名所江戸百景:待乳山山谷堀夜景 -隅田川に落ちる光と影-
休日に「猿わか町夜の景」の現場、浅草六丁目あたりを探索していた。
その日は天候に恵まれたものの、車通りが多かったので、なかなか目的地を深く見ることができなかった。
仕方なし、隅田川沿いをとぼとぼと歩いているとき、ふとこの辺りに名所江戸百景の作画地点があることを思い出した。
木目が見える程の黒をベースにしたこの作品は、隅田川東側から待乳山(まつちやま)・山谷堀を芸者越しに臨んだ風景を写している。
画面中央の森のようなこんもりとした影が待乳山である。
その脇には隅田川に流れ込む山谷堀と、それを跨ぐ今戸橋が描かれている。
山谷堀の両脇に灯る明かりは、向かって左側が「竹屋」、右側が「有明楼」という船宿である。
上図は、「江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(嘉永二年(1849)〜文久二年(1862))」より隅田川に山谷堀が注ぎ込む地点を拡大したものである。絵の右側が北向きとなっていることに注意して頂きたい。
下側の左右(南北)に流れるのが隅田川である。
その隅田川から山谷堀を辿って一番目にかかる橋が「今戸橋」である。
新しい港という意味の「今津」が転訛して「今戸」という地名になったとされており、隅田川西岸に広く分布していた地名である。
今戸橋の南(上地図でいう左)にある「聖天社」は、「待乳山聖天宮」を指す。
ここは小高い丘になっており、かつては東に筑波山、西に富士山を臨むことができたという。
また待乳山はかつて「真土山」と書いた。
沖積低地には珍しい堆積層の台地であったため、「真の土」がある山という意味で真土山と呼ばれるようになったとも言われている。
それもあって、「今戸焼」と呼ばれる瓦や人形・土器などの製造が盛んであった。
江戸期の山谷堀
山谷堀は、荒川の氾濫対策として、箕輪(現在の三ノ輪)から今戸までを結んだ水路である、とされているが、山谷堀が作られた正確な年代は解っていないのが現状である。
山谷堀沿いに水害対策として築かれた「日本堤」は、元和6年(1621年)に作られており、山谷堀は少なくともこれ以前には存在していたはずである。
この流路には、江戸時代末期に繁栄した「猿若町(1843年頃成立)」などもあったが、中でも「吉原遊郭(1656年に山谷堀沿いに移転)」へ通うための交通手段として、山谷堀が利用されていた。
吉原へは猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小型の木舟によって向かうことができ、吉原へ通うことを「山谷通い」と言うほどだった。
つまり山谷堀=吉原なのである。
広重が絵の最前面に芸者を選んだのも、当然と言えよう。
明治以降の山谷堀
栄華を極めた吉原も、明治以降は他の花街に勢いを押され、次第に規模が縮小していく。
とどめとなる1958年の売春防止法の施行により吉原は閉鎖され、いわゆるソープ街として運営を続けていくも、徐々に衰退していくのである。
一部の橋の橋柱が残されているのと、交差点名に橋の名前が使用されていることから、かろうじて、かつてここが水路の流路であったことを思い起こさせてくれる。しかし、今や今戸周辺はいわゆるホームレスの巣窟なのである。この「今戸橋」の写真を撮ったときも、後ろを振り返ればその類いの一団が日光浴をしていた。
高度経済成長に伴った日雇い労働者の増加により、台東区と荒川区に広がる「山谷地区」周辺には簡易宿泊施設が立ち並ぶいわゆる「ドヤ街」として賑わっていた。
今は労働者というよりは、高齢者の姿が目立つ。
もちろん、かつて山谷を根城にして生活していた労働者の今の姿であったりもするのだが、むしろ地方から身寄りの無い高齢者が簡易宿泊施設を頼って集まってきているのだという話を最近のニュースで見かけた。
広重が絵を書いた位置と思われる辺りから、現在の山谷堀跡を臨んでみた。
待乳山は周囲のビルに埋もれて、その高さがよくわからなくなっている。
また山谷堀も水門に阻まれ、どこが隅田川へ流入する地点だったかもわかりづらい。
少なくとも夜になれば、船宿のわずかな明かりどころか、空がまぶしいほどの光で対岸は埋め尽くされるだろう。
しかし、その光がそこに住んでいる全員に享受されている訳ではないことを、改めて思い知らされた次第である。