東京市はまずPetersen(ペーターゼン)式による交通網の構築を模索した。この方式は、都市部に碁盤の目のように路線を通すことで簡潔に路線を組み立てることができる一方、目的の路線までの乗り換えが多くなってしまう場合がある。日本では大阪地下鉄がこの方式といえる(参考:
大正13年(1924年)の東京市出願路線は、このペターゼン式を念頭において計画された。現在の浅草線に相当する路線は北千住〜上野〜日本橋〜三田〜五反田〜平塚(品川区)を通る2号線として計画されていた。しかし、この東京駅を中心とした路線網を考えたとき不都合が生じてしまうことが想定された。それはどうしても皇居の下を通すような路線を構築しなくてはならないことである。そこで皇居を迂回しつつ、他の路線との乗り換えが1回で済ますことができるTurner(ターナー)式を採用することにした。
この経緯は、大正14年(1925年)1月31日の時事新報に記されている(
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・時事新報 鉄道(20-51) 大正14年1月31日「地下鐵道案變更 關係者協議會でターナー式採用に決定」)。
大正十四年三月 内務省公示 東京都市計画高速度交通機関路線網
第一號路線
省線五反田驛附近より芝公園、新橋驛、日本橋、上野、浅草を経て押上に至る
ただし、この路線の一部はすでに東京軽便地下鉄道が工事準備を進めていた路線と並行していたため、第一號路線の免許取得には至らなかった(同時に申請していた第二號〜第五號路線は免許取得)。しかし同時に、今後東京市が東京地下鉄道を買収して東京市の地下鉄網を統一すべしという見解が添えられた。これが後に都営地下鉄・営団地下鉄の共存へと繋がるのだが、その話はまた別の機会に。
東京軽便地下鉄道改め東京地下鉄道も、同年5月に三田二丁目から省線五反田を経由して池上に至る路線の免許を申請している。これは免許取得していた浅草〜品川間から分岐する形の路線となっており、こちらは昭和4年(1929年)に免許取得となった。
この路線図は昭和9年(1934年)段階の東京地下鉄道の免許線を表したもの。白丸で結ばれた黒線は東京市営電車(東京市電)の軌道を表しており、赤い破線が分岐しているのは札ノ辻停車場あたりになる。泉岳寺停車場はその一つ南にある白丸の箇所である。
度重なる修正と戦後の復興計画
ここからこの東京地下鉄道の計画線がどのような経緯を辿って現在に至るのか、ダイジェストで語る。
昭和2年(1927年)、東洋初の地下鉄が浅草〜上野間で開業した。後の東京メトロ銀座線の一部であるこの路線を開業したのは東京市ではなく早川の東京地下鉄道で、昭和9年(1934年)に浅草〜新橋間を開通させたところまでは計画通りであった。東京市が財政難などを理由に免許の一部を「東京高速鉄道」に譲渡したのだ。この会社は東京横浜鉄道(後の東京急行電鉄)の資本で設立されたものである。東京高速鉄道による路線開通は進み、昭和14年(1939年)には渋谷〜新橋間が繋がった。
東京地下鉄道は当初より品川まで路線を延伸し、京浜電気鉄道と接続することを考えていたため新橋駅での東京高速鉄道との乗り入れに反発したが、結局新橋駅で相互乗り入れすることとなり、これが現在の東京メトロ銀座線の前身となった。
第二次世界大戦が始まると鉄道を取り巻く状況は一変し、昭和16年(1941年)に東京地下鉄道、東京高速鉄道は「帝都高速度交通営団」として統合された。これが後の東京メトロである。
戦後は地下鉄計画が状況に応じて頻繁に見直されていくこととなり、新橋以南の路線計画も幾度となく見直しを重ねていくこととなった。
戦後直後には政府に戦災復興院が設置され、昭和21年(1946年)には東京復興都市計画鉄道として5路線が告示された(戦災復興院告示第252号)。
1号線:武蔵小山ー五反田ー田町ー愛宕町ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー茅場町ー浅草橋ー上野広小路ー本郷三丁目ー巣鴨ー板橋1丁目
昭和31年(1956年)の都市交通審議会第1号答申「東京およびその周辺における都市交通に関する第一次答申」では下記ルートが提唱された。
第1次線:五反田ー三田ー御成門ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー築地ー茅場町ー浅草橋ー雷門ー吉野町二丁目ー南千住ー北千住
またこの答申以降、それまで営団地下鉄主導で行われていた地下鉄計画に都営地下鉄が参画することとなった。
昭和37年(1962年)の都市交通審議会第6号答申では、人口の都市集中が問題として取り上げられ地上交通の混雑緩和としての意味合いが強い路線計画が提唱された。
1号線:品川ー泉岳寺ー田町ー新橋ー銀座東4丁目ー江戸橋1丁目ー人形町ー浅草橋ー駒形ー吾妻橋1丁目付近(押上)
6号線:西馬込ー五反田ー田町ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー大和町ー上板橋ー志村
この計画では1号線を品川方面、6号線を五反田方面へ延ばす計画であったが、昭和43年(1968年)の都市交通審議会第10号答申では、
1号線:西馬込・品川ー田町ー新橋ー浅草橋ー浅草ー押上
6号線:桐ケ谷ー五反田ー三田ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー板橋ー大和町
と改められた。1号線は現在の浅草線の線形とほぼ一致している。同年に都営1号線大門駅〜泉岳寺間が開業すると同時に、京急線と相互直通運転を実施。2018年で50周年を迎えた。
なお6号線(後の都営三田線)は桐ケ谷駅で東急池上線と直通運転する計画であったが、計画は中止され五反田ではなく目黒方面へ延伸し、目黒駅で東急目黒線と直通運転を果たすこととなった。
まとめ
都営浅草線が泉岳寺で分岐する理由として、当方では下記2点を理由として述べることにする。
①都市計画の観点から、郊外と都心を結ぶ路線が必要であったため。
押上・品川間を南北に縦断するのではなく、当時都市開発が進んでいた山の手の外側・五反田以西にも路線を延ばす必要があった。
②私鉄各社との相互直通運転を行うことで、都心部の路線網が複雑になることを防ぐため。
押上で京成電鉄、品川で京急電鉄と相互乗り入れし、東急電鉄との乗り入れ計画は破綻してしまったが、五反田では東急池上線に乗り換えができる。
実は現在、成田空港と羽田空港を短時間で結ぶための「都心線」構想が浮上している。押上〜新東京駅(現在の大手町駅近く)〜泉岳寺間を大深度で結ぶことで、空港利用者の利便性を高めようというわけである(参考:「
東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」)。
この計画を受けてというわけではないが、泉岳寺駅の改修計画も進んでいる(参考:「
都市高速鉄道第1号線(都営浅草線・京浜急行本線)泉岳寺駅の改良計画について」)。さらに山手線の新駅も泉岳寺駅近くに開業することになりそうであったり、泉岳寺駅を取り巻く環境は変化しつつある。
これまで単なる乗換駅であったこの駅が、今後どのような変貌を見せるのか期待したいところである。
都営浅草線年表
1960年11月 |
都営地下鉄線として押上〜浅草橋間開業。京成線と直通運転を開始。 |
1962年5月 |
浅草橋〜東日本橋間開業。 |
1962年9月 |
東日本橋〜人形町間開業。 |
1963年2月 |
人形町〜東銀座間開業。 |
1963年12月 |
東銀座〜新橋間開業。 |
1964年10月 |
新橋〜大門間開業。 |
1968年6月 |
大門〜泉岳寺間開業。京急線と直通運転を開始。 |
1968年11月 |
泉岳寺〜西馬込間開業。 |
1978年7月 |
都営地下鉄1号線を浅草線に改称。 |