名所江戸百景:四つ木通用水引ふね -「足」が変わる町-
前回のエントリーで四つ木について取り上げたので、名所江戸百景から「四ツ木通用水引ふね」を紹介したい。
■作品概形
四ツ木通用水を「サッパコ」と呼ばれる船が行き来している様子を描いた一枚。サッパコとは人力で引いて進む舟のことで、亀有村から篠原村(現在の四ツ木)までの区間で運行していた。
※四ツ木通用水、サッパコについては「小梅堤」でも記述しているので、そちらを参照していただきたい。
作品をよく見ると、奥の方に船着場が見て取れる。
筑波山が遠方に見えることから、篠原村側から亀有の船着場方面を臨んだ風景と考えられる。
この作品では広重が得意とする「風景を創造する」技法も満載である。
上の地図は1890年(明治23年)発行の東京市區改正全圖から引用している。
右側が北になっているので注意して見て頂きたいが、中央に「四ツ木村」・「篠原」の文字が確認できる。
地図の左上から右下にかけて四ツ木通用水こと曳舟川が流れており、四ツ木村の辺りで中居堀と分岐している様子がわかる。
一見すると、四ツ木から北東の区間で川幅が太くなっているように見えるが、目を凝らすと川の中央に「しきり」のようなものが確認できる。
実は中居堀と曳舟川はぴったりと寄り添うように平行して流れており、この流れは地図のさらに右方、亀戸まで続いているのである。
ここで疑問が浮かんでくる。
篠原村から亀戸方面を臨んだ風景を描こうとすると、普通は曳舟川と中居堀の2本の川が目に飛び込んでくるはずである。
しかし広重はあえて一本の流線に絞り、風景を描いている。
また、実際の河川の線形は極めて直線に近いものであるにもかかわらず、広重の絵には曲がりくねった流線が描かれている。
事実とは異なる風景ではあるが、あえて現実には存在しない風景を描くことで、川のダイナミックさを演出することに成功している。
■交通の移り変わり
時を遡ること西暦645年。中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我氏を打ち倒し、日本の政治制度を大きく変えることとなった「大化の改新」が始まった。
(※最近の歴史の授業では646年になっていたり、そもそも大化の改新なんてなかったという説もあるようであるが。。。)
改革の主要なテーマである「律令制」とそれに伴う「国郡制度」により、日本全国に「国」と「郡」が配置された。
このとき、地方の支配をより強靭にし、各地の情報伝達を円滑するために設置された幹線道路の一つが「古代東海道」である。
(古代東海道については別エントリ「立石」で紹介しているので、そちらも参考にして頂きたい。)
上の画像は大正8年発行の「1/25000 東京首部」から引用したものである。
四ツ木の集落が東西にまっすぐ伸びる古代東海道沿いに形成されているのがわかる。
南西の空白地帯は、大正2年から始まった荒川放水路の工事によるもので、まだ水が流れていないため一部の道路などが残されている状態である。
また、大正元年に開業した京成電気軌道(現在の京成鉄道)の線路が綾瀬川を渡って古代東海道にそって伸びているのがわかる。
さらに古代東海道に差し掛かるカーブの箇所に四ツ木駅が設置されている。
四ツ木駅大正元年に設置されたが、荒川放水路の開削に伴って大正12年に移動され、現在の京成押上線四ツ木駅の位置に落ち着いている。
大正後期になるとモータリゼーションの波が押し寄せ、主要な幹線道路計画が急ピッチで進められたが、荒川放水路の開発や戦後の混乱などで、東京の中心側・墨田区と四ツ木間の道路による繋がりが寸断されていた時期もあった。
大正11年には、四ツ木橋が現在の木下橋と京成押上線荒川架橋の間あたりに架けられたが、幹線道路と直接結ばれていなかった。その後、現在の国道6号線にあたる部分の開発が進み、昭和27年に永久橋(現:四ツ木橋)が竣工し、四ツ木を通過する主要道が整備されることとなった。また、昭和48年には新々四ツ木橋(現:新四ツ木橋)が国道6号線に平行する形で整備され、渋滞の緩和に一役買っている。
かつては「古代東海道」の経路として、江戸時代には曳舟による水運観光の拠点として、近代には鉄道や車による交通の中継地として、その役割を時代によって面々と変化させているこの街には、日本を支える「縁の下の力持ち」的な哀愁を感じさせられる次第である。