【歩き旅】山の辺の道 Day2 その③
藤原町の集落に入ると、白山比咩神社の前に出てくる。由緒は明らかではないが、元禄4年(1691年)、寛政4年(1792年)銘の石灯籠が残されている。広々とした境内で小休憩させてもらった。神社の向かいには明治時代に廃寺になった観音寺の後身である藤原観音堂がある。
集落を抜けると何度目かの田園風景。農業用水のような地蔵院川を越えて、田んぼゾーンを抜けると現在では藤原台として整備されている住宅街エリアとなる。古い地図を見ると一帯は旧日本軍の射撃場だったようで、現在でも自衛隊の射場や寮、墓地があるようだ。白毫寺への案内に沿って森の中へと進んでいくと、再び鹿よけの柵がある。
集落の北東に八坂神社がある。由緒は不明だが、かつてこの地にあった「梵福寺」の鎮守神であり、江戸時代には神社があったという。明治時代には周囲の神社を合祀しており、現在では6つの社殿が設置されている。
八坂神社の先を切り返すように道を下ると、途中に川にショートカットして降りる道へと道標が案内してくる。手元の地図ではここを降りるように案内されておらず、あまり使われていないような道だったこともあったので、今回は迂回路を利用する。岩井川を橋で渡り、民家の脇を案内に沿って進むと再び獣の侵入防止柵。ただ今回は「鹿」対策のものだった。
柵の出口には「奈良道」の文字。山の辺の道のうち、奈良市虚空蔵町から奈良市高畑町までの区間を「奈良道」として保全・整備しているのだという。
柵から出た通りは三重県名張市を経由して伊勢に至る古道で、「名張街道」や「伊勢街道」とも呼ばれる。奈良市営東山霊苑の入り口にこじんまりと立つ地蔵菩薩。丸彫りで150cmもの高さがあり、鎌倉時代後期の建立なだけあって摩耗は進んでいるものの、その表情やポーズはまだ健在だ。
「歴史の道 奈良市」と書かれた石灯籠の脇から入る道は東山霊苑への道。それだけでなく昭和47年(1972年)に奈良市が「歴史の道」というハイキングコースに指定した道でもあり、この道を上っても白毫寺へ向かうことができる。
少し先の三叉路に赤みがかった石の道標があった。「右 かす可゛九丁 ち可道 大ぶ川」と刻まれている。ここを左に行く道が名張街道(伊勢街道)で、その道から外れるように春日大社・東大寺大仏へ向かってショートカットする道が右となる。今回は道標に従って右に向かう。
次の交差点に祠に収められた「仲良し地蔵尊」があった。ここを右に曲がり緩やかな上り坂を進んでいくと、白毫寺への石段が見えてくる。
100段ほどの石段を登りきると白毫寺の本堂が見えてくる。この地は第38代天智天皇の皇子・志貴皇子の山荘跡と伝わり、皇子の没後に寺院が建立された。鎌倉時代に真言律宗の開祖・叡尊によって再興され、叡尊の弟子・道照が中国から一切経を持ち帰ってからは「一切経寺」とも呼ばれるようになった。本尊は阿弥陀如来だが、かつて閻魔堂に安置されていた閻魔王も有名で、御朱印のイラストにもなっている。
真言律宗は真言宗の流れを汲むことから、明治5年(1872年)に明治の宗派整理の際に真言宗にまとめられた。しかしこれに反発する運動が起こり、明治28年(1895年)には真言宗からの独立を認められたという経緯がある。
境内からは奈良市街が一望できる。寛永年間に興福寺頭塔・喜多院より移植してきたという「五色椿」は奈良三銘椿の一つにも数えられており、関西花の寺第18番にも指定されている。
仲良し地蔵尊のあった交差点に戻り、北進していくと「宅春日神社(やけかすがじんじゃ)」がある。神護景雲2年(768年)、天児屋命が河内の枚岡神社より現在の春日神社へ遷座する際、この地で一時滞在したという伝説がある。かつてこの辺りは、この地を治めていた豪族・大宅氏にちなんだ地名で「大宅郷」と呼ばれていたとされ、これが社名の由来と考えられる。
能登川に向かって少しずつ道を下っていく途中、古めの地蔵が路傍にまとめられていた。この手前の一角に墓石が大量に置かれていたので、廃寺でもあったのだろうか。こういった道端の地蔵にもしっかりと赤い前掛けが施されていて、地元の信心深さを感じられる。