気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2017/07/29

【歩き旅】大山街道 Day1 ~若者文化のど真ん中を突っ切る~



青山通り大山街道は赤坂御門を起点として静岡県沼津市まで伸びる「矢倉沢往還」を基盤とした道のり。赤坂御門は江戸城外郭門の一つで、石垣が今でも残っている。ここから国道246号へ出るのだが、首都高に邪魔されてなかなか道沿いに進めないので注意。


国道246号に出てすぐ目に付くのが豊川稲荷である。大岡越前守忠相の子、忠宣が三河の豊川稲荷を自宅に分祀したことに始まり、明治20年に赤坂一ツ木から当地に移転してきた。商売繁盛にご利益があり、テレビ局が近いからか芸能人もよく訪れるのだとか。
商売繁盛ではないが、街道歩きの無事を祈願した。


246号から外れて旧道を歩く。傾斜はそこまできつくないのだが、路面が悪く牛が苦しんだため「牛鳴坂」と名付けられたという。


坂の最高地点付近には牛ではなくラクダが見守っている。このビルにあった赤坂彫金学校が作ったオブジェのようだが、詳細は不明である。


旧道区間から国道へ戻り、高橋是清翁記念公園に立ち寄る。第20代内閣総理大臣も務めた高橋是清の邸宅がこの地にあった。1936年(昭和11年)に当地にあった邸宅の二階で青年将校によって暗殺された事件は、二・二六事件として有名である。
国道を挟んだ向かい側の広大な土地は赤坂御用地で、皇太子の住まいである東宮御所などがある。


ハイセンスなビル群を眺めながら外苑前の駅前まで行ったところで、急に竹林が出没する。正体は浄土宗の寺院「梅窓院」の参道である。寛永20年(1643年)、老中青山大蔵少輔幸成が死去した際、下屋敷の一部を寺院としたもので、戒名の頭の3字を取って梅窓院とした。
青山幸成の名は、「青山」の地名に今でも生きている。


表参道交差点の脇道を覗くと善光寺の山門が見える。永禄元年(1558年)に長野善光寺から谷中村に勧請してきたものを、宝永2年(1705年)に移設したものである。


街道は青山から渋谷エリアに突入していく。人でごった返す宮益坂を下っていくと、坂の中腹に御嶽神社の鳥居が見えてくる。室町初期の創建とされる神社で、元禄13年(1700年)には、この御嶽神社の御利益でますます栄えるという意味で一帯を「宮益町」に改称している。石段を上るとビルの隙間に佇む社殿を拝むことができる。境内には日本狼の狛犬、明治天皇御小休所址の碑、炙り不動尊堂などがある。


宮益坂を下りきると渋谷駅がある。そして今後は道玄坂で上りになる。さすが渋谷、やはり谷である。道玄坂上交番前交差点に道玄坂道供養碑が建っている。
坂名の由来は諸説あるようだが、大和田太郎道玄と呼ばれる人物にちなんでいる。この人物が山賊で坂上で人を襲っていただとか、この地に「道玄庵」を作って住んでいただとか、そんな出来事に由来するという。


道玄坂を上りきると、首都高3号線渋谷線が見えてくる。それに沿って進んでいくと、再び旧道区間へ入る。ここが大山街道最大の難所・大坂である。160mの区間で標高差12mなので相当の急坂である。


大坂を越えると上目黒氷川神社がそびえる。旧上目黒村の鎮守で、武田信玄の家臣であった加藤家が天正年間(1573~1592年)に上野原より勧請したという。明治11年(1878年)、元々目切坂にあった元富士と呼ばれる富士塚の取り壊しの際に、一部を境内に移設している。その後昭和50年(1975年)には、天然の崖を利用した富士塚が氏子の手によって築かれている。


小松石造りの石段の下には、天保13年(1842年)建立の大山道の道標がある。正面「大山道 せたがや道 玉川道」、右面「右ひろう めぐろ 池上 品川みち」、左面「青山 あざぶみち」と刻まれている。かつての道標があった位置はもっと南側で、道路拡張の際に境内地縮小とともに移設されたものであろう。

この道標によって、今歩いているのが大山へ続く道なのを確かめたところで、本日の歩きは終了とした。

【歩き旅・ルート】大山街道(青山通り大山道) ~江戸の娯楽を支えた道~



神奈川県にある丹沢山系の最南端に位置する霊山・大山。
その端正な容姿から古くより信仰が篤く、いつしか大山阿夫利神社が創建された。
天平年間には大山寺が開かれ、山岳信仰の中心地として栄える。中世には、源氏の庇護を受けることとなりさらなる発展を見せるが、江戸期の徳川家康の大山寺改革により天台宗から古儀真言宗へと改宗する。

江戸中期に商人・町人文化が発展し始めると、日本各地の寺社仏閣や霊山への参拝が流行しはじめる。江戸から近いこともあり、大山詣は江戸町民にとって格好のレジャースポットとなった。また、大山阿夫利神社の祭神である大山祇大神(オオヤマツミノオオカミ)は、富士山に祀られている富士浅間神社の祭神・木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の父にあたることから、富士山と大山両方を参拝する「両詣り」も行われていた。

大山詣は同じ集落や同業者の集団で行われることが多く、これは「講」と呼ばれる。大山に限らず、各地を登山すると講が登拝記念に奉納した石碑や玉垣などを見ることがあるだろう。
大山詣では太刀を奉納するのが一種の決まりであった。これは源頼朝が平氏討伐の際に、太刀を阿夫利神社に奉納したという言い伝えに由来する。

大山街道という通称を持つ街道はいくつもあり、その中でも今回は「青山通り大山道」と呼ばれるルートを辿ることにした。赤坂見附を起点にする本ルートは、江戸からの参拝者が主に利用したルートであり、静岡県沼津に至る「矢倉沢往還」の一部を大山詣に利用したものである。

人馬継立場は下記の通り。
(赤坂御門)→三軒茶屋→二子・溝口→荏田→長津田→下鶴間→国分→厚木→(矢倉沢往還から分岐)→(大山)

今回はかなりスローペースで刻みながらの完歩となった。残念ながら太刀は持参しなかったが、最後は山登りということもあり友人に同行してもらっての登山となった。都会の風景あり、旧道消失区間あり、登山ありのバラエティーに富んだ街道歩きとなった。


   
1日目 2015/08/09 赤坂見附〜池尻 その①
2日目 2015/08/10 池尻〜用賀 その①
3日目 2015/11/01 用賀〜高津 その①
4日目 2015/11/03 高津~青葉台 その① その② その③
5日目 2015/11/07 青葉台~鶴間 その① その② その③
6日目 2015/11/28 鶴間~愛甲 その① その② その③ その④
7日目 2016/03/12 愛甲~大山 その① その② その③ その④
8日目 2016/05/08 大山~大山山頂 その① その② その③

参考文献
大山、ふたたび。|小田急電鉄
川崎国道事務所 大山街道見どころマップ
宮前区歴史ガイド
神奈川県 伊勢原市 祭囃子
丹沢・大山 歴史街道ものがたり デジタルアーカイブ

2017/07/17

【歩き旅】川越街道 Day2の③ 川越市へ!



亀久保の集落を進むと、正和3年(1314年)創建の地蔵院が見えてくる。
境内には市指定天然記念物であるしだれ桜が植えられており、その樹齢はおよそ350年前後だという。古老ゆえに痛みも激しく、延命措置が取られており、その姿はサイボーグのようでもあった。


その先には地蔵寺が別当を務めていたこともある「神明神社」がある。正確な創立年代は不詳としながらも、慶長3年(1598年)の創立で天照大神を祀っているとしている。境内には天保12年(1841年)の手水鉢や力石、御神木の切株などがある。

神社の脇には亀久保の馬頭観音堂がある。川越街道沿いにはこれまでの馬頭観音に関する伝説を幾つか紹介してきたが、その一つである大和田の「鬼鹿毛」伝説に登場する一頭の馬が倒れた地がここ亀久保だとされている。
観音堂の境内には他の場所から移設された庚申塔や馬頭観音も置かれている。

ここで少し街道を外れて上福岡駅方面へ。駅近くまで行くと「六道地蔵尊」が鎮座している。この地はいわゆる「六道の辻」で、まちや道、しんがし道(新河岸、現:川越市)、ふるいちば道、つるおか道(鶴岡、現:ふじみ野市鶴ケ岡)、えど道、ひきまた道(引又宿、現:志木市)の分岐点となっていたが、現在はふるいちば道が霞ヶ丘団地の開発に伴ってか消失したため、五差路となっている。


六道の辻の町屋道を進むと、鶴ヶ岡厄除地蔵が国道を見守っている。その奥に鶴ヶ岡八幡神社が佇んでいる。江戸時代に開拓された鶴ヶ岡村の村社にも列格していたが詳細な由縁は分かっていない。
鶴ヶ岡にある八幡宮ということで、鎌倉の鶴岡八幡宮と関わりがありそうだが、鶴ヶ岡の地名が先で八幡宮の勧請が後のようである。


鶴岡八幡宮から先は川越市となる。旧道を進んでいくと新井製菓前に「藤馬中宿跡」の碑が。川越宿と大井宿の中間に位置するこの地には上・中・下宿に分かれた集落が存在し、茶屋などがあったのだという。いわゆる「間の宿」としての役割を果たしていたのだろう。


藤間の集落を抜ける頃には日が暮れ始めていた。西日が差している東光寺の門は閉ざされている。東光寺は江戸時代に開拓された藤間村の発展に伴い、慶長15年(1610年)に開基。座像薬師如来を本尊にしている。


藤間の集落の外れには宝永6年(1706年)建立の開明地蔵尊が立派な屋根の下に納められている。川越藩は2つの御仕置き場(処刑場)を持っており、その一つはここ砂新田にあった。そのためこの地蔵は「首切り地蔵」と呼ばれている。
地蔵の右隣には明治45年(1912年)の三界万霊有無両縁塔が置かれている。「三界万霊」は過去・現在・未来の3つの世界のすべての生死を表し、「有無両縁」は内輪とそれ以外の縁すべてを表す。


先へ進むと砂新田春日神社が姿をあらわす。本殿が格子の向こう側にあるが、江戸彫りの見ごたえのある彫刻が施されている。本殿の屋根も雨よけとしての機能よりも装飾としての意味合いが強く、全体的に工芸的な社殿となっており、川越市の有形文化財にも指定されている。


御代橋で不老川を渡る。不老川は「としとらずがわ」とも呼ばれ、かつては「年不取川」とも表記された。1980年代には日本一汚い川にランキングされた時期もあったが、現在は見た目には普通の河川である。
その先で烏頭坂を上っていく。舟運輸送が盛んだった時期には、川越へ物資を運ぶために上らなければならない坂だったため、当時はかなりの難所として知られていた坂だったようだ。
坂の中腹にある階段を登れば熊野神社を拝むことができる。左右に並ぶ灯籠に沿って進んでいくと、大きな狸の焼き物に見守られた本殿がある。摂末社も多く祀られており、様々な信仰を集約した中心地だったことが伺える。


川越八幡宮は長元3年(1030年)の創祀と言われる歴史ある神社。当時この地は豪族・河越氏の所領で、鎌倉時代には河越氏の館が神社の裏手にあった。太田道灌の信仰も厚く、川越城築城の際には、分霊を川越城内に分祀している。
丁度七五三の時期ということもあり、家族連れや子供の姿が多くみられた。


まわりもすっかり暗くなってしまったので、急いで街道を進む。
出世稲荷神社は通称を「いちょう稲荷神社」という。その名の通り、鳥居の両脇には樹齢650年余と言われる大銀杏がそびえ立っている。その大きさのせいか、境内への入口が小さく見えるほどである。この時間の神社は雰囲気が色んな意味で素晴らしい。


さらに先へ進むと、道路の形状が不思議な形になっている箇所がある。写真ではわかりづらいが、撮影している足元に三角地帯があるのだ。
ここはかつて「鉤の手」と呼ばれる道が直角に曲がる場所であった。城下町では外部からの敵が攻め込みにくいように、道を直線にせずに何度か折り曲げた線形にすることがある。街道以外でも道を何度も曲げる「七曲り」や、多くの丁字路・袋小路など、城下町特有の道路形状が川越では多く見られる。


川越城大手門跡に到着。川越市役所前で鷹狩装備の太田道灌に出迎えて頂いた。ここが川越街道の終点となる。ここから東へ入れば旧川越城内である。

最近では小江戸川越と称されることも多い川越であるが、今回の街道歩きではじっくりと観光をすることができずに帰宅することとなった。駅までは札の辻から蔵造りの町並みを眺めながらの帰宅した。

多くの店が閉まったあとの車に照らされる町並みも、現代の観光地の一風景なのだなと、しみじみ感じた。