薩摩街道・豊前街道 Day3 その④
高速道路を左手に坂を下る。途中、高速道路の下をくぐって先程断念した道の出口を念のため確認のために寄り道。藪区間を抜けさえすれば道路の線形は残っているようであった。
再び高速道路を左手に進み、途中右手の湯谷集落の方に入っていく。
集落を抜けた田んぼの先に何やら細長い石碑が建っている。「従是西北筑後国柳河領」と見えるこの碑は江戸時代末期に設置されたもの。筑後柳川領と肥後熊本領の境を示すもので、現在でも福岡県大牟田市と熊本県玉名郡南関町の県境となっている。
道を挟んで反対側に、もう一つ同様の石碑があった。こちらは江戸時代初期の建立で、3つに折れたうちの一番上が消失している。おそらくこの石碑が古くなったので先程の碑が江戸時代末期に建てられたのだろう。
同じ場所に豊前街道を利用した参勤交代についての説明板があった。熊本藩主の細川氏は、参勤交代の際に豊後街道を通ることが通例となっていたが、元禄期に入ってから豊前街道が利用されるようになったという。しかも参勤に向かうときは豊前街道、参勤から戻ってくるときは豊後街道が利用される事が多かった。
更に新しい豊前街道の碑もあり、「右 豊前(小倉)へ」「左 南関御茶屋跡」とある。
二又分岐のところは案内に従って下りの舗装が甘い方の道へ向かう。熊本県に入ったからか、この先はこのような白塗りの木製案内が増えてくる。
旧道を南に進んでいくが、この辺りはかつての「関外目村」にあたる。街道から西に少し離れた場所には北原白秋の生家(母方の実家)である旧石井家住宅が保存されているが、今回は街道沿いではないこともあり立ち寄らなかった。
集落の外れ、鬱蒼とした旧道の入り口には「史跡 豊前街道 十一里木」の案内板があった。柳川領では一里石が置かれていたが、肥後では熊本城下札の辻を基点に一里毎に榎が植えられていたという。
田んぼの間の道を抜けると豊前街道案内板があった。右矢印を示しているが事前の調査で道が消失しているらしいとの話があったので、今回は左手に向かう。
国道443号に合流して、南東方向へ進む。しばらくすれば、先程旧道を進んでいた場合の出口と思われる場所に豊前街道の案内板があった。
左手に大津山阿蘇神社の鳥居が見えてきた。正治元年(1199年)に肥後国一宮の阿蘇神社より建磐龍神(たけいわたつのかみ)と阿蘇都媛神(あそつひめのかみ)を勧請したことに始まる。境内には眼病の神である「生目(いきめ)八幡宮」もある。この鳥居の前で街道は右手に折れ、高速道路の下をくぐっていく。
南関宿は筑後国と肥後国の国境に位置し、関所が設けられていたこともあり警備に厳しい場所であった。それを裏付けるかのように、宿場の中央辺りに「南関御番所跡」案内板がある。宿場の北側に上番所、南側に下番所が設けられていた。
二股の右側の道を進んでいくと、豊前街道の時代毎の古地図が掲示されていた。
この看板があるところの先が南関町の施設のようになっているが、その入口をよくみると「手永会所跡」「高札場跡」の文字があった。「手永制」は寛永10年(1633年)に肥後藩が独自に実施を開始した行政制度で、領地を「手永」と呼ばれる区画に分けて管理したもの。各手永には「会所」という役所が設置され、惣庄屋を責任者としておいた。
南関御茶屋跡に立ち寄る。現在の建物は嘉永3年(1850年)に起工し、嘉永5年(1852年)の竣工。明治時代には旅館や民家として利用されていた。"近世の街道沿いの御茶屋跡が現存し、往時の建物構造を残していることは、我が国近世の交通史を考える上で貴重"として、平成15年(2003年)に国の史跡に指定されたことを受けて保存修理を行い、平成17年(2005年)にオープンした。
南関町立図書館の前に「豊前街道南関宿」の碑があった。側面には「乃木少佐宿舎跡 松風旅館にも宿泊」とあった。明治10年(1877年)2月5日に西郷隆盛が挙兵を決断。その情報が政府軍に入ると、大日本帝国陸軍少佐・乃木希典は、薩摩軍の北上に備えて小倉の歩兵第14連隊を掌握しながら2月21日夜に南関に宿泊した。このときに利用した宿舎についての案内だろうか。
恵比寿様を祀る祠があった。木製の祠の内側に寛政7年(1795年)の銘が入った石祠があり、その中に双体の恵比寿様が祀られていた。
立派な楼門を携えた正勝寺が見えてくる。永正3年(1506年)創建の古刹で、西南戦争の際には有栖川宮熾仁親王がこの寺院を大本営とした。
本日の徒歩はここまでで終了。南関は鉄道駅から離れていることもあり、バスが重要な交通網となっている。各社バスのターミナルが点在して、今回は西鉄バスで大牟田方面へ向かい、そこで宿泊することにした。