秩父三十四カ所巡礼の旅 Day4の③ 〜秩父甲州街道をゆく〜
29番札所・長泉院に到着。
旧荒川村は枝垂れ桜の里として有名で、ここ長泉院の入り口にも枝垂れ桜が植えられている。
観音堂内には「葛飾北斎52歳」と銘が入った楼花の絵が掲げてあり、古くから桜にゆかりのあった地であったことが窺える。
参道前の道を横切り、薄暗い道に入っていくと、心求・はまの道標石、庚申塔、それと何かの石碑が一箇所にまとめられている場所があった。
かつての巡礼では川を越えたあとこの場所まで出てきて、ここから長泉院に向かっていたようだ。30番へもここから向かっていく。
清雲寺に立ち寄る。旧荒川村を代表する枝垂れ桜の名所で、その桜は樹齢600年とも言われている。
とはいえこの秋真っ只中では観光客の姿は一人もおらず、枝垂れ桜も次の春までのお休み期間のようだった。今見てもなかなか荘厳であったが、やはり春先の絢爛に振る舞う姿を見てみたいものである。
隣の若獅子神社に立ち寄る。この神社もまた桜の時期には観光客で賑わうのだが、この秋のシーズンの夕暮れには些か背筋がヒンヤリする空気を醸していた。
敷地内には県指定天然記念物である「若獅子断層洞及び断層群」や若獅子神社遊歩道も整備されており、機会があれば時間をかけて楽しむこともできそうだった。
道が二股に分かれる場所に様々な石標がまとめられていた。かつて寺院だった場所だったようで、馬頭尊や地蔵などが並んでいる。中には「右三十番」と刻まれた道標としての役割を持つ地蔵もあった。これは明和7(1770)年のものだというから、巡礼の歴史を物語る貴重な地蔵である。
さらに進むと再び二手に分かれる箇所が。
左の「巳待塔」は宝暦3(1753)年の銘入り。右の道標は左「舟川越事上二至ル(「船川」「越」「事上」の集落に向かうという意味)」右「三十番道」と刻まれた比較的新しい道標。
そばの花が咲き始めていた。
旧荒川村は秩父の中でも特にそばの生産が盛んな地域で、近年その生産量を増やしているという。かつては自地域内での消費に留まっていたが、最近では町おこしの観点などから秩父全体で「蕎麦推し」の傾向にあるようだ。
秩父鉄道・武州中川駅の脇を抜けて国道140号に出てきた。本来の古道は現在駅がある場所を突っ切るように通っていた。
秩父市役所荒川総合支所(旧荒川村役場)の脇から狭い道に入っていく。入り口には「歴史の道 秩父甲州往還道」と書かれた杭が設置されていた。秩父甲州往還は中山道熊谷宿から甲府に至る街道だが、そのルートの一部をこれからしばらく辿ることになる。
安谷川へ降りる道中には安政2(1855)年に建てられた自然石の芭蕉句碑「む可し幾計秩父殿さへ 寿まふとり」があった。
さらに下り木橋を渡る。水の流れる音がしばしの休息を与えてくれるが、その直後足場の悪い登り坂が待ち受けていた。さほど距離は無かったが、なかなか急坂なので注意が必要である。
国道140号線と再会するが、すぐに道は旧道へと逸れていく。旧道との分岐地点には三峰山講中が建立した三峰山登拝碑が立っていた。調べたところ、右「三峰山新道」左「旧道」と記されているとのこと。もちろん左へ進む。
進んだ先、民家の脇には「夜泣き石」と刻まれた石が。東海道の小夜の中山にも「夜泣き石」伝説があるのは知っていたが、どうやら全国各地にも同様の伝説が残されているようだ。
ここからの道は秩父鉄道沿いの道を行く。かつての巡礼道は秩父鉄道の建設工事と開通により分断されてしまい、往時のルートが不明となってしまった箇所も多い。
それでも道中の石碑などが線路脇に避けられて設置されており、歴史を知る貴重な資料となっている。左の薬師堂脇の馬頭観音は文化3(1806)年のもの。
旧白久村豆早原地区に伝わる「白久の串人形芝居」の説明板。文久・元治年間に始まったとされ、一体の人形を二人掛かりで操る「二人遣い」と呼ばれる操作方法が珍しい人形芝居とのこと。
この説明板の横の道から入ったところにある豆早原区公会堂に保管されているようで、創始に関する説明などがあった。
白久駅に到着。既に夕方5時目前だったので30番法雲寺への訪問は次回とした。
電車を待っていると、私と同じく徒歩での巡礼を行っている方と話をする機会を得た。ある男性は歩くのが好きで、秩父巡礼が済んだら坂東三十三箇所にも徒歩で挑戦するとのこと。またある女性は退っ引きならぬ理由によって巡礼を決意したとのこと。
巡礼には様々な境遇の人が呼び寄せられ、様々な想いが交錯している。