンセント・ファン・ゴッホが、「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。
わざわざ半透明の紙に油絵でトレースする熱の入れようで、その後のゴッホ作品における「輪郭を強調する」作風に強い影響を与えたとされる。

わずか3年弱に100余枚という速いペースで版画を出版していくことがどれだけ大変か計り知れない。
その背景には、町民の絶大なる支持があったことには間違いない。
その一つの理由として、この作品が安政2年(1855年)に起こった安政の大地震(安政江戸地震)からの復興の意味を持っているということが挙げられる。
この地震では、江戸だけで死傷者1万人以上という大きな被害を受けた。
多くの建物が倒壊し、その中にはこれまで江戸で名所とされていた場所も含まれていただろう。
その大地震の翌年、まだ再建が終わっていない土地も多く残っていたと考えられる。
そのため、これまでの名所絵にはほとんど登場しなかったような場所が、新たな江戸の名所として取り上げられているのがこの作品の特徴でもある。
実際、これまで名所として登場することの無かった場所が50点近くあるとされている。
また、再建が終わった直後の様子を切り取った作品も散見される。
このように、広重はシリーズを通して、これからの江戸の復興の想いを絵に込めたのであろう。

そう考えると、広重の驚異の出版ペースも納得できる。
まだ絵が描けるうちに江戸と江戸町民に活気を与えよう、そう躍起になっていた熱意の現れこの作品を特別な作品へと仕立て上げているのではないだろうか。

2013/03/13

名所江戸百景:柳しま -流行の移り変わり-


名所江戸百景 第32景 柳しま 1857年(安政4年4月)(ブルックリン美術館所蔵)
今回も、名所江戸百景より、「柳しま」を紹介したい。

■作品概形
「柳しま」は墨田区にある北十間川と横十間川の交点を描いた作品である。

北十間川は絵を左右に横切るように描かれており、東(絵では右)に辿ると中川(現在は旧中川)に流れ着く。西(絵では左)に辿ると源森川を経由して隅田川まで行くことができるが、当時は隅田川の氾濫が多かったとこもあり、源森川と北十間川の間には堤が築かれていた。これが「小梅堤」だったりする。
横十間川は大横川に通じる水路で、どちらも舟運において重要な役割を担っていた水路だったことが絵からもわかる。

ちなみに川幅が十間(18m)であったことから、北十間川・横十間川という名前がついている。北十間川は本所の北側を流れ、江戸切絵図の北端でもあった。横十間川は江戸城に対して横向きに流れているためその名がついている。

絵の右端には、柳島橋が描かれており、その袂には、二つの建物がある。
道を挟んで手前にあるのは「法性寺(ほっしょうじ)」。江戸切絵図を見ると、横に「妙見」と添え書きされている。
法性寺の本尊は「北辰妙見大菩薩」であり、「柳嶋の妙見さま」として有名であった。
特に芸能や芸術に従事する人の信仰が厚かったようで、市川左団次(明治座の初代座元)や中村仲蔵(古典落語「中村仲蔵」の元ネタにもなった役者)などが開運したという話がある。
中でも、葛飾北斎が信仰していたことで知られ、彼が当初「北斎辰政(ときまさ)」と名乗っていたのは、北辰妙見信仰によるものと言われている。

柳島橋の袂、道を挟んで奥にあるのは「橋本」という高級料亭である。
橋本は若鮎が有名な料亭で、この「柳しま」が春の部に入れられているのは、若鮎が春の季語であるからという説もある。
橋本は「橋本又兵衛」という正式名称?だったため、柳島橋は「又兵衛橋」と呼ばれて親しまれていたという話もある。

絵の奥には、筑波山が描かれている。
実際の位置はより東側(画面右)なのだが、広重の構図センス的にはこの位置がベストという判断だったのだろう。
田園風景の中にそびえる筑波山の出で立ちは、なかなか迫力があるものである。

■現在の「柳しま」
この絵が描かれた辺りには「向島」「京島」など、「島」とつく地名が点在する。
この辺りは河川の氾濫に悩まされた土地だった。その中でも比較的常時水に浸からない土地には人が住居を構えるようになり、「〜島」という集落となった。
柳島もそんな集落の一つであったが、1930年から31年にかけての本所区の再編により、行政町名としての「柳島」は消えてしまった。

そもそもこの辺りの風景は関東大震災を期に大きく変わってしまった。
芥川龍之介が昭和2年に出版した「本所両国」という著書の「柳島」という章には次のような記述がある。
名高い柳島の「橋本」も今は食堂に変つてゐる。もこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども硝子へ緑いろに「食堂」と書いた軒燈は少くとも僕にははかなかつた。
少なくとも大正から昭和に変わる頃には、栄華を極めた料亭の姿は無かったようだ。


もう一つの観光スポット法性寺についても、現在はコンクリートに囲まれた状態となっている。
この地域は戦後、住宅の延焼が危惧されたため、広域避難地域として区画整理されることとなった。
住民の移住が求められたが、地元を離れたくない住民が多くいたため、法性寺の敷地内にマンションを建設し、コンクリートで囲むことで、燃えにくい住居を確保したという経緯があったためである。

北辰妙見についても、お堂の中に安置されており、法性寺は非常に近代的な印象を受ける寺となっている。
境内には北斎関連の資料がいくつか置かれており、寺を挙げて北斎を推している様子が窺える。




広重が絵を描いた地点の辺りの現在の様子。
川の左にある木が生えているあたりが法性寺、水色の橋の奥に隠れているのが現在の柳島橋である。
俯瞰から風景を描くという広重版画の特徴が如実に表れていることがわかる。

現在ではこの一帯は住宅街や団地となっており、参拝や食事目当てで訪れる人はほとんどいない。
むしろ近くのオリンピック(スーパー)を利用する車と人の往来が多く、一定の賑わいを見せている。
また、柳島橋の少し西、十間橋は北十間橋の水面にスカイツリーが映る「逆さスカイツリー」の名所として、プチブーム到来中である。

流行り廃りは移り変わるもの。とはいえ、流行の遷移をこんなに近くで感じることになるとは、妙見様も100年前には思わなかっただろう。



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2013/02/18

名所江戸百景:小梅堤 -梅のある風景-


名所江戸百景 第104景 小梅堤 1857年(安政4年2月)(ブルックリン美術館所蔵)
今回は広重の作品の中でも、当時の江戸の情景を如実に 表していることで知られる「名所江戸百景」から、それほど有名でない「小梅堤」を紹介したい。

なぜこの作品なのか。
それは、私の住まいがこの作品が描かれた地の近くであるからに他ならない。しかし、調べてみるとこの一枚には様々な情報が含まれていることがわかった。

■作品概形
広大な田園風景が広がるこの地は、現在スカイツリーがある押上・向島の風景である。
平坦な土地で、川が増水すると水浸しになってしまうので、人が住めたのはごく一部だったようだ。

この絵に描かれている水路は、「四ツ木通用水」。元々は亀有上水や本所上水、小梅上水とも呼ばれていた水路だが、1722年(享保7年)に近辺の再開発に伴って上水が廃止されたものである。「通用水」ということからもわかるように、この水路の上流では、舟を使った交通路としてその役割を果たしていた。
普通の舟なら、櫓(オール)を漕いで進むところだが、この川は櫓で漕ぐには不向きだったため、舟の先頭に棒を立て、そこに縄をくくったものを陸から人力で引っ張って舟を動かしていた。
この舟は「サッパコ」と呼ばれ、お金に余裕のある人の移動手段かつ一種のアクティビティとなっていた。

小梅堤は、この通用水の両岸にある堤のことである。
そもそもこの地は当時「小梅村」と呼ばれ、隅田川の東岸にある三囲稲荷や料亭小倉庵などで有名な村であった。小梅村にある堤なので小梅堤ということだ。
対岸の堤には人の往来があることがわかる。というのもこの道は水戸街道の脇道として利用されており、西は浅草、東は柴又帝釈天へ向かうのに利用されていたという。

小梅という地名からもわかるように、この辺りは梅の名所だった。特に手前の橋の右側には八段(約8平方km)の広さに渡る梅林があった。そのため手前の橋は「八段(目)橋(八反(目)橋)」と呼ばれた。その向こうには庚申橋、七本松橋が臨める。

■現在の「小梅堤」
四ツ木通用水はサッパコによって移動する風景から、江戸から明治にかけていつしか「曳舟川」と呼ばれるようになった。しかし1954年(昭和29年)、下水道の整備に伴った曳舟川埋立事業により水の流れは消えた。
暗渠となった後は、向島界隈の主要道路としてその役目を果たしていたようだ。現在、押上2丁目から八広6丁目までの区間は、「曳舟川通り」という通称で親しまれている。

小梅村についても、1889年(明治22年)の市町村合併で、本所区に組み込まれ、向島小梅町、新小梅町、小梅瓦町に姿を変えた。さらに1931年(昭和6年)に小梅1〜3丁目に改変され、ついに1964年(昭和39年)向島と押上に名前を変え「小梅」の文字は地図から消えた。
とはいえ、町中には「小梅小学校」「小梅稲荷」など、小梅の文字が数多く残っている。曳舟川通りの一本北側の道は「小梅通り」という道路通称がある。
さらに2011年、墨田区の道路通称として「小梅牛島通り」が新しく制定されるなど、「小梅」という言葉の愛らしい響きは地元民の心をがっつり掴んでいるようだ。


広重が描いた風景は、現在でいう向島1丁目と向島2丁目の境から向島2丁目方面を望む方向であると考えられる。梅の木が描かれた方向には、スカイツリーが臨める。
この位置からだとてっぺんを見上げると、かなり首が痛い。江戸時代の人々も、こんな風に空を仰いで梅を鑑賞したのだろうか。

あんまり上手くないオチだが締めさせて頂く。


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2013/02/13

はじめに


皆さんは、自分が住んでいる土地のことをどれだけ知っているだろうか。

住んでいる場所がどういう役割の土地なのか。

住所や最寄りの駅名の由来は何なのか。

道路がなぜこのルートを選んで作られたのか。

この公園がある場所は昔どんな場所だったのか。

皆、特に興味も無いし、知りたいとも思わない。
それだけ周囲の環境に私たちが溶け込んでいるのかもしれない。

でも、何か悲しい。

残された過去の痕跡は、そこに「歴史」があることを示している。
これらの痕跡は、発見されるのを待ちわびている、と私は勝手に思っている。
じゃあその声に応えてやろうじゃないか。

と御託を並べたものの、そんなに歴史の知識があるわけじゃない。

「まあ、とりあえずその辺をぶらぶらしてみますか。」

そんなゆるゆるなブログです。



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