気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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©こけ
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2015/06/30

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day4の③ 〜秩父甲州街道をゆく〜



29番札所・長泉院に到着。
旧荒川村は枝垂れ桜の里として有名で、ここ長泉院の入り口にも枝垂れ桜が植えられている。
観音堂内には「葛飾北斎52歳」と銘が入った楼花の絵が掲げてあり、古くから桜にゆかりのあった地であったことが窺える。

参道前の道を横切り、薄暗い道に入っていくと、心求・はまの道標石、庚申塔、それと何かの石碑が一箇所にまとめられている場所があった。
かつての巡礼では川を越えたあとこの場所まで出てきて、ここから長泉院に向かっていたようだ。30番へもここから向かっていく。

清雲寺に立ち寄る。旧荒川村を代表する枝垂れ桜の名所で、その桜は樹齢600年とも言われている。
とはいえこの秋真っ只中では観光客の姿は一人もおらず、枝垂れ桜も次の春までのお休み期間のようだった。今見てもなかなか荘厳であったが、やはり春先の絢爛に振る舞う姿を見てみたいものである。

隣の若獅子神社に立ち寄る。この神社もまた桜の時期には観光客で賑わうのだが、この秋のシーズンの夕暮れには些か背筋がヒンヤリする空気を醸していた。
敷地内には県指定天然記念物である「若獅子断層洞及び断層群」や若獅子神社遊歩道も整備されており、機会があれば時間をかけて楽しむこともできそうだった。

道が二股に分かれる場所に様々な石標がまとめられていた。かつて寺院だった場所だったようで、馬頭尊や地蔵などが並んでいる。中には「右三十番」と刻まれた道標としての役割を持つ地蔵もあった。これは明和7(1770)年のものだというから、巡礼の歴史を物語る貴重な地蔵である。


さらに進むと再び二手に分かれる箇所が。
左の「巳待塔」は宝暦3(1753)年の銘入り。右の道標は左「舟川越事上二至ル(「船川」「越」「事上」の集落に向かうという意味)」右「三十番道」と刻まれた比較的新しい道標。


そばの花が咲き始めていた。
旧荒川村は秩父の中でも特にそばの生産が盛んな地域で、近年その生産量を増やしているという。かつては自地域内での消費に留まっていたが、最近では町おこしの観点などから秩父全体で「蕎麦推し」の傾向にあるようだ。

秩父鉄道・武州中川駅の脇を抜けて国道140号に出てきた。本来の古道は現在駅がある場所を突っ切るように通っていた。
秩父市役所荒川総合支所(旧荒川村役場)の脇から狭い道に入っていく。入り口には「歴史の道 秩父甲州往還道」と書かれた杭が設置されていた。秩父甲州往還は中山道熊谷宿から甲府に至る街道だが、そのルートの一部をこれからしばらく辿ることになる。
安谷川へ降りる道中には安政2(1855)年に建てられた自然石の芭蕉句碑「む可し幾計秩父殿さへ 寿まふとり」があった。
さらに下り木橋を渡る。水の流れる音がしばしの休息を与えてくれるが、その直後足場の悪い登り坂が待ち受けていた。さほど距離は無かったが、なかなか急坂なので注意が必要である。
国道140号線と再会するが、すぐに道は旧道へと逸れていく。旧道との分岐地点には三峰山講中が建立した三峰山登拝碑が立っていた。調べたところ、右「三峰山新道」左「旧道」と記されているとのこと。もちろん左へ進む。
進んだ先、民家の脇には「夜泣き石」と刻まれた石が。東海道の小夜の中山にも「夜泣き石」伝説があるのは知っていたが、どうやら全国各地にも同様の伝説が残されているようだ。


ここからの道は秩父鉄道沿いの道を行く。かつての巡礼道は秩父鉄道の建設工事と開通により分断されてしまい、往時のルートが不明となってしまった箇所も多い。
それでも道中の石碑などが線路脇に避けられて設置されており、歴史を知る貴重な資料となっている。左の薬師堂脇の馬頭観音は文化3(1806)年のもの。

旧白久村豆早原地区に伝わる「白久の串人形芝居」の説明板。文久・元治年間に始まったとされ、一体の人形を二人掛かりで操る「二人遣い」と呼ばれる操作方法が珍しい人形芝居とのこと。
この説明板の横の道から入ったところにある豆早原区公会堂に保管されているようで、創始に関する説明などがあった。
白久駅に到着。既に夕方5時目前だったので30番法雲寺への訪問は次回とした。
電車を待っていると、私と同じく徒歩での巡礼を行っている方と話をする機会を得た。ある男性は歩くのが好きで、秩父巡礼が済んだら坂東三十三箇所にも徒歩で挑戦するとのこと。またある女性は退っ引きならぬ理由によって巡礼を決意したとのこと。
巡礼には様々な境遇の人が呼び寄せられ、様々な想いが交錯している。


2015/06/07

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day4の② 〜地形を味わう〜



大渕寺を出ると、巡礼道は大渕寺を背にして丘陵から離れるように進み、秩父鉄道を横切る。そう思ったのも束の間、進路は再び90度折れ、民家と線路の間の道を西へ向かう。

暫く進むと道は突き当たり、「この先行き止まり」の不穏な看板が目に飛び込んでくる。「巡礼道」の標がなければ先に進むのも躊躇してしまいそうになる。
さらに進むと何やら薄暗い道に突き当たる。どうやら琴平ハイキングコースの一部として車両通行が禁止されている道のようで、丘陵沿いの未舗装路は両側から延びる木々によって日差しを和らげてくれる良道だった。


橋立浄水場の前には「影森用水之碑」などが置かれている。かつての影森村には井戸が2つあるのみで生活用水を得るのが困難だった。これを嘆いた地元の名主「関田宗太郎」が私財を投じて用水を建設し、安政2(1855)年に各戸に水を引くことに成功したという。
大正13(1922)年には埼玉県初の近代浄水場である橋立浄水場が建設されるなど、影森は水と縁がある地のようだ。


28番札所・橋立堂に到着。
本堂の背にある巨大な岩壁に目が奪われる。
本尊の「馬頭観世音」は日本百観音の中でも橋立堂を含めて2カ所にしかなく、非常に珍しい。
この場所は武甲山への登山口につながる拠点となっており、本堂下の広場にはカフェや休憩所などが設けられている。この日も観光客や登山客で賑わっていた。

観光客が集まるコンテンツがもう一つある。「橋立鍾乳洞」だ。
かつて橋立堂の奥の院としての役割を持っていた洞で、その3分の2が縦穴という高低差の激しい鍾乳洞である。
中に入ってみると、体がぶつかるような狭い箇所が多く、中腰での移動を余儀なくされる。かと思えば、天に昇るかのごとくそびえる鉄の階段が現れ、これをひたすら登る。
高所が苦手な私にとっては、洞窟の涼しさ以上に体が冷える体験だった。

橋立堂を後にして巡礼の道へ。
来た道を戻りながら浦山口駅方面へ向かう。お墓などが立ち並ぶ細い道を進んでいくと、お寺の脇に向かう道やキャンプ場への入口などがあるが、そちらは間違い。道なりに進んでいけば心求・はまの道標石があるので正しいルートだとわかる。
道標石の脇、久那区集会所の脇にある連鳥居の稲荷(名称不明)はなかなかの情緒と味わいを醸し出していた。
さらに進んで再び道標石。
「みぎ二十九番 ひだり日原」と彫られているそうだ。日原は奥多摩の日原(にっぱら)を表すのだろうか。かつて「日原みち」なる尾根道がここから日原へ繋がっていたようだ。
本来の巡礼道はここから浦山川を渡しで横切るルートを採るが、現在は通行できない。
迂回路を進むと芭蕉句碑が置かれている。
元々は諸下橋脇、秩父甲州往還の浦山川渡河地点に置かれていたもののようだ。
この諸集落はかつてこの地が久那村だった時代の中心地だったようで、少し手前には高札場跡も(礎石のみだが)残されていた。

諸上橋より浦山ダムを臨む。重力式コンクリートダムとしては全国2位の堤高を持つ巨大ダムで、エレベータを使って堤防上に上がれば、上流の「秩父さくら湖」を臨むこともできる。
またその開けた環境から、様々な特撮物の撮影地となっており、最近の仮面ライダーシリーズでは、毎年1度は舞台となる地でもある。

もう少しで29番寺!