気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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©こけ
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2023/09/07

薩摩街道・豊前街道 Day3 その④



高速道路を左手に坂を下る。途中、高速道路の下をくぐって先程断念した道の出口を念のため確認のために寄り道。藪区間を抜けさえすれば道路の線形は残っているようであった。


再び高速道路を左手に進み、途中右手の湯谷集落の方に入っていく。


集落を抜けた田んぼの先に何やら細長い石碑が建っている。「従是西北筑後国柳河領」と見えるこの碑は江戸時代末期に設置されたもの。筑後柳川領と肥後熊本領の境を示すもので、現在でも福岡県大牟田市と熊本県玉名郡南関町の県境となっている。


道を挟んで反対側に、もう一つ同様の石碑があった。こちらは江戸時代初期の建立で、3つに折れたうちの一番上が消失している。おそらくこの石碑が古くなったので先程の碑が江戸時代末期に建てられたのだろう。


同じ場所に豊前街道を利用した参勤交代についての説明板があった。熊本藩主の細川氏は、参勤交代の際に豊後街道を通ることが通例となっていたが、元禄期に入ってから豊前街道が利用されるようになったという。しかも参勤に向かうときは豊前街道、参勤から戻ってくるときは豊後街道が利用される事が多かった。


更に新しい豊前街道の碑もあり、「右 豊前(小倉)へ」「左 南関御茶屋跡」とある。


二又分岐のところは案内に従って下りの舗装が甘い方の道へ向かう。熊本県に入ったからか、この先はこのような白塗りの木製案内が増えてくる。


旧道を南に進んでいくが、この辺りはかつての「関外目村」にあたる。街道から西に少し離れた場所には北原白秋の生家(母方の実家)である旧石井家住宅が保存されているが、今回は街道沿いではないこともあり立ち寄らなかった。

集落の外れ、鬱蒼とした旧道の入り口には「史跡 豊前街道 十一里木」の案内板があった。柳川領では一里石が置かれていたが、肥後では熊本城下札の辻を基点に一里毎に榎が植えられていたという。


田んぼの間の道を抜けると豊前街道案内板があった。右矢印を示しているが事前の調査で道が消失しているらしいとの話があったので、今回は左手に向かう。


国道443号に合流して、南東方向へ進む。しばらくすれば、先程旧道を進んでいた場合の出口と思われる場所に豊前街道の案内板があった。


左手に大津山阿蘇神社の鳥居が見えてきた。正治元年(1199年)に肥後国一宮の阿蘇神社より建磐龍神(たけいわたつのかみ)と阿蘇都媛神(あそつひめのかみ)を勧請したことに始まる。境内には眼病の神である「生目(いきめ)八幡宮」もある。この鳥居の前で街道は右手に折れ、高速道路の下をくぐっていく。


南関宿は筑後国と肥後国の国境に位置し、関所が設けられていたこともあり警備に厳しい場所であった。それを裏付けるかのように、宿場の中央辺りに「南関御番所跡」案内板がある。宿場の北側に上番所、南側に下番所が設けられていた。


二股の右側の道を進んでいくと、豊前街道の時代毎の古地図が掲示されていた。


この看板があるところの先が南関町の施設のようになっているが、その入口をよくみると「手永会所跡」「高札場跡」の文字があった。「手永制」は寛永10年(1633年)に肥後藩が独自に実施を開始した行政制度で、領地を「手永」と呼ばれる区画に分けて管理したもの。各手永には「会所」という役所が設置され、惣庄屋を責任者としておいた。


南関御茶屋跡に立ち寄る。現在の建物は嘉永3年(1850年)に起工し、嘉永5年(1852年)の竣工。明治時代には旅館や民家として利用されていた。"近世の街道沿いの御茶屋跡が現存し、往時の建物構造を残していることは、我が国近世の交通史を考える上で貴重"として、平成15年(2003年)に国の史跡に指定されたことを受けて保存修理を行い、平成17年(2005年)にオープンした。


南関町立図書館の前に「豊前街道南関宿」の碑があった。側面には「乃木少佐宿舎跡 松風旅館にも宿泊」とあった。明治10年(1877年)2月5日に西郷隆盛が挙兵を決断。その情報が政府軍に入ると、大日本帝国陸軍少佐・乃木希典は、薩摩軍の北上に備えて小倉の歩兵第14連隊を掌握しながら2月21日夜に南関に宿泊した。このときに利用した宿舎についての案内だろうか。


恵比寿様を祀る祠があった。木製の祠の内側に寛政7年(1795年)の銘が入った石祠があり、その中に双体の恵比寿様が祀られていた。


立派な楼門を携えた正勝寺が見えてくる。永正3年(1506年)創建の古刹で、西南戦争の際には有栖川宮熾仁親王がこの寺院を大本営とした。


本日の徒歩はここまでで終了。南関は鉄道駅から離れていることもあり、バスが重要な交通網となっている。各社バスのターミナルが点在して、今回は西鉄バスで大牟田方面へ向かい、そこで宿泊することにした。

2023/09/06

薩摩街道・豊前街道 Day3 その③



田園風景を抜けて清水の集落に入っていくと、道はかなり狭くなる。更に進むと鬱蒼とした竹林沿いの道となる。ちょうど筑後平野の端っこを進んでいるため山地の入り口のような坂道もあり「面の坂」と呼ばれているそう。とは言え、そういった区間はそこまで長くなく、再び国道443号に合流する。

祠があって3体ほどの地蔵か何かが祀られていた。この裏手は公園のようになっていて最近復元されたという「面ノ上古墳」がある。


県道774号との交点に道標があった。江戸期に建立されたもののようで、「清水寺道」「柳河道」と刻まれている。この追分を北に進めば瀬高町本吉の清水寺に向かうことができる。清水寺は最澄が大同元年(806年)に建立したと伝わる古刹である。「柳河道」は今来た街道筋のことだろうか。


少し進めばコンクリート造の祠がある。こちらも3体の地蔵と思われる。下半分が水色のタイル張りになっていてデザイン性を感じさせる。


コンクリート祠の脇には「三里」と刻まれた石。矢部街道の二里石の説明には「田中吉政が整備した」とあったが、この三里石の説明には、吉政の四男で柳川藩二代藩主である「田中忠政」が父の遺志を継いで一里塚を設置したとある。またこの道は「南関街道」とも呼ばれていたことが記されていた。


尾野交差点を過ぎたところに2基の鳥居が並んでいた。天満宮と祇園宮の鳥居が並んでいて、境内には楼門や拝殿・本殿などもある。


JAみなみ筑後の敷地に山川みかんの巨大モニュメントがあった。旧山川町を中心に生産されている山川みかんだが、みやま市での年間生産量は6,500トン。福岡県のみかん生産量は全国9位だが、その約3分の1を山川みかんの生産で担っている。


みかんモニュメントの横に五輪塔がいくつか鎮座していた。「野町五輪塔群」と呼ばれ、周辺に散在していた五輪塔を一箇所にまとめたものだという。元々11基程あったというが、現在ではっきりしているのは5基のみ。鎌倉時代から室町時代に建立されたものとされる。伝承によれば、平家の落ち武者を供養したもので「平家の塔」との言われもある。


みやま市山川支所(旧山川町役場)を過ぎ、山川中学校の横を進む。中学校の敷地が終わる辺りにお堂がある。日当川地蔵と呼ばれるこの地蔵は、天正7年(1579年)の隈府城(菊池城)主・赤星氏と龍造寺氏のいざこざに由来する。龍造寺氏に対して赤星統家は長男の新六郎を人質に出すが、その後龍造寺氏の拠点である佐賀への呼び出しに応じない統家を使者が訪問したところ、統家が留守だったため長女の安姫を連れ去った。新六郎と安姫は従者とともに処刑され、これを憂いた里人が供養のために地蔵尊を祀ったという。


原町宿の町並み。原町は構口の場所など判然とせず、原町郵便局の辺りにお茶屋が設けられていたという。街道沿いには、牧馬養馬場に関する事業事務を司る「原町馬役場」や宿屋として機能していた「原町小町女郎屋(桜屋)」などがあったというが、遺構として残るものはない。


家を取り壊した跡地のような場所に、仁王像の吽形があしらわれた壁のようなものがあった。下部に「左隈府 右柳河」の道標も兼ねていたが、少し前のGoogleストリートビューを見るとこの場所にこんな建造物はなかったので、最近建てられたものだと思われる。


その少し先に甲山寺多福院があった。元禄7年(1694年)に、先程の道標にもあった清水寺の鍋島隆尚法印によって建立されたお寺。今は無住の寺だが、筑後三十三箇所観音霊場の第二十七番札所に指定されている。千手観音と馬頭観音が祀られ、「原町のお観音さん」と呼ばれて親しまれている。


車両工場手前で右手の旧道に入る。待居川(まてごがわ)を渡るが、この近くの飯江川との合流地点が「要川」と呼ばれ、公園になっている。この辺りが源平最後の合戦地とされ、源氏の大群に成す術なく平家が破れ散った地である。

公園を抜けて再び国道433号に合流し、三峯集落の辺りに「かさ地蔵」がある。江戸時代後期の建立で、地蔵の光背が傘を被った姿に見えるためそのように呼ばれているのではないかという。


地蔵祠の横の茂みの中の碑は明暦2年(1656年)造立の「田尻因幡守種貞」供養塔。田尻氏はこの近くの飛塚城を居城とした土豪だったが、天文年間あるいは永禄年間頃に田尻親種により柳川市の鷹尾城が築かれ、そちらに転居した。種貞については出自が明らかではないが、文禄の役で戦死したと考えられ、この供養塔はその43回忌にあたり造立されたものと考えられる。



九州縦貫自動車道をアンダーパスしたところに四里石があった。柳川札の辻から4里目にあたる。


山川町北関の集落を抜けるところに「松風の関」についての案内板があった。


ここから国道を逸れて未舗装の区間へと入っていく。


飯江川を渡ってしばらくすれば、未舗装区間は終わって舗装された農道のような区間になる。おそらく近隣住民の農作業で農耕車両の乗り入れ等にも使われているのだろう。わずかばかり登り坂になる。


お堂があり、中に複数の地蔵が安置されていた。関所を破り役人に斬殺された旅人を供養するために地域住民によって作られたという「首斬り地蔵」だろうか。関所に設けられた処刑場跡地だという話もあり、ちょっとした心霊スポットとなっている。


その少し先に「松風の関」の碑が建っていた。古代から筑後国と肥後国を結ぶ重要な街道であり、天然の要害で「背戸坂」とも呼ばれていたところに関所を設けたものと考えられる。関所の正確な場所はわかっておらず、関は1つではなく2つあったという説もある。関の名残は「北関」「南関」の地名に残っている。

この木碑から直進するのが旧道のようだったが、藪で道が見えづらい上に大型ハチの襲来に遭ったので、高速道路を跨いで反対側の道を進んでいくことにした。

2023/09/05

薩摩街道・豊前街道 Day3 その②



新しめの施設が目に飛び込んできた。左手の建物は平成25年(2013年)開業の「九州芸文館」。地域の芸術文化交流施設で、建築デザインは国立競技場のデザインでもおなじみ隈研吾氏による設計となっている。右側の高架は九州新幹線のもので、縞模様は平成23年(2011年)開業の「筑後船小屋駅」。


高架の下をくぐり、鹿児島本線の線路を越える。右手には平成28年(2016年)竣工の「タマホームスタジアム筑後」。プロ野球福岡ソフトバンクホークスの2〜4軍の本拠地と練習場として利用されている。


ひたすらに高規格なのに車がほとんど通らない道路を進んでいくと、いつの間にかみやま市に突入している。左手に川が近づいてくると大子堂だというお堂が出現した。その隣に架かる橋が「行基橋」なので、行基を祀っているのだろうか。


沖端川(おきのはたがわ)を行基橋で渡り、本郷の集落へと差し掛かる。


集落の入り口にある戦後創業の葉玉酒店は、道路拡幅に伴って店舗を再建したとのこと。敷地内にある祠には石祠に祀られた恵比寿と木の切り株が。切り株は道路拡幅時に切り倒されたえのきだろうか。


さらに集落を進むと本郷聖母神社がある。「せいぼ」ではなく「しょうも」と発音する。聖母宮は長崎の壱岐に鎮座する神社で、神功皇后が創建した行宮を起源とする。「聖母」で「長崎」だが、キリスト教に由来するわけではない。


塩塚川沿いの道を進んでいく。民家の傍に小さな「辯才天」と刻まれた碑があった。


本郷集落を抜けて中山大藤交差点に出る。ここに稲荷神社と「二里石」があった。関ケ原の戦い後に逃亡中の石田三成を捕縛した手柄が認められた田中吉政は、筑後・柳川城が与えられ、筑後の府にふさわしい街作りを目指し、周辺のインフラ整備を進めていく。交通面では柳川と久留米を結ぶ田中街道を始めとする道路網を整備し、柳川からの距離の起点の標石となるよう一里毎に標石を置くこととした。この二里石は矢部川沿いに大分に向かう「矢部街道」の二里石だという。


上庄の集落に入っていくが、このあたりから瀬高宿となる。レンガ造りの建物は山下酒造・山下第二酒造所跡。「富貴鶴」や「神代菊」などの銘柄で知られた酒造所だが既に廃蔵となっている。上庄・下庄は江戸時代には酒造りが盛んとなり、江戸末期には瀬高で40軒ほどの酒蔵があったという。


お茶屋前交差点を横切る。かつてこの付近にお茶屋があったのだろうが、特にそれがわかるようなものはない。

突き当りを左折すると上庄八坂神社がある。かつては「祇園宮」と呼ばれ、扁額にもその名残がある。柳川藩の田中吉政や立花宗茂の庇護を受け、江戸時代に実施されていた祇園会では柳川藩家老が代参していたという。


少し先には享保20年(1735年)創業の菊美人酒造・菊美人醸造元がある。北原白秋の姉・加代の嫁ぎ先でもあり、日本酒のラベルにあしらわれる「菊美人」の文字は白秋によるもの。


瀬高橋で矢部川を越える。かつては舟による渡河だったが、文政・天保期に簡易的な橋ができた。洪水の時は一時的に梁を外して岸に上げられるようになっていたが、大名などの渡河の際には、舟を並べた船橋を設けていた。


矢部川を渡ると下庄の集落に入る。なまこ壁の建物など風情のある建物が残る。


新町公民会の前に「伊能忠敬測量基点之地」碑があった。文化9年(1812年)の測量記録には「羽犬塚〜尾嶋〜今寺〜本郷まで測り、無測にて瀬高町に至る。下庄の三池街道追分〜長嶋〜古賀まで測る」みたいなことが書かれているようだ。


新町、元町を抜けて用水路沿いの道を進む。すると鹿児島本線の線路にぶつかって道路が途切れてしまうので、少し北側の国道へ迂回する。先程途切れた道の延長に戻ると「二里石」があった。こちらは薩摩街道の二里石となる。


用水路沿いの道を進むと、国道443号に合流する。ここからしばらく国道に沿って南下していく。本当は僅かに旧道区間があったが消失区間も多いので横着して国道を進んでしまった。大根川に差し掛かったところで、国道を離れる。