【雑記】稲荷神社がやたらと「正一位」を主張してくる件
街歩きをしていると、よく神社の幟などに「正一位」と記されているのを見かける。これはおそらく神社の「位」とかそういうものなのだろうと推測できるが、一つ違和感を感じた。格があまり高くなさそうな路傍の小さな神社ですら「正一位」を掲げているのだ。
また、「正一位」があるのであれば、「正二位」など他の位もあると推察されるが、自分の記憶では正一位以外を掲げている神社を見たことがない。そこでこれまで街歩きで撮影した写真を改めて見返してみた。やはり「正一位」を掲げている神社は大小様々で地域も様々な場所で見つかったし、「正二位」などの位は見つからなかった。しかし、「正一位」を掲げる神社の共通点に気づいた。
すべて「稲荷神社」だったのである。
「正一位」とは何か
そもそも「正一位」とは何なのかというと、「位階」の中の「神階」もしくは「神位」の中の「文位」と呼ばれるものの一つである。包含関係を表すと「位階」⊃「神階もしくは神位」⊃「文位」となる。
「位階」は国家が定めた身分を表す序列のことで、「冠位十二階」の延長線上で官職の序列を定めるために利用されていた。しかし時代を経るにつれ、年功序列制度や他の身分制度が出現し、これらが重要視されるようになったため、位階の仕組みは形骸化してスキームだけ現在まで残っている。
「位階」のうち人に対してではなく神に対して序列を付けたものが「神階」や「神位」と呼ばれるものである。武勲を上げたものに授与される「勲位」に対して、通常の序列を「文位」と言い、通常「位階」といえば「文位」を指す。文位は「正六位」から「従五位」→「正五位」→「従四位」→「正四位」→・・・と15段階に分かれており、その最高位が「正一位(しょういちい)」である。
神社では一般的にいわゆる式内社、官社、村社などの「社格」をもって序列を付けることが浸透していたため、位階による序列はあまり気にされていなかった。また、天皇の即位などの度に進階が行われており、人と違って無期限に存在する神は、当初は低い位であっても進階を重ねることで多くが「正一位」となっている。
稲荷神社が「正一位」を掲げるワケ
稲荷神への位階は、天長4年(827年)に淳和天皇が崩御した際に初めて授与された。崩御の原因を占ったところ、東寺の五重塔建設のため稲荷山の御神木を伐採したことによる祟りであることがわかり、怒りを鎮めるために当時位階のなかった稲荷神に対して「従五位下」を授けたのだという。稲荷神はその後進階を重ね、仁和3年(887年)の六国史終了時点では「従三位」、そして天慶5年(942年)に「正一位」となった。
神階はあくまで「神」に対して授与されたもので、「神社」に対して授与されたものではない。そのため、本来稲荷神として「正一位」を掲げることができるのは稲荷神の大本、京都・伏見稲荷神社の宇迦之御魂神のみである。全国にある稲荷社の中には伏見稲荷神社から分祀したもの多くあるが、本来神階を引き継ぐためには勅許が必要であった。しかし、10世紀頃に律令制が実質崩壊すると、位階の仕組みも厳密ではなくなり、分祀先の神社が勝手に神階を継承するケースも出現してきた。
江戸時代になると稲荷信仰は商売繁盛の神として商人を中心に流行した。神階の最上位である「正一位」を掲げると、あまねく神が静まるとされ、「正一位」をあわせて勧請したいと考える人も増えてきたという。
寛政4年(1792年)、とある百姓の藪にできた狐の棲家に陰陽師の今村頼母が「正一位豊浦稲荷大明神」の祠を勧請するという出来事があった。伏見稲荷とは無関係な者が正一位を勧請するのは如何なものかと、奉行所より伏見稲荷に対して問い合わせがあった。伏見稲荷からは、正一位稲荷大明神の御神体の勧請は伏見稲荷の一子相伝で実施されており、他所へ伝授もしていないので、他からの勧請は迷惑だと回答している。
ともあれ、分祀した社に「正一位」を掲げることは伏見稲荷としては問題ないと判断されたことになり、分祀先の「正一位」の妥当性が間接的に担保されることとなった。
神道界の覇権争いにより「正一位稲荷神社」が爆増する
伏見稲荷が遺憾の意を表したとはいえ、伏見稲荷や稲荷社以外が勧請を行う例も増えてきたのも事実である。特に顕著だったのが「吉田家」と「白川家」による勧請である。
吉田家は「吉田神道」と呼ばれる仏教から独立したはじめての神道説を唱えた流派として知られ、室町時代以降宣教活動により朝廷や幕府の支持を獲得していった。文明14年(1482年)には「宗源宣旨」という朝廷の宣旨に似た免許状の発行を開始し、吉田家独自に神階を授与していた。寛文5年(1665年)には江戸幕府が「諸社禰宜神主法度」を発し、これにより吉田家が全国の神社や神職を束ねる役割として公認されることとなった。
白川家も古くから神道における実務担当の役割を長らく務めており、神道上の立場は吉田家よりも上になる。朝廷からの位階授与を執行していたのも白川家である。しかし、江戸初期の吉田家の勢いに呑まれ、事実上の実権を奪われる形となった。そこで白川家は神社関係者だけでなく、農民や大工などを取り込んで勢力の拡大を図った。文政年間(1818〜1830年)末頃から稲荷勧請に力を入れだした白川家により、結果的に東北・関東・北陸を中心に稲荷勧請が進むこととなる。この頃は町民文化が隆盛を誇り、地方から伊勢参りや西国巡礼のため関西へ訪れる人も多かった。そこに目をつけた白川家は、旅人に対して稲荷勧請を積極に行ったため、結果的に京都・伏見稲荷から遠い場所での勧請が広がっていったのである。
吉田家や白川家にとって、稲荷勧請は自家の勢力拡大をする上で資金繰りの面でも大きな役割を果たしていた。勧請時に納める金額は基本的に願主の「お気持ち」次第で変わってくるが、おおよその相場は年代や願主の立場などの諸条件により決まっていたようだ。さらに「正一位◯◯稲荷大明神」のように、個人名や地名などを冠して勧請する場合には、縁起がよくなるとしてさらに割高になっており、「正一位」の神階は格好の「商材」となっていた。
新田開発などにより農業神としての稲荷社の需要が増えてくると、資金に乏しい農民層への勧請が必要不可欠となってきた。そこで勧請を手軽にできるようにするため、江戸期の後半になると勧請に必要な金額が減少していき、ツケ払いや切手(小切手のようなもの)での支払いも許容するケースも出てきた。これにより規模の小さい稲荷社が増加し、おおよそセットで「正一位」のオプションが付くこととなった。
両家が勢力拡大と資金繰りのため勧請を繰り返した結果、江戸周辺には「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるほど稲荷神社が増え、ほとんどの場合「正一位」が冠されたため、「正一位」といえば稲荷神社とまで言われるほどとなった。
神階の制度は明治時代に撤廃されたが、今でもかつての名残で「正一位」を掲げる稲荷神社が多数残っている。