気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2024/04/14

【歩き旅】北国街道 Day5 その⑤



国道18号との合流点に落影集落の説明板がある。ここから少しだけ国道に沿って進んでいく。国道沿いのラーメン屋でお昼をいただく。


北国街道(小古間)の案内板がひっそりとあるので、ここで旧道に入っていく。


ちょっとした森の中を抜けると文久2年(1862年)銘の馬頭観音の祠があった。ここから小古間の集落に入る。江戸時代に古間宿から独立した村で小さな集落だが、かねてより「飯縄・戸隠・黒姫・妙法の四山が一望できる」景勝地だった。集落内は緩やかな下り坂になっている。


小古間集落を抜けて田んぼの中の道を北へ進めば大古間の集落へ突入する。小古間川を境にかつての大古間村域となる。少し坂を登っていくと古間一里塚跡がある。文政4年(1821年)、一里塚に植えられた松が雪の重みで折れ、下にいた人馬が圧死する事故があった。小林一茶はこの事故を受けて「一声に此世の鬼は逃るかな」という句を詠んでいる。


国道18号を横切り、坂を下ると古間宿に入る。古間宿はこの先の柏原宿と合宿となり、月の後半で人馬継立業務を行っていた。


古間宿の簡易的な案内板があった。少し先から飯山方面に至る道があったようだ。


小林一茶の『七番日記』に収録されている文政元年(1818年)の句「聲の出る藥ありとやほとどぎす」の碑があった。


宿場に入ると古間鎌の問屋が点在している。


古間宿本陣跡と北国街道古間宿の案内板があった。厳密には「本陣」ではなく「古屋」のため、大名が宿泊することはなく、上級武士が宿泊に利用していた。


第4北国街道踏切を越え、寿橋で鳥居川を渡る。坂を登っていく途中に昭和19年(1944年)の馬頭観音があった。


柏原宿に入っていくと、宿の鎮守である柏原諏訪神社がある。創建時代は不明だが、寛永11年(1634年)にはすでに創建されていたという。鉄薙鎌が御神体として祀られているのが鎌の産地ならでは。


境内には一茶の句碑「松陰に寝てくふ六十よ州かな」。句碑は一茶の三回忌である文政12年(1829年)に柏原宿入口に設置されたもので、一茶の句碑としては最古のもの。「松陰」は松平=徳川家の隠喩。明治9年(1876年)の道路拡張により、神社境内に移設された。


国道18号沿いに宿域が伸びる。一際目立つ茅葺きの建物はここまで何度もフラグのように句碑が登場した、小林一茶の旧宅跡。正確には国道沿いの茅葺きの建物は一茶の弟・弥兵衛(仙六ともいう)の住居。


奥に土蔵があるが、これが一茶が晩年を過ごした場所。一茶は安永6年(1777年)に柏原を離れて江戸に奉公へ出た。文化11年(1814年)に弟と遺産分割を行い、土蔵を所有することになった。文政11年(1828年)に65歳でこの地で亡くなった。


現在の国道18号に沿って柏原宿は伸びていた。宿場は文政10年(1827年)の大火により92軒が消失。これにより一茶家は母屋を消失し、焼け残った土蔵に移り住みそこで生涯を閉じることになった。弘化4年(1847年)に発生した善光寺地震でも宿内は大きな被害を受けた。


信濃町役場入口の交差点に馬頭観音が置かれている。


向かいには明暦3年(1657年)建立の「従是戸隠山道」と刻まれた道標と説明板。ここから西に伸びる道は戸隠神社奥社・中社へと通じる山道であったという。


右手に柏原宿本陣跡の説明板があった。代々中村六左衛門が世襲し、本陣と問屋を兼ねていた。明治以降は郵便局も営んでいた。俳人の長月庵若翁はここに逗留し、一茶の友人でもあった中村四郎兵衛(桂国)に俳諧を教えた。


本陣跡の少し先、右手にある茅葺きの建物は、信濃町指定有形文化財の中村家住宅。野鍛冶を行っていた中村与平氏の住宅兼作業場として利用されていた。先代の中村治平氏により明治時代に野鍛冶(農鍛冶)が営まれ、各種農具の作成や修理を行っていた。


少し進むと左手に「村の鍛冶屋」と書かれた説明板。かつて大鍛冶屋があり、鍛冶職人を称えるため、文部省唱歌の「村の鍛冶屋」の歌詞が刻まれた碑が置かれている。この唱歌は作詞・作曲者不詳だが、信濃教育会の推薦で大正元年(1912年)に文部省唱歌に採用されたという。


隣には昭和63年(1988年)建立の一茶の句碑。一茶47歳のときの句「陽炎や きのふは見へぬ だんご茶屋」。そして一茶の像。


上信越自動車道をオーバーパスし、国道に沿ってひた進むと、左手に「野尻一里塚公園」が整備されている。奥には「信濃町歴史の道案内図」があり、北国街道を軸として飯山道、川東道、戸隠山道などの道が延び、古間、柏原、そしてこの先の野尻の宿場が交通の要衝であったことがわかる。


野尻一里塚は両塚が残っているのが貴重。北国街道の宿駅が確定した慶長16年(1611年)頃に築かれたものと考えられている。かつては榎や松、桜などが植えられていたようだが、現在は近年植えられた桜の木が塚の中央にそびえている。


「ナウマンゾウ発掘地」交差点を右に入り、旧道に入ると右手に「うめが香に のつと日の出る 山路かな」と刻まれた芭蕉句碑が置かれている。芭蕉の130回忌にあたる文政6年(1823年)建立で信濃町で最も古い芭蕉句碑。裏面には一茶門人の盧堂の句「痩垣も見所有もの帰りばな」と、同じく門人の関之の句「むだ歩行せよ迚扇貰いけり」が刻まれている。最近一茶の句碑ばかりだったので芭蕉句碑は久々な気がする。


句碑の隣には「三界萬霊等」碑。奥に広がる更地は「仏心庵」という尼寺の跡地。後ろに見える褐色屋根の祠の辺りに、馬頭観音や二十三夜塔などの石仏群もあったようだが見逃してしまった。


新道との合流点に秋葉神社がある。宿場の入口にあたり、火防を祈願して設置されたのだろう。野尻宿で問屋を務めた池田伝九郎により寛文10年(1670年)に引かれた灌漑用水が神社の脇を通る。この用水は伝九郎堰用水と呼ばれ、この神社もいつからか「伝九郎神社」とも呼ばれるようになった。


後ろを振り返ると「従是 飯山 川東 道」の道標と説明板がある。湖畔に沿った道は針ノ木で先ほど柏原宿で分岐した飯山道に合流する。川東道は浅野宿を経て千曲川東岸の川東へ向かう。これらの道は江戸時代、農民が副業として駄賃馬稼を行う「中馬」で利用されることが多く、この道を使うことで迂回されてしまう北国街道の宿場とは争いの火種にもなっていた。


道標の後ろ側に「野田英夫の画碑」がある。野田英夫は明治41年(1908年)カリフォルニア生まれの洋画家。アメリカ共産党を指示していたことからスパイ候補として目をつけられるも、昭和14年(1939年)に30歳の若さで死去した。亡くなる前年にこの碑が建っている向かいにあった坂本屋旅館に滞在し、絶筆である『野尻の花』を描きあげている。


野尻といえば野尻湖。野尻湖といえばナウマンゾウである。野尻湖の西側には旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が多数発見されており、その中の一つ「立が鼻遺跡」付近でナウマンゾウの臼歯が見つかった。昭和59年(1984年)には野尻湖博物館が開館し、発掘調査で発見された出土品の保管・展示を行っている。平成8年(1996年)には野尻湖ナウマンゾウ博物館に改称されている。


野尻湖は元々「信濃尻湖」と呼ばれていたものが略されたものと考えられている。標高654mの高原に位置することから避暑地としても人気を博し、大正時代には軽井沢の喧騒を避けた外国人宣教師グループによって神山国際村と呼ばれる別荘地が開発された。これもあって、日本三大外国人避暑地の一つにも数えられている(他2つは長野県軽井沢、宮城県高山)。


湖畔にナウマンゾウ化石発掘地の看板が出ていた。昭和23年(1948年)にこの付近で地元の旅館経営者によりナウマンゾウの臼歯が発見された。立が鼻遺跡は狩猟した大型動物の解体場だったと考えられている。

本日は野尻湖畔の宿に泊まる。

2024/04/13

【歩き旅】北国街道 Day5 その④



しなの鉄道北しなの線のガードを潜る手前に「北国街道牟礼宿」の碑がある。八蛇川を牟礼橋で渡ると、牟礼宿となる。


牟礼橋を渡ると道は左に折れる。これが宿場東側の枡形の名残のようだ。牟礼宿は東組と西組に分かれ、半月交代で宿場の業務を行っていた。江戸時代に本陣を管理する高野家と「上の酒屋」を営む小川家が対立し、宿内が分裂したのだという。


本卯建が上がる建物は、古間鎌問屋を営んでいた山本家。かつて牟礼からこの先の古間、柏原にかけて、問屋制家内工業による「古間鎌」と呼ばれる鎌の生産が盛んだった。かつては全国2位の生産量を誇ったという。


役場前交差点には飯綱町役場がある。右手にあったのは旧牟礼役場で旧庁舎として利用されていた。ちなみに令和3年(2021年)には役場が新庁舎になったため、旧牟礼庁舎は令和元年(2019年)に解体され、83年間この地に構えていたこの姿を現在は見ることはできない。


役場前に牟礼宿の説明板があった。これも現在では道を挟んで向かいの本陣跡に移設されている。


宿場町を進んでいくと貞享元年(1684年)建立の證念寺に突き当たる。ここが牟礼宿の枡形となり街道は左に折れ、十王坂と呼ばれる坂を登っていく。


坂の中腹あたりに坂名の由来になった十王堂がある。閻魔大王を始めとした十王が並ぶが、このお堂は明治天皇の北陸御巡幸の際に撤去されていた。その後、平成2年(1990年)に元の場所の向かいに再建された。


坂を登りきったあたりに観音堂がある。創立年代は不明だが、門前にある六地蔵は牟礼宿の上ノ酒屋であった小川家により造立されたものだという。


観音堂前の道を右に折れる。しばらく進むと「金附場跡」の説明板がある。金附場とは、佐渡から金銀を輸送してくる際の中継場所のことで、朝に野尻湖を出発し、この場所で別の馬に載せ替え、昼までに善光寺へ輸送するのが恒例となっていた。かつては300坪にも及ぶ広大な広場だったようだが、説明板の奥に流れる鳥居川の浸食により、今ではわずかな畑地が残るのみとなっている。


説明板の隣には「飯綱今昔物語」という飯綱町の歴史を漫画にしたものが設置されており、この後の要所でも見かけることになる。


少し進むと左手の広場のような場所に「武州加州道中堺碑」がある。江戸(武蔵国)と金沢(加賀国)を結ぶ北国街道の中間地点にあたることから、江戸初期に加賀藩前田家により建立されたものだという。前田家が参勤交代でこの地点まで来ると、江戸屋敷と金沢城双方に早飛脚を出し、旅の無事を知らせていたと言われている。


同じ広場に「小玉古道を行く」と書かれた小玉集落のマップがあった。小玉集落を抜けた先で、街道は往時の雰囲気を残した道へと入っていく。


小玉バス停の先で側道に入り、国道18号の下を歩行者用通路でくぐる。街道はしなの鉄道北しなの線で分断されているので、跨線橋を渡りすぐに右の旧道へ入り少し進むと高札があった。正徳元年(1711年)の定書が現代文で記載されている。


道が二手に分かれるところに小玉坂の説明板があった。ここから約2kmの区間は山道が続く難所であったが、江戸時代には風光明媚な場所としても知られた。


坂を登っていくと、眼下に集落の様子と遠くの山並みが見えてくる。


新道と古道の分岐点に説明板があった。右が古道、左は明治9年(1876年)に天皇巡業のために整備された新道。迂回路が作られたことで結果的に江戸時代の雰囲気そのままの道が残された。


観音平(かんのんびら)と馬頭観音の説明板があった。かつては馬頭観音を祀った観音堂があったというが、現在ではその場所に周辺の石仏が集められている。


小玉一里塚跡の説明板があった。塚の遺構らしきものは残っていないが、かつては湧水や茶屋があり、格好の休憩場所となっていたようだ。往時はこの場所から先程通過した四ツ谷一里塚が見えたという。


小玉鎌(古間鎌)の元祖の一人である黒栁清八の頌徳碑があった。天保10年(1839年)に峠の茶屋で生まれた清八は鍛冶屋に転業し、野鎌を改良した小玉鎌(古間鎌)の製造に貢献した。


杉林を進んでいくと、「明治天皇清水窪小休所跡」の説明板がある。巡幸の際には、玉堂や随行員棟といった休憩用の建物を作ったという。ここまで歩いてきた小玉坂の最高点にあたる。


緩やかに坂を下っていくと開けた場所に出てくる。ここに文化13年(1816年)銘の庚申塔があり道は舗装路へと切り替わる。


昭和41年(1966年)建立の池中開田記念碑があった。かつてこのあたりは「池中」と呼ばれる湿地帯だった。今歩いている道は明治天皇巡幸の際に整備され、それ以前は先程の庚申塔のあたりから湿地を迂回したルートを取っていたという。


落影集落へと入る。落影は牟礼宿と古間宿の中間に位置し、立場茶屋もあり賑わった場所だった。また辻屋、石橋新田、芹沢を経由して坂中道(北国街道の脇往還)へと至る脇道もあり、交通の要衝でもあった。集落を進んでいくと四国西国秩父坂東供養塔があった。