気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2025/03/19

【埼玉】「吉川市は『川』がついてるから危ないですよ」と言われた話


先日ポストした梅田の件と同様、地名からその土地の特徴を判断するのはどうなのかという話。

少し前に、訳あって不動産屋と話す機会があった。

担当してくれた方は埼玉県全域を主戦場にしていて、様々な駅前の雰囲気であったり、各自治体の財政状況であったりを具に紹介してくれて、これまで相対してきた不動産屋の中でも、かなり地域情報に詳しい方という印象であった。

その方は県内屈指の地味度の自治体出身ということもあり、普段聞けないような地元に根付いたエピソードトークも興味深く、長時間の移動の車中も楽しく過ごしていた。

そんな中、吉川についての話題となった際に、不動産屋がタイトルの一言を発した。

「吉川市は『川』がついてるから危ないですよ」

それまで埼玉のマイナーな土地について楽しく会話していたのだが、この発言を受けて心にモヤモヤという感情が生じた、というか、その場で反論したい気持ちがふと湧き上がって、すぐに収まった、というだけの話である。

吉川市ってなんぞや

吉川市位置図(Wikimedia Commons)

埼玉県の中でも、吉川市を知っている人は少ないと思う。メディアで取り上げられる機会も少ないし、観光で立ち寄るような場所でもない。

市内を西から南に切り取るように武蔵野線が走っており、西の越谷市から南の三郷市に抜けている。市内には市名を冠した吉川駅と吉川美南駅の2駅が設置されているため、武蔵野線ユーザであればその名を目にする機会があるかもしれないが、逆にそれ以外での遭遇可能性は低い。

もう少し地理的な話をすると、吉川市は埼玉の東端に位置している。西側には中川を挟んで越谷市、東側には江戸川を挟んで千葉県の流山市があるため、川に挟まれた市であることは事実である。

そのため、表題の件もそんなに目くじら立てることないじゃないか、と言われればそれまでなのだが、もうちょっとだけ話に付き合っていただきたい。

吉川市の変遷

吉川市の成り立ちを、時代を遡っていきながら見てほしい。

平成8年(1996年)、吉川町が市制施行し、吉川市となる。

昭和30年(1955年) 、吉川町・三輪野江村・旭村が合併し、吉川町となる。


大正4年(1915年)、吉川村が町制施行し、吉川町となる。


明治28年(1895年)、千葉県東葛飾郡新川村から江戸川西岸の飛び地(平方新田・深井新田)が三輪野江村に編入される。

明治22年(1889年)、吉川・須賀・川野・川富・関・平沼・保・木売・高富・高久・中曽根・道庭・木売新田・保村中野分・富新田が合併し、吉川村が設置される。


この変遷を辿った上でご理解いただきたいのは、元々「吉川」と呼ばれていた場所は、現在の吉川市の中でもごく一部にしかすぎないということである。


上図は今昔マップより昭和24年頃の吉川町の旧吉川村あたりを拡大したもの。南北に伸びる古利根川(中川)に沿って集落が形成されていることがわかる。

つまり明治以前の吉川村の大半は水田で、いわゆる集落としての「吉川」は、さらに狭いエリアを示していたことが推察される。

地名とその土地の特徴をイコールで結ぶのは危険

「吉川」という限られたエリアを指し示していた地名が、合併を繰り返すことによって広域を示す地名となった。かつての「吉川」は川沿いに位置していたことにちなむ命名だったかもしれないが、現在の吉川市域全てが同じ状況である訳ではない。

このように、元々局所的な地域を指す地名だったものが、より広域を示す地名となった例は吉川に限らず、ほとんどの市町村で同様のことが言えてしまうということも、想像できるであろう。

現在使われている地名はその地域の特徴を表しているとは限らないということを、改めて知っていただきたいのと同時に、地名から安直に地域の特徴を想像するのではなく、国土交通省や各自治体から出ているハザードマップなどの情報を参考にした上で判断をしていただきたい。


重ねるハザードマップによれば、江戸川西岸の吉「川」市より、東岸の流「山」市のほうが、川沿いは洪水による浸水時の深さが高いと想定されている。余談。

2025/02/18

【雑記】「梅田」は骨を「埋めた」から「埋田」だ、という都市伝説の生まれ方


いつの頃からか、自然災害が起きる度に、「地名」から災害リスクを推定することができるという話がX(旧Twitter)やらニュースやらで話題になることが増えてきている気がする。

分かりやすい例を挙げると、「川」や「沼」が付いている地名は、かつて湿地帯や水辺だった可能性が高いので、水害や地盤に注意が必要だ、というような言説である。

この話と時折セットになるのが、「印象が良くない」地名は宅地開発や土地区画整理のタイミングで地名が変更され、現在の地名からは把握できないようになっている、という話題である。

これは2014年の広島豪雨の際、土砂災害が起きた土地の旧名が非常にインパクトの高い地名だったことで、記憶に残っている方も多いのではないだろうか。

広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE)

一方で、これらの話題の正確性は必ずしも高いとは言えない。

上記広島の例も、町史や古地図に該当の記載は見当たらず、あくまで地域の伝承としての話が残っているのみだという。

この件に限らず地名の由来や古い地名については、文献によって記載内容がブレていたり、地元の神社や寺院に伝わる都市伝説的な説が一人歩きしていたり、専門家の中でも解釈が異なっていることもあるなど、正しいものをコレと言い切れるケースは少ないのではないかと思っている。

梅田の地名の由来についての都市伝説

大阪の中心地「梅田」の地名の由来について、このような話を聞いたことはあるだろうか。
梅田の地下には死体が埋まっており、「埋田」と呼ばれたのがいつしか「梅田」となった。
そして少し前(2020年)に、こんなニュースが報じられた。
大阪の梅田、JR大阪駅の北側の再開発地区「うめきた2期区域」にて、1500体以上の人骨が発見されたのである。

この出来事は先に述べた都市伝説の証跡だとして、梅田の旧地名である「埋田」と人骨を「埋めた」ことを関連付けて言及する例がSNSなどを中心に散見される事態となった。

ややこしいことに、この上記の都市伝説は一部合っていて一部誤っているため、勘違いが起こりやすい状況下にある。

そこで、今回は「梅田」の旧地名「埋田」について少しまとめてみようと思う。

梅田の地下には人骨が埋まっているという事実

先のニュース記事にもあった通り、梅田の地下からは大量の人骨が発掘されている。

これは、江戸時代から明治時代にかけて利用された梅田墓(梅田墓地)の跡地だと言われているが、まずはこの梅田墓の歴史について紐解いてみよう。

時代は江戸時代の初めの慶長20年(1615年)の5月、大阪城が灰燼と帰した大阪夏の陣まで遡る。この戦で壊滅状態となった大坂城下を復興し、都市を再建する施策の一つが、寺院と墓地の統廃合であった。

このとき、大坂の中心地であった「大坂三郷」と呼ばれるエリアにあった墓地は郊外に移転させられたのだが、このうち天満にあった墓地は、葭原(現:天神橋筋六丁目付近)・浜(現:南浜霊園)・曽根崎に分散して移設された。曽根崎の墓地は市内に近いことから貞享年間(1684〜1688年)にさらに北の梅田に再移設されることになる。

これら葭原・浜・梅田の墓地と同時期に成立した千日・小橋の墓地に加えて、蒲生(野田)・飛田墓地を加えた計7つの墓は、いつしか「大坂七墓」と総称されるようになった。

江戸時代中期になり町民文化が栄えてくると、人々の娯楽の一つとして「七墓巡り」が流行した。これは盂蘭盆会(太陰暦の7/13〜16の4日間)に七墓で供養されている無縁仏を巡拝することで功徳を得ようとするもので、木魚・持鈴・摺鉦を持った町民は徹夜で七墓を回向したという。

この習わしは明治時代まで続いたが、明治6年(1873年)の火葬禁止令発布に伴い、七墓が改装されることで終息した。明治7年(1874年)に「梅田ステンショ」とも呼ばれた初代大坂駅が開業すると、梅田墓は駅の裏手に影を潜める存在となる。その後、市街地からさらに北東に離れた場所に長柄墓地が新設されると、梅田墓はそこへ改葬されることとなり、一部の無縁墓等を残して、梅田の地から墓は消えた。

これが時は流れ2017年、再開発によって初めて本格的な調査がされ、人骨が大量発掘されることとなったのである。

梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体|毎日新聞
報道発表資料 「大坂七墓」のひとつ、「梅田墓」を初めて発掘調査しました|大阪市

梅田は「埋田」に由来するという(おそらく)事実

改めて梅田の地名の由来について調査してみると、史料に残っている情報として最も古いであろうものは、寛正2年(1461年)に作成された『中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)』のようだ。

嘉吉元年(1441年)、時の室町将軍・足利義教が赤松満祐によって殺害されると、追手から逃げる満祐は播磨国・城山城にて自害することになる(嘉吉の乱)。これによって赤松氏の所領であった摂津国西成郡(中島郡とも)が幕府の御料地となった。この地には義教を弔うために代官・細川持賢によって崇禅寺が建立され、持賢や持賢の被官人、在地の僧・土豪から寄進を受けることで崇禅寺領が築かれた。

この寺領の目録である『中島崇禅寺領目録』によると、

曾祢崎 平田分

という項に、

埋田之内角田
三百歩

と記されており、これが「埋田」の初見とされている(ちなみに「早」は早生の田んぼを意味すると思われる)。つまり、この地域は少なくとも室町時代には「埋田」と称されていた可能性があるということである。


上図は元禄9年(1696年)発行の『大坂大繪圖』。地図の向きが左側が北になっていることに留意いただきたいが、図の中央、「そねざき川」を渡って「大仁村」に向かう橋に「梅田橋」の名称が添えられている。大坂大繪圖は元禄4年(1691年)にも発行されていて、ここにもほぼ同様の図で「梅田橋」が記載されている(参考)。これが「梅田」という文字の史料上最も古い記録だという(綱敷天神社 禰宜日誌)。

橋名に地名が冠されている場合、①シンプルにその橋が設けられている場所を名付けている場合と、②その橋を利用して向かう目的地を示すパターンに大分される。地図には道も墓も描かれていないが、梅田橋からこのまま北上する(上図でいうところ左方向に向かう)と梅田墓が位置するため、後者の命名パターンと捉えることもできる。

ともあれ、ここまでの話をストレートに受け取ると、室町時代には既に「埋田」と呼ばれていた土地が、何かしらの経緯があって少なくとも江戸時代には「梅田」と記されるようになったということなのだろうと拝察されるわけである。

なぜ「埋田」と呼ばれたのか?


上図は地理院地図で「梅田」と検索した結果を示したもので、本州に散らばるように107件がヒットしている(「梅田」という文字列を含んでいる件数である点に注意)。ここからも「梅田」という地名は我が国において一般的な地名であるということが窺える。

そして、これら「梅田」の地名の由来を調べてみると、埋め立て土地という意味の「埋田」から転訛した例が多く見られ、さらにそこに佳字を当てて「梅田」としたとする事例も多数見つかった(参考)。

大阪の梅田あたりは、江戸時代には「下原(したはら)」と呼ばれた湿地帯で、これを埋立てて土地を造成したことから「埋田」となった説があるが(参考)、これは他の「梅田」地名の由来とも合致するため納得がいく。

また、大阪市北区神山町に鎮座する綱敷天神社では、「梅田」は大阪市北区茶屋町にある御旅所の紅梅が由来であると口伝で伝えられてきたといい、あまり印象の良くない「埋田」という漢字に対して華やかな「梅田」という字を当てるというのも、一般的な地名の変遷として違和感のないことに思える。

梅田都市伝説の元祖はどこから?

これまで述べてきた通り、梅田に墓ができたのは江戸時代初期のことで、それより以前に「埋田」という地名が使われていることから、人骨を「埋めた」ことと「埋田」の地名は関連付けられるだけの根拠が今のところ見当たらない。

しかし、ネットを漁っていたところ以下のような記述を発見した。

「曽根崎二丁目今の樋の辺墓地の跡なるよし(由)。今も折り々石塔なぞのかけたる掘出す事ありとぞ。田圃を墓とせし故、埋田の名、付るよし(由)」とする『摂陽群談』の説が有力。また「埋田の名がおこり、さらに梅田となった」とする通説もある。(曽根崎の沿革|幾多の変遷を経て~そして、今 わがまち曽根崎 より引用)

上記のサイトはコピーライトによれば平成28年(2016年)に作成されたものだが、これと同じような文章が平成2年(1990年)刊行の『大阪の町名 -その歴史- 上巻』に町名の由来として記載されているようで、このサイトの内容はその資料から引用してきたものと考えられる(参考)。

ともあれ、どうやら『摂陽群談』 という資料には、田んぼだった場所を墓としたため埋田と名付けたという説が有力との記載があるというではないか。

摂陽群談

『摂陽群談』は、岡田溪志(おかだけいし)という人物が摂津国の伝承や古い文献を整理したもので、元禄11年(1698年)から編纂を開始、同14年(1701年)に完成したものである。当時の摂津の地誌としては最も詳細なものだという。

この資料に梅田についてどのように記されているのか原書を確認してみたところ、以下のような記載があった。

梅田墓所
同郡浦江村ノ東ニアリ此墓始ハ曽根崎村ノ田圃ニアリ大坂市店ニ近ク火葬ノ餘煙其穢ヲ忌テ貞享年中地ヲ此處ニ引シム(摂陽群談巻第九より引用)  

『摂陽群談』には、元々曽根崎村にあった墓所を貞享年間に移設したという程度しか記載がなかった。後年に原書の内容を複写した資料も確認したが、「田圃を墓にしたから埋田と呼ばれるようになった」という話はおろか、「埋田」という単語すら見つけられなかった。 

どうやら『摂陽群談』はだしに使われた可能性が高そうだ。少々きな臭くなってきた。

浪花文庫

調査を進めると、『浪花文庫』という資料に「田圃を墓にしたから埋田と呼ばれるようになった」旨の記載があるということがわかった(参考)。

著者は浜松歌国という江戸時代の狂言作家。安永5年(1776年)に大坂島之内の泉州木綿問屋に生まれ、文政3年(1820年)以降に浜松歌国と名乗ったが、狂言作家としてはそれほど大成せず、むしろ当時の摂津国の地誌や風俗を見聞録風にまとめたことの方が後世に評価されている人物である。

この『浪花文庫』に以下の記述がある。

◯梅田墓所
北野の火葬場は貞享の頃まで曽根崎村の田甫にありて、大坂の市店に近く、火葬の余煙其穢れを忌て浦江村の東に今の地へ移す。
古老云、曽根崎新地二丁目今は樋の辺、往古の墓地の跡なるよし。今も折節石塔五輪なとの旧きを掘出す事ありとぞ。田甫を墓地とせしゆへ、埋田と名付るよし。(浪花文庫より引用)

一段落目は『摂陽群談』にあった内容とほぼ同様だが、二段落目にWebサイトで見たものとほぼ同じ表現で「田んぼを墓地にしたから埋田と名付けた」と記されているではないか。

ただし、その接頭には「古老云」と添えられているのが気になる。

ちなみに、引用元である国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の『浪花文庫』は、明治34年(1901年)に採訪され、昭和56年(1981年)に刊行されたものである。

摂陽奇観

先の『浪花文庫』は浜松歌国のそれまでの諸著作の内容を再構成したものだと考えられている。その諸著作の一つ『摂陽奇観』は全57巻の超大作だが、第10巻以降は『御治世見聞録 摂陽年鑑』と題した年代記になっており、元和元年(1615年)から天保4年(1833年)までの大坂市中の出来事が年代順に記されている。

念のため確認してみると、『摂陽年鑑』の「貞享年間」の項に以下の記述があった。

一 梅田墓所
攝陽羣談云
 始メ曾根崎村の田圃にあり大坂市店に近く火葬の餘煙其穢レを忌て浦江村の東に今の地へ移ス
  古老云曾根崎二丁目今の樋の邊墓地の跡なるよし今も折々石塔なとの缺たるを掘出す事ありとそ田圃を墓とせし故埋田の名付るよし(摂陽奇観より引用) 

記されている内容は『浪花文庫』のものと大差無いが、『摂陽年鑑』にはしっかりと『摂陽群談』から引用したことが明示されている。さらに古老からの情報は、『摂陽群談』から引用してきたものとはしっかりと文字のサイズで区別し、備考的に記す配慮もなされている(引用元である国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の『摂陽奇観』は昭和2年(1927年)に翻刻されたものである点に注意)。

骨が埋まっているから「埋田」だと流布したのは誰だ?

ここまでの情報を時系列に沿って整理する。

『摂陽群談』(1698年〜1701年頃)
「梅田墓所は貞享年間に曽根崎村から移転した」

『摂陽奇観』(1833年頃)
「摂陽群談云わく、梅田墓所は貞享年間に曽根崎村から移転した」
「古老云く、田んぼを墓としたので埋田と名付けられた」

『摂陽奇観』刊行(1927年)

『浪花文庫』刊行(1981年)

『大阪の町名』(1990年)
「田んぼを墓としたので埋田と名付けられた、という『摂陽群談』の説が有力」

まず『大阪の町名』が『摂陽群談』を参照しているならば、このような表現にはなっていないはずである。さらに『摂陽奇観』や『浪花文庫』を参照していたとしても、『摂陽群談』の説としている範囲に誤りがあったり、「古老云」の削除や「有力」という言葉の補完など、意図的な改変が過ぎる。

これまで登場していない他の書籍に記載されている文章や論文を引用したということであれば、その引用元を明示してほしいものであるが、現在のところ『大阪の町名』の実物を私も確認できていないので確証が得られていない。

『大阪の町名』は大阪市市民局という大阪市直轄の機関によって編纂されているもので、記載内容について信憑性が高いという印象を持たれることは容易に想像できる。実際、この説を鵜呑みにして引用しているサイトがあるのは、上記した通りである。

梅田地名についての都市伝説の正体

これまでの情報を整理すると、「梅田」は骨を「埋めた」から「埋田」だ、という言わば都市伝説は因果関係に誤りがあり、「埋田」と呼ばれていた土地に(たまたま)骨を埋めることになった、ということなのだろう。

この文章を書きながらも懸念しているのは、今回の長ったらしいポストをここまで読んでくれた方の中にも、【「梅田」は骨を「埋めた」から「埋田」だ】、という説の因果関係の正否が判断できていない人もいるのではないかということだ。

昨今の情報化社会において、有象無象の情報がひっきり無しに飛び込んでくる中、気になるトピックスがあればその要点を瞬時に把握する力というのが今を生き抜くための必須スキルになってきている。

この必須スキル、私自身も十分備わっているといえず、時折ニュースの内容を誤って理解していたり、断片的な情報しか把握できておらず重要な部分を見逃してしまっていたなんてことも多々あるのが現実である。

今回の都市伝説も、結局のところ人々が「梅田から人骨が出た」「過去に埋田と呼ばれていたらしい」という<点>の情報を、その間を十分な裏付けや補完をせず、短絡的に<線>で結んでしまったことで生じているのではないかと思う。

そして、そこには「こういうストーリーだったら面白いだろう」という一種の「エンタメ性」が働いて、事実が歪曲されたのだと考えると、これまで記してきた様々な事象が自分の中で腑に落ちる。

歪曲された情報がオカルト気質な人々の手に渡ると、面白半分で誤った情報が伝播され、ある種の都市伝説と化して拡散されることになる。大抵のオカルト系の言説は、一瞥してスルーできるような内容であるが、こと地名に関しては諸説が入り乱れていることもあり、信憑性が高いものとして受け取ってしまう人もいるのではないか。

結局のところ、信じるか信じないかはアナタ次第なのだ。

参考文献


2024/11/03

【歩き旅】北国街道 Day7 その④



本町まで戻ってきた。ここから司令部通りを東に進み、高田城へと向かっていく。司令部通りは明治41年(1908年)に陸軍第13師団司令部が高田城に入城した際に、城から街道までの道筋を直進できるように整備したことにちなんでいる。


市の橋で青田川を渡る。青田川は高田城の外堀の役目を果たしていた。かつての市の橋はここから少し南側に設けられた馬出しから架橋されていた。


大手町公園に「絵図で探る高田の城下町」という説明板があった。この絵図は正保城絵図と呼ばれ、築城から約30年後の高田城と城下町の様子が描かれている。


高田公園の一角に高田城の大手橋跡の碑が立つ。城内と城下を結ぶ大手橋は長さ三十二間一尺五寸、幅三間、高さ四間の木橋で、現在の場所よりも10m程北側に架けられていたが、明治23年(1890年)に取り壊された。


高田城の外堀は堀幅が非常に広いのが特徴で、これは関川の複雑な蛇行部分を活かして築城したため。外堀は、西堀・大手堀・南堀・北堀・捨堀で構成されるが、堀幅は広い所で西堀54間(約97m)、大手堀59.5間(約107m)、南堀84間(約151m)、北堀78間(140m)、捨堀26間(約47m)と記録されており、全国的に見てもかなり幅が広い。


現在は高田城址公園として整備されている外堀部分約19haにはハスが植えられている。戊辰戦争で財政難に陥った高田藩をれんこん栽培で立て直すため、明治4年(1871年)に大地主・保阪貞吉が私財を投じてハスを植えたことに始まる。訪問時は時期ではなかったが、高田城址公園観蓮会が7月下旬から8月中旬に開催され、ピンクと白の花が入り交じる世界でも珍しい蓮花群が見頃となる。


公園内には陸軍第十三師団司令部の遺構が至る所に点在している。陸軍第十三師団は日露戦争時に新設された4師団の一つで、明治38年(1905年)に編成。日露戦争後は朝鮮半島の警備、シベリア出兵に参加するなどしたが、軍縮により師団が廃止となった。終戦後には米軍が進駐し、撤退後は新潟大学高田分校として利用され、現在は上越教育大学附属中学校の敷地となっている。


高田城の三重櫓は平成5年(1993年)に復元されたもの。高田城は徳川家康の六男である松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。この時、工事の総監督を務めたのは伊達政宗であった(忠輝の正室は政宗の長女・五郎八(いろは)姫である)。工事期間が短いことや、資材が集まらなかったこともあり、石垣を設けず土塁による造成をしたり、天守閣を設けない作りになっていたりする。


三重櫓の1、2階は展示室、3階は展望台になっている。妙高山だろうか、雪がかった山脈が映える。


高田城の本丸跡には何も残っていない。現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に本丸御殿を初めとした多くの建物が存在していた。表御殿は江戸城、大坂城に次いで全国3番目の規模だったという。そんな本丸御殿について、建物を復活させて観光資源としようという動きが市民団体の間で生まれているようで、市長へ直接要望内容を解説するなどしているという。


上越教育大学附属小学校の敷地にアルパカらしき動物が飼育されていた。調べてみると、命の大切さなどを学んでもらう目的で、毎年長岡市・山古志の牧場からアルパカが提供されているのだという。ヤギやブタを飼育する例は聞いたことがあったが、アルパカを飼育するというのもあるのだと知った。


えちごトキめき鉄道の高田駅から帰宅する。赤レンガの意匠は東京駅丸の内口をイメージしたもので、駅前の歩道部は高田らしく雁木型のアーケードで覆われている。


妙高高原駅で乗り換え。平成27年(2015年)の北陸新幹線開業までは「脇野田駅」という名称だった。東口のロータリーには出来たばかりの上杉謙信像。謙信ゆかりの地といえば、日本海近くの春日山のイメージだが、所在地が上越市なのでまあ良いか。

2024/11/02

【歩き旅】北国街道 Day7 その③



青田川放水路を越える。青田川は市街地を流れており、氾濫対策のための河道拡張が困難な状況であった。そこで市街地に差し掛かる手前で青田川を分水したのが青田川放水路。

右手に関町神明宮が現れる。高田城の南西に位置し、裏鬼門を鎮護している。かつては春日山にあったが、慶長5年(1600年)に福島(現:直江津)、慶長17年(1612年)に出雲町(現:南本町1丁目)、寛永3年(1626年)に現在地に移転した。


南本町二丁目交差点で左に折れる。何度も90度に道が折れるのは城下町特有の防御力を高める工夫である。最賢寺の前に「400年の歴史と文化の町」の説明板があった。慶長19年(1614年)築城の高田城下にある文化財などが一覧化されている。


最賢寺にある文化財の一つが「大イチョウ」。高さ約23mで推定樹齢は300年以上だという。また最賢寺は、真宗大谷派の僧侶で大谷大学の名誉教授でもあった「金子大榮」の生家でもある。


左手に「粟飴翁飴本舗」の看板が掲げられた高橋孫左衛門商店がある。寛永元年(1624年)創業で、日本一古い飴屋と言われる。看板にもある「翁飴」は水と寒天で作られ、日持ちが良いため高田藩が参勤交代での土産に利用していたという。また十返舎一九の著書『方言修行 金草鞋(むだしゅぎょう かねのわらじ)』では、「粟で作った飴が上品で風味がよい」として店の繁盛ぶりとともに紹介されている。夏目漱石の『坊っちゃん』にもこの店の「越後の笹飴」がとりあげられている。


街道は本町一丁目交差点で右に折れる。右手に胎蔵院不動尊が現れる。


その先の交差点に「史跡 札の辻」の標柱が立つ。高札が設置された場所であり、豪雪により「この下に高田あり」の高札が掲げられたこともあった。また各地への里程の起点とした場所でもあり、善光寺まで16里、江戸板橋まで71里としていた。


左手に旧第四銀行高田支店がある。昭和6年(1931年)に百三十九銀行本店として、当時としては珍しい鉄筋コンクリートで建てられた。昭和18年(1943年)に第四銀行に合併され、平成21年(2009年)まで利用された。訪問後は平成31年(2019年)に上越市文化財に指定され、令和6年(2024年)現在では高田まちかど交流館としてイベントなどのホールとして利用されている。


右手にある雁木通りプラザの広場に書状集箱という木箱があった。日本の近代郵便制度の創設に尽力した前島密が越後国頸城郡下池部村(現在の上越市下池部)出身であることにちなんで、日本で最初の郵便ポストと同型のものを設置している。


その裏手に、町会所跡の標柱があった。町会所は藩によって選ばれた町年寄が町政を執る役所で、それまでは町年寄の自宅を持ち回りで利用していたが、延享元年(1744年)に建物が設けられた。昭和46年(1971年)に高田市と直江津市が合併して上越市が成立し、新庁舎が作られるまで高田市役所があった地でもある。


高田城下の町人町は、福島城廃城時に福島城下にあった機能を移転したものが多い。元禄〜寛政年間あたりの高田宿は、役馬が四〇疋(関町一八疋・府古町一五疋・出雲町七疋)、無役馬一八疋(府古町一四疋・関町三疋・出雲町一疋)という規模だった。


小町問屋街跡の碑が立つ。現在の本町4〜6丁目は、かつて上小町、中小町、下小町と呼ばれるエリアで高田の中心地であった。藩から独占販売権を与えられた塩・煙草の問屋があり、信州との取引は必ず小町問屋を通す決まりであった。これにより町や藩の財政を大いに助けた。


本町七丁目交差点。ここまでを北国街道としているガイドブックもあるが、ここから東に進み出雲崎へ向かう道は奥州道。西に向かうと加賀に向かう北陸道・加賀街道となる。どちらも広義には北国街道と呼ばれるが、本日の街道歩きはここまでとし、後日奥州道にあたる北国街道の続きを歩くこととする。


交差点には「小川未明文学の小径」と題された案内板があった。明治15年(1882年)に高田で生まれた未明は、生涯で1200点以上の童話を創作し、「日本のアンデルセン」や「日本近代童話の父」と称される人物。現在でも公募による児童文学賞である「小川未明文学賞」に名を残している。この説明板から北進し、次の信号の近くに小川未明誕生の地があるという。


本町七丁目交差点から少しだけ北に進んだところに宇賀魂神社がある。ここにある道標には「右 お丶しう道 左 か丶みち」とある。この道標は福島城の石垣の石を利用して造られたもので、かつては本町七丁目交差点にあったが、昭和10年(1935年)頃に現在地に移されたという。

折角なので街道を離れて高田城まわりを散策することにした。

2024/11/01

【歩き旅】北国街道 Day7 その②



地蔵尊の少し先に、出雲大社越後石沢講社があった。明治17年(1884年)に出雲大社より認可を得て、郷土の反映と産業振興を祈願して建立された。平成27年(2015年)に講社建立130年を記念して社殿を改築した。


街道沿いには「出雲大社本殿跡地」の碑が置かれている。石沢には江戸時代に杵築大社(現在の出雲大社)の分社があり、御師の宿場もあったというが、これがその跡地なのだろうか。あるいは昭和31年(1956年)の社殿改築や昭和57年(1982年)の拝殿移築の跡地だろうか。


道を挟んで向かいには馬頭観音碑がある。


北陸新幹線の高架下をくぐると、明治天皇石澤御小休所阯の碑がある。隣には「御小休根切松」と刻まれた碑もある。かつては樹齢500年の松が街道に張り出していたが、御巡幸の際に根から切られたという。天皇はここに小屋を立てて休憩した。


県道579号に合流したところに矢代川改修記念碑がある。脇には案内板があり、この矢代川を貞享年間(1684〜1687年)までは徒歩で渡り、その後舟渡しとなっていたが、正徳元年(1711年)になって板橋が完成したことが記されている。この碑は大正3年から2年がかりで行った築堤工事の完成を記念したものだという。


矢代川を瀬渡橋を渡る。昭和8年(1933年)に上越地方初の永久橋として架橋され、改修を重ねているものの今でも現役の古参橋である。


橋を渡った袂には延命地蔵尊の祠がある。

茶屋町交差点を右折し、大和集落へと入る。県道254号を横断すると、大和神社の参道がある。室町戦国期に村上氏の居館である今泉城があった地で、その跡地に明治40年(1907年)、旧大和村の各字の氏神を合祀して大和神社を創建した。


願清寺がある。正安3年(1301年)に覚如の弟子によって創建されたと伝わるようで、寺格もそれなりなのか「越後赤門」の名の通り、赤門が映える。


そのすぐ先に弘法の清水の碑と説明板があった。弘法大師が錫杖で土を掘ったところ清水が湧き出てきたという伝説にちなむもので、長年地域の生活水として利用されていたという。現在は井戸は閉じられてしまっている。弘法の井戸掘りスキルには改めて脱帽する。


突き当りを左に曲がると、荒町交差点で県道579号に合流するので右折する。荒町バス停の近くにある水谷家が江戸時代に大肝煎(関西でいう庄屋、関東でいう名主)だった。左手にある祠には大小2体の地蔵尊が祀られている。


天保6年(1835年)建立の馬頭観世音碑があった。加賀藩の大名行列の際、赤池川(現在の赤池用水)を馬で渡る際に事故があったため設置されたという伝承がある。


高田新田交差点の一角に巨大な題目塔がある。かつてこの辺りに伊勢町一里塚があり、題目塔も建てられていた。この石塔は弘化年間(1844〜1847年)に建立されたもので、最近まで近隣の日蓮宗寺院で保管されていたという。また、この場所は高田城下の南の出入口にあたるため口留番所が置かれ、荷物改めや徴税が行われていた。


同じ一角に伊勢町口番所跡の碑。


一里塚の碑もあった。


高田新田の交差点を越えた辺りから、雁木が張り出した道が伸びる。雪深いときにも通行を確保するための工夫で、高田の雁木は総延長16kmで日本一だという。