気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2018/08/28

【歩き旅・ルート】水戸街道 〜山と水田を眺める道〜




徳川家康が江戸に入府してまず取り掛かったのが五街道の整備。慶長6年(1901年)から整備は始まったが、その五街道である日光街道、奥州街道と千住宿で分岐し、水戸方面に伸びるのが水戸街道である。
江戸時代には五街道の付属街道として主要な街道に配置される道中奉行の支配下にもあったことから、当時から重要であったことが伺える。

水戸といえば思いつくのが水戸光圀に代表される御三家・水戸徳川家。慶長14年(1909年)に徳川頼房を創始とする水戸徳川家が成立すると、水戸街道の整備はさらに盛んになっていった。

水戸徳川家が治めていた水戸藩は参勤交代を行わない江戸定府であったため、藩主が水戸街道を通行することは稀であった。代わりに家臣や伝令の行き来は盛んに行われていたようである。
また参勤交代で利用する藩も多く、23もの大名が利用していたという。これは水戸藩の勢力拡大に伴う街道整備により交通の便が良くなったこと、そして五街道の混雑を避ける目的で利用する藩が多かったようだ。

水戸までの道中はアップダウンもほとんどなく、平地をひたすら進んでいくような感じである。東京都内から千葉県内にかけては都市部の外郭エリア、以降は住宅地と田園風景を交互に眺める道中であった。
基本的にJR常磐線に沿った道のりではあるが、石岡駅から水戸駅までは駅から離れた場所を進むため、この区間は一日で水戸まで歩いてしまうことをオススメする。
山あり谷あり波乱万丈な行程ではないが、まったりと風景を眺めながら進む街道歩きとして楽しむことができた。

宿場は以下の通り。
千住宿ー新宿ー松戸宿ー小金宿ー我孫子宿ー取手宿ー藤代宿ー若柴宿ー牛久宿ー荒川沖宿ー中村宿ー土浦宿ー中貫宿ー稲吉宿ー府中宿ー竹原宿ー片倉宿ー小幡宿ー中村宿ー水戸宿

1日目 2015/06/13 千住〜金町 その①
2日目 2015/06/23 金町〜柏 その① その②
3日目 2015/07/19 柏〜藤代 その① その②
4日目 2016/06/11 藤代〜土浦 その① その② その③ その④
5日目 2016/11/20 土浦〜石岡 その① その② その③
6日目 2018/03/18 石岡〜水戸 その① その② その③ その④

参考文献
松戸市立博物館企画展「水戸道中 宿場と旅人」

2018/08/15

浅草線はなぜ泉岳寺駅で分岐するのか




都営浅草線は押上駅から西馬込駅を35分で結ぶ地下鉄である。押上から山手線東側に沿うようにして南下し、泉岳寺駅付近で南西方向に進路を変えて西馬込方面へ伸びていく。泉岳寺駅は京急本線との直通運転の分岐点となっており、京急本線品川方面へ向かう電車と、浅草線本線を西馬込方面へ向かう電車がこの駅で交差する。

ある日ふと疑問に思ったのだ。「なぜ泉岳寺駅で分岐するのか」と。分岐するにしても品川駅で分岐したほうが何かと利便性が良さそうであるし、そもそも進行方向を変えてまで西馬込方面へ向かう必要があるのかと。

その謎を浅草線の歴史から考察してみると明確な理由は明らかにならなかったが、複合的な要因があって現在に至ることが分かった。

地下鉄の必要性を説いた男


こちらの路線図は大正9年(1920年)「東京市の交通機関に就て」(国立国会図書館デジタルコレクション)より抜粋したもの。右が北を指しており、中央に皇居がある。皇居の東側を南北に通るのが、東京地下鉄道株式会社によって「第一期工事路線」として提案された路線。浅草と南千住を起点として品川へ至る線形は、現在の浅草線と銀座線のルートを合わせたよう。この路線を提唱した早川徳次は、早稲田大学卒業後、南満州鉄道、内閣鉄道院(後の鉄道省)、東武鉄道で従事し、鉄道の将来に希望を見出した。大正3年(1914年)にはロンドンの鉄道事情を視察し、そこで市民の足として利用されている地下鉄の有用性を目の当たりにした。その経験を元に彼は都市を高速に移動する手段として地下鉄が早急に必要であることを説き、後に「地下鉄の父」と呼ばれることになる。

彼が提唱した「第一期工事路線」は、郊外の鉄道との接続を意識したものである。南端の品川駅(現・北品川駅、1904年開業)では京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)と接続。北端は2方向に分かれるが、浅草駅方面は第二期工事に延伸して京成電気軌道(現・京成電鉄)押上駅(1912年開業)に接続し、もう一方は南千住駅(1896年開業)で日本鉄道(現・JR)常磐線、東北線、少し離れた王子電気鉄道(現・都電荒川線)三ノ輪橋駅(1913年開業)とも連絡する計画である。
このときの計画は、複数路線を接続することにより、都市間を高速に移動することに主眼を置いていたことがわかる。
早川の東京軽便地下鉄道は第一期工事路線にあたる免許を大正8年(1919年)に取得している。
免許状
東京府東京市芝區高輪南町ヨリ同府同市浅草區公園廣小路ニ至ル(中略)地下鐵道ヲ敷設シ旅客運輸ノ業ヲ営ムコトヲ免許ス

東京市による都市計画

大正12年(1923年)9月1日、東京が未曾有の災害に襲われた。関東大震災である。
この出来事によりそれまで計画されていた地下鉄計画は一度白紙となったが、当時の東京市民の足であった市電も大きなダメージを負った事から、市内の交通手段の整備が早急に必要な状況となった。

都市に鉄道路線を計画するにあたって、複数路線をどのように交差させて路線を組み立てるかが重要になってくる。いくつかの案については後述するが、共通して言えるのはどれもが「都市輸送」ではなく「都市輸送」を意識したものであるということ。つまり路線のジャンクションを都市部に設け、そこから各方面へ向かう路線へ乗り継ぎ郊外へ向かえるようにする考え方である。これにより郊外に複雑な路線網を構築することなく、必要最小限の路線で効率の良い輸送を可能としている。

東京市はまずPetersen(ペーターゼン)式による交通網の構築を模索した。この方式は、都市部に碁盤の目のように路線を通すことで簡潔に路線を組み立てることができる一方、目的の路線までの乗り換えが多くなってしまう場合がある。日本では大阪地下鉄がこの方式といえる(参考:OsakaMetro|路線図)。

大正13年(1924年)の東京市出願路線は、このペターゼン式を念頭において計画された。現在の浅草線に相当する路線は北千住〜上野〜日本橋〜三田〜五反田〜平塚(品川区)を通る2号線として計画されていた。しかし、この東京駅を中心とした路線網を考えたとき不都合が生じてしまうことが想定された。それはどうしても皇居の下を通すような路線を構築しなくてはならないことである。そこで皇居を迂回しつつ、他の路線との乗り換えが1回で済ますことができるTurner(ターナー)式を採用することにした。
この経緯は、大正14年(1925年)1月31日の時事新報に記されている(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・時事新報 鉄道(20-51) 大正14年1月31日「地下鐵道案變更 關係者協議會でターナー式採用に決定」)。
大正十四年三月 内務省公示 東京都市計画高速度交通機関路線網
第一號路線 
省線五反田驛附近より芝公園、新橋驛、日本橋、上野、浅草を経て押上に至る
ただし、この路線の一部はすでに東京軽便地下鉄道が工事準備を進めていた路線と並行していたため、第一號路線の免許取得には至らなかった(同時に申請していた第二號〜第五號路線は免許取得)。しかし同時に、今後東京市が東京地下鉄道を買収して東京市の地下鉄網を統一すべしという見解が添えられた。これが後に都営地下鉄・営団地下鉄の共存へと繋がるのだが、その話はまた別の機会に。

東京軽便地下鉄道改め東京地下鉄道も、同年5月に三田二丁目から省線五反田を経由して池上に至る路線の免許を申請している。これは免許取得していた浅草〜品川間から分岐する形の路線となっており、こちらは昭和4年(1929年)に免許取得となった。


この路線図は昭和9年(1934年)段階の東京地下鉄道の免許線を表したもの。白丸で結ばれた黒線は東京市営電車(東京市電)の軌道を表しており、赤い破線が分岐しているのは札ノ辻停車場あたりになる。泉岳寺停車場はその一つ南にある白丸の箇所である。

度重なる修正と戦後の復興計画

ここからこの東京地下鉄道の計画線がどのような経緯を辿って現在に至るのか、ダイジェストで語る。

昭和2年(1927年)、東洋初の地下鉄が浅草〜上野間で開業した。後の東京メトロ銀座線の一部であるこの路線を開業したのは東京市ではなく早川の東京地下鉄道で、昭和9年(1934年)に浅草〜新橋間を開通させたところまでは計画通りであった。東京市が財政難などを理由に免許の一部を「東京高速鉄道」に譲渡したのだ。この会社は東京横浜鉄道(後の東京急行電鉄)の資本で設立されたものである。東京高速鉄道による路線開通は進み、昭和14年(1939年)には渋谷〜新橋間が繋がった。
東京地下鉄道は当初より品川まで路線を延伸し、京浜電気鉄道と接続することを考えていたため新橋駅での東京高速鉄道との乗り入れに反発したが、結局新橋駅で相互乗り入れすることとなり、これが現在の東京メトロ銀座線の前身となった。
第二次世界大戦が始まると鉄道を取り巻く状況は一変し、昭和16年(1941年)に東京地下鉄道、東京高速鉄道は「帝都高速度交通営団」として統合された。これが後の東京メトロである。

戦後は地下鉄計画が状況に応じて頻繁に見直されていくこととなり、新橋以南の路線計画も幾度となく見直しを重ねていくこととなった。

戦後直後には政府に戦災復興院が設置され、昭和21年(1946年)には東京復興都市計画鉄道として5路線が告示された(戦災復興院告示第252号)。
1号線:武蔵小山ー五反田ー田町ー愛宕町ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー茅場町ー浅草橋ー上野広小路ー本郷三丁目ー巣鴨ー板橋1丁目
昭和31年(1956年)の都市交通審議会第1号答申「東京およびその周辺における都市交通に関する第一次答申」では下記ルートが提唱された。
第1次線:五反田ー三田ー御成門ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー築地ー茅場町ー浅草橋ー雷門ー吉野町二丁目ー南千住ー北千住 
またこの答申以降、それまで営団地下鉄主導で行われていた地下鉄計画に都営地下鉄が参画することとなった。
昭和37年(1962年)の都市交通審議会第6号答申では、人口の都市集中が問題として取り上げられ地上交通の混雑緩和としての意味合いが強い路線計画が提唱された。
1号線:品川ー泉岳寺ー田町ー新橋ー銀座東4丁目ー江戸橋1丁目ー人形町ー浅草橋ー駒形ー吾妻橋1丁目付近(押上)
6号線:西馬込ー五反田ー田町ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー大和町ー上板橋ー志村
この計画では1号線を品川方面、6号線を五反田方面へ延ばす計画であったが、昭和43年(1968年)の都市交通審議会第10号答申では、
1号線:西馬込・品川ー田町ー新橋ー浅草橋ー浅草ー押上
6号線:桐ケ谷ー五反田ー三田ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー板橋ー大和町
と改められた。1号線は現在の浅草線の線形とほぼ一致している。同年に都営1号線大門駅〜泉岳寺間が開業すると同時に、京急線と相互直通運転を実施。2018年で50周年を迎えた。
なお6号線(後の都営三田線)は桐ケ谷駅で東急池上線と直通運転する計画であったが、計画は中止され五反田ではなく目黒方面へ延伸し、目黒駅で東急目黒線と直通運転を果たすこととなった。

まとめ

都営浅草線が泉岳寺で分岐する理由として、当方では下記2点を理由として述べることにする。

①都市計画の観点から、郊外と都心を結ぶ路線が必要であったため。
 押上・品川間を南北に縦断するのではなく、当時都市開発が進んでいた山の手の外側・五反田以西にも路線を延ばす必要があった。

②私鉄各社との相互直通運転を行うことで、都心部の路線網が複雑になることを防ぐため。
 押上で京成電鉄、品川で京急電鉄と相互乗り入れし、東急電鉄との乗り入れ計画は破綻してしまったが、五反田では東急池上線に乗り換えができる。

実は現在、成田空港と羽田空港を短時間で結ぶための「都心線」構想が浮上している。押上〜新東京駅(現在の大手町駅近く)〜泉岳寺間を大深度で結ぶことで、空港利用者の利便性を高めようというわけである(参考:「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」)。
この計画を受けてというわけではないが、泉岳寺駅の改修計画も進んでいる(参考:「都市高速鉄道第1号線(都営浅草線・京浜急行本線)泉岳寺駅の改良計画について」)。さらに山手線の新駅も泉岳寺駅近くに開業することになりそうであったり、泉岳寺駅を取り巻く環境は変化しつつある。

これまで単なる乗換駅であったこの駅が、今後どのような変貌を見せるのか期待したいところである。

都営浅草線年表

1960年11月 都営地下鉄線として押上〜浅草橋間開業。京成線と直通運転を開始。
1962年5月 浅草橋〜東日本橋間開業。
1962年9月 東日本橋〜人形町間開業。
1963年2月 人形町〜東銀座間開業。
1963年12月 東銀座〜新橋間開業。
1964年10月 新橋〜大門間開業。
1968年6月 大門〜泉岳寺間開業。京急線と直通運転を開始。
1968年11月 泉岳寺〜西馬込間開業。
1978年7月 都営地下鉄1号線を浅草線に改称。