気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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©こけ
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2023/08/31

薩摩街道・豊前街道 Day2 その①



2日目は松崎に戻ってここから歩きを再開する。宿場のメインストリートを南下していくと、枡形になっている。


枡形を折れたところにも大正11年(1922年)奉納のえびす像があった。この辺りは「下町」にあたるようだ。


「蛭子宮」と刻まれた石碑が住居の前に置かれていた。字違いだがこちらも「えびす」信仰に由来するものだろう。


赤い花が添えられている祠があった。江戸時代末期の松崎宿図によればこの辺りに「柳清エ門墓」があるとされているが、この石碑が墓なのかは不明。


「鶴小屋黒岩時計店」と書かれたテントがかかる古そうな建物。江戸時代より「鶴小屋」という名前で旅籠屋を営んでいたようで、建物自体は明治時代のもの。かつては松崎の南方、下岩田のあたりで鶴が飛来してきたり餌付けを行っていた「鶴小屋」と呼ばれる領地があったようだ。鶴の飛来が少なくなり、その見張り等にあたっていた「お鶴番」の仕事がなくなった頃に、その業務にあたっていた黒岩家が旅籠業務に切り替えたのであろう。


南構口手前にも恵比寿像が。先程の枡形で見たものと同様の形で大正11年(1922年)の作。


南構口には石垣が残る。北構口と南構口両方の石垣が残るのは全国的にも貴重である。東側の石垣は高さ約2mで、実際に利用されていた当時の姿ほぼそのままとなっている。



松崎南入口の案内板がある。この三叉路を南西方向へ進む。


田んぼと畑を眺めながら進む。堂島地区に差し掛かると「史蹟一里塚」の碑と説明板があった。ここにあった一里塚は、久留米城下の札の辻を起点として寛延3年(1750年)に建立された記録が残る。ただし、安永9年(1780年)頃にはすでに廃れていて、昭和の中頃まで榎が残る程度であった。現在ではその榎もなくなり、往時を偲ぶものは残されていない。


少し先の県道737号との交点に御影石の石碑が建っている。「南至 北野 久留米 御井町 西至 小郡 田代 北至 二日市 博多 東至 松崎 甘木 山家」と刻まれた追分石で明治44年(1911年)に建立されたものだという。豊前街道はここから南に進むが、西に伸びる道は佐賀方面から田川郡添田町の英彦山へ「彦山詣り」に向かう際に使われた道(彦山道)だという。


南に折れた街道は水田の区画整理によって痕跡が失われているので、近しい場所を進む。旧道の線形が復活する古飯(ふるえ)の集落にはかつての街の様子を図示した案内板があった。この古飯は商工業者が集まる「在郷町」として発展し、街道沿いに日用品店や商店が並んでいたが、大正13年(1924年)の九州鉄道(現:西鉄甘木線)開通により次第に衰退していった。


説明板の脇にはちょっとしたベンチと「ここは薩摩街道」の文字があり、この道が往時からの街道であることを確認させてくれる。


古飯集落内に2つの顕彰碑が立っている敷地がある。一つは「高松凌雲先生誕生之地」碑。ここ古飯で生まれた高松凌雲は、幕末から明治にかけて医師として活躍。パリ留学でオランダ医学を学び、箱館戦争では日本で初めて赤十字精神に基づいた病院・箱館病院の院長を務めた。日本における赤十字運動の先駆者として知られる人物である。


もう一つ「幕将古屋佐久左衛門生誕之地」碑が立つ。高松凌雲の兄にあたり、神奈川奉行所で通訳として従事したり、幕府陸軍の訓練などを担当していた。箱館戦争で重傷を負い、凌雲が院長を務める箱館病院に収容されたが、一ヶ月後に死去している。旧幕臣であった凌雲・佐久左衛門はそれまで国賊扱いされていたこともあり、これらの顕彰碑が建てられたのは昭和50年(1975年)と比較的最近になってからである。


古飯の交差点を通過した左手に恵比寿像・常夜灯のような石塔・祠がまとめられていた。


古飯集落を抜けていくと「薩摩街道紺屋前」のバス停を発見した。このバス停の向かい側に紺屋(染物屋)があり、この先に集落の南枡形が設けられていた。

2023/08/30

薩摩街道・豊前街道 Day1 その④


 
霊鷲寺の前で道は二手に分かれるので左方向へと進む。「近道踏切」という甘木鉄道の踏切を渡り、国道500号に当たる。この地点はここから国道500号に沿って東に向かう秋月街道との追分となっている。ここから国道脇の細い道に進むのが薩摩街道。松崎北入口の案内がある。


左手に松崎公園が見えてくる。公園の一部と道を挟んで反対側に古そうな石垣が積まれている。ここには松崎宿の北構口があった。構口(かまえぐち・かめぐち)は宿場の出入口に設けられた石垣と土塁のことで、筑前・肥後の宿場でよく見られる。隣接する形で番所小屋が設けられ、宿場への出入りの警備を行っていた。


宿場に入るとすぐに道がクランク状に折れ曲がる。この枡形と構口で宿場の防御力を高めていた。


枡形の脇には松崎宿歴史資料館がある。地主であった三原家の本家が先程の松崎公園にあり、その土蔵を資料館として転用している。かつて公園にあった三原家の屋敷は九州湯布院民芸村に移築されている。


街道沿いに石像の文化3年(1806年)の銘入りの恵比寿様が鎮座していた。松崎宿には上町・中町・下町にそれぞれ恵比寿像が祀られている。筑前・筑後・肥前・肥後あたりでは恵比寿信仰が盛んのようで、これ以降も街道沿いにで恵比寿像を見かけることになる。


松崎宿には江戸時代から昭和初期まで旅籠として利用された「油屋」がある。主屋である「油屋」と屋敷である「中油屋」からなり、主屋を一般客の宿泊に利用し、屋敷は身分の高い賓客が利用しており、脇本陣的な使い方をされていた。西郷隆盛が宿泊したという言い伝えもあるようだが、正式な証跡は残っていないという。

主屋は平成27年(2015年)から解体復元工事が行われ、訪問時は絶賛工事中でその姿を拝めなかったが、平成31年(2019年)には江戸時代当時の姿に復元され、松崎宿一番の見所となっている。


松崎宿が宿場として整備されたのは延宝6年(1678年)。それまで参勤交代のルートは宝満川西岸を通り横隈宿を経由していた(旧筑前街道・横隈街道)が、寛文8年(1668年)の松崎藩立藩などにより豊前街道や松崎の宿場町が整備されていった。松崎藩は後継者問題で貞享元年(1684年)に改易となったが、旧領地は幕府領となり、元禄10年(1697年)には久留米藩に還付されている。往時には茶屋本陣が設置されたり、旅籠が二十数件ならぶ宿場だった。


「桜馬場入口」の案内板があった。有馬豊範は街道からこの先の松崎城までの道の両脇に土堤を設け、そこに桜を植えた。大正時代までは桜の名所として知られ、現在でも約150本の桜が300mの並木として残っている。


松崎宿の本陣(御茶屋)跡は現在は一般住宅となっており、ここにも恵比寿像が鎮座している。参勤交代の際など大名が宿泊することもあれば、藩主が休息や宿泊に利用することもあっった。


福岡法務局三井出張所の脇に「ぴんころ地蔵尊」という比較的新しそうな地蔵が鎮座していた。健康で長生きして大往生する、いわゆる「ぴんぴんころり」を成就する地蔵ということであろう。


野田宇太郎の記念碑があった。この隣にある松崎保育園のある場所が野田宇太郎の生家があった場所だった。


松崎城跡の碑が草に埋もれていた。松崎藩を立藩した有馬豊範はそれまで横隈を拠点としていたが、寛文11年(1671年)に松崎に居城を設けた。貞享元年(1684年)に松崎藩が改易となると、松崎城も廃城となった。主郭の跡地には、大正3年(1914年)に松崎実業女学校が設置され、現在では福岡県立三井高等学校となっている。


1日目はここ松崎で終了。松崎周辺にはホテルなどが見当たらなかったので、思い切って博多まで戻って宿を取ることにした。

2023/08/29

薩摩街道・豊前街道 Day1 その③


 
乙隈公民館の敷地に「御大典記念」と刻まれた円柱状の道標があった。大正天皇即位の御大礼を記念して大正4年(1915年)に建立されたもの。近隣の村々までの距離が刻まれており「松崎 一里五町五十六間、小郡 二里七町、甘木三里八町」などとある。


県道53号を南下し、草場川を御原川橋で渡る。


そのすぐ先で道路工事が行われていた。後ほど知ったが、平成28年(2016年)の道路工事で丁度この街道沿いで全長約90mの石垣と石敷が発見されている。これは野越堤と呼ばれ、草場川の氾濫から街道を守るために江戸時代頃に築かれたものと考えられている。


大正4年(1915年)に地元青年団によって建てられたと見られる道標がある。左には「干潟 石櫃 山家 二日市…」右には「本郷 田主丸 松崎 久留米…」と刻まれているように見える。先程の御大典記念と合わせて建立されたものだろうか。


「一里木」という名前のバス停があり、その先に「一里塚跡」の説明板があった。ここ干潟(ひかた)の一里塚は、寛延3年(1750年)に有馬藩によって一里塚が築かれた記録が残っている。しかし、その後ほとんど手つかずの状態となり、天明年間(1780年頃)には早くも大半が原型をとどめないほど荒廃してしまったという。


街道は小郡市立立石小学校と立石中学校の間を抜けていく。ここに「立石村尋常小学校建築記念碑」がある。すぐ近くには戦時中の立石国民学校時代の「奉安殿(天皇・皇后の御真影や教育勅語の謄本を納めていた建物)」が移設されている。戦後のGHQの命令により全国の奉安殿は処分することとなっていたが、別の用途として転用する場合は処分を免れることができ、立石国民学校の奉安殿は道を挟んで向かいにあった立石村役場の金庫に転用されることとなった。


近くには平成27年(2015年)に設置された薩摩街道の案内板があり、この道が街道であることを再確認できる。


バス停「三軒屋」を横目に街道っぽいなと思いつつ、九州横断自動車道をアンダーパスする。左手に見える祠には地蔵が鎮座していた。麦わら帽子がファションの決め手。


地蔵祠の道を挟んで反対側が霊鷲寺(りょうじゅうじ)の境内となっている。霊鷲寺は後二条天皇の勅願寺として西牟田(筑後市)で創建したが、延宝8年(1680年)に有馬豊祐が松崎藩主となった際、菩提寺としてこの地に移転したものである。勅願寺で格式が高いことから、参勤交代で通行する際、大名も駕籠や馬から降りて礼拝したという。

境内の改修真っ只中のようで、所々に資材が散らばっている。楼門までの約100mの参道は杉並木となっている。


参道を抜けると瑞松山の扁額が掲げられた楼門が建っている。楼門は平成26年(2014年)に改修を行っており、その際に旧楼門の資材を部分的にそのまま利用している。

2023/08/28

薩摩街道・豊前街道 Day1 その②



道路新設碑があった。この隣の県道595号の整備の際に建てられたものだろうか。旧道はこのすぐ先で天神川に阻まれるので県道の橋を渡って旧道に戻るが、またすぐに県道に合流する。


漢字が読みにくいからか、ひらがなの「いしびつ」交差点を通過。県道に沿って流れる川に架かる橋は「向原橋」であることが、半分埋まった標柱からわかる。


丸町の集落を越えたあたりから先の旧道は、水田開発によってほとんど失われてしまっているようだ。とりあえず丸町を抜けたところで県道593号に乗り換えて南東方面へ進む。曽根田川の手前で南西方向へ転換する。


田んぼの脇にあった石祠には右手に青面金剛らしき像、左手に石碑か何かが鎮座していた。生モノが備えられていたり花が取り替えられているところを見ると、信心深い方によって参拝されているようである。


田んぼの合間の道を進む。県道53号にあたったところで左に曲がり、東小田橋で曽根田川を越え、右折する。


ここに水神社がある。国土地理院の地図によれば水神社前に橋がかかっており、そのあたりから旧道が復活していたのだが、2022年現在にはかかってない。


旧石橋集落を抜け、旧馬市集落に入る。現在では朝倉郡筑前町東小田から筑紫野市西小田に入る異なる。「小田」という地名が市町をまたいで分かれている形となる。

石造りの蔵の前に「駄祭記念碑」と刻まれた碑が置かれていた。「駄祭」とは農耕に利用した牛馬に感謝する祭りのことで、「ダブリュー(駄風流・駄糞流)」とも呼ばれる。周辺の各集落でも伝統的に行われていたようだが、戦後あたりから実施する集落は激減し、現在ではどの程度残っているのか計り知れない。また、この記念碑は執筆現在は近くの馬市天満宮の敷地へ移設されている。


牟田川を馬市橋で渡り、しばらくすると2本の石碑がそびえ立っている。「従是北筑前国」、「従是南筑後国」とあるように、これは筑前国と筑後国の境界を示す境界石である。かつては木の杭であったが、 18世紀中頃には小型の石柱に変わり、19世紀中頃までに現在の花崗岩製の石柱に建て替えられたという。現在では筑紫野市西小田と小郡市乙隈の市堺となっている。




2023/08/27

薩摩街道・豊前街道 Day1 その①


 
JR筑豊本線・筑前山家駅に到着。一日の利用者数が平均25人の無人駅である。少し前まで雨が降っていて、これからも降り出しそうな天候で、この先の行程が少々思いやられる。


今回の起点に定めた場所までは駅から国道200号に沿って南西に進んでいく。


間片交差点手前の複雑な分岐路に「山家宿番所跡」と「長崎街道」の案内板がある。山家宿は筑前六宿の一つとして、慶長16年(1611年)頃に整備された宿場である。番所は浪人を取り締まるための施設で、元治元年(1864年)に福岡藩によって主要な宿場に設置された。今回の旅のスタート地点はここを長崎街道と豊前街道の分岐点として、以降豊前街道を進んでいく。


豊前街道は国道を挟んで向かい側の道を進んでいくが、「豊前街道」の文字が見えないので些か不安ではある。筑豊本線の大又踏切を渡る。


田園風景の中を進み、蔵役集落へと差し掛かる。集落の脇には祠と猿田彦大神碑と見られる石碑。


すぐ隣の一角にも猿田彦大神と恵比寿像が並ぶ。このあたりは江戸時代より猿田彦信仰が盛んだったようで、猿(申)繋がりで、いわゆる庚申信仰と同一視されていたようだ。


そのすぐ右手にある碑には「従是南九町三十間 孝子彌四郎墓」とあるようだ。孝子彌四郎は江戸時代に朝日村(現:朝倉郡筑前町大字朝日)に生まれた農民で、親孝行や思いやりに溢れた人柄が評判となり福岡城主から年貢免除の褒美を与えられている。墓はここから南西の朝日薬師堂にある。


蔵役交差点で国道200号を横切る。右手に広場があり、「古市彦太夫の墓」がある。古市彦太夫は中牟田村(現:朝倉郡筑前町中牟田)の宮崎家の家臣で、農業用水を大改良して中牟田村の農業の発展に貢献した人物である。


山家宿の下宿として賑わった石櫃(いしびつ)集落を進むと、追分の道標が現れる。これは江戸時代初期に建立された道標で、「右 肥後薩摩道 左 豊後 秋月 日田 甘木道」と刻まれている。この道を直進すると、日田街道や甘木往還と呼ばれる道となる。今回はここを右折して肥後薩摩道の方へと向かう。