五柱稲荷神社 〜植村家の憂鬱〜
錦糸町周辺を散歩していたときに見つけた稲荷神社。
享保13年(1728年)に、植村土佐守正朝(大坂定番)によって、伏見稲荷大社より勧請したという。
参考:神社庁HP
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/13_sumida/13027.html
「五柱」は伏見稲荷の主祭神である「宇迦御魂大神」、配神である「佐田彦大神」、「大宮能売大神」、「田中大神」、「四大神」を合わせた5柱から来ているようである。
(神様の数え方が1柱、2柱…というのを久々に思い出した。)
参考:伏見稲荷大社とは|伏見稲荷大社
http://inari.jp/about/
正直、稲荷神社なんて江戸中に数多あった。
「江戸名物 伊勢屋、稲荷に、犬の糞」という言葉が残されている程、そこらじゅうに転がっていたのである。
江戸時代になってから商売の神として稲荷信仰が広まると、そこかしこに大なり小なりの稲荷社が建立されるようになった。
五柱稲荷神社もそんな稲荷の一つに過ぎないのだろう。
何か面白いことがないかと思い、とりあえず「植村土佐守正朝」という人物について調べてみた。
植村家とは
植村(土佐守)正朝(1669-1729)は、初代勝浦藩主である植村忠朝(1630-1696)の三男として生まれた。
元禄9年(1696年)に五代将軍徳川綱吉の小姓(武将の身の回りの雑用を行う役職)となり、元禄10年(1697年)に家督を継ぎ、2代目勝浦藩主となる。
享保13年(1728年)〜14年(1729年)まで大坂城の玉造口定番を勤め、就任中に大坂で没した。
五柱稲荷の勧請が享保13年であるから、大坂定番の任務に就く直前に建立したことになる。
ちなみに植村勝浦家の系譜は、3代目の植村恒朝が寛延4年(1751年)にもろもろあって改易(城・屋敷を没収)となった。しかし恒朝の養子、植村寿朝が宝歴3年(1753年)に家名再興を果たし、植村家は存続していくこととなった。
上図は安政2年(1855年)発行の「江戸切絵図 本所絵図」から、現在五柱稲荷神社がある辺りをクローズアップしたものである。
稲荷は「植村帯刀」の北側「吉田」もしくは「長谷川」の辺りに鎮座していると考えられる。(ちなみに「長谷川」の家は、鬼平犯科帳の主人公・長谷川平蔵の自宅のモデルとされる。)
「帯刀(たてわき)」は、古代には将軍警護のために刀を携えて仕える役職のことであったが、当時は百官名(ミドルネームみたいなもの)として用いられ、子孫は代々「帯刀」を名乗り、通称としていた。
植村家は代々帯刀を名乗っていたので、この場所が植村家の江戸での住居であったのではないか。
五柱稲荷はその屋敷神兼地域信仰の対象として鎮座していたのではないだろうか。
境内には「明治○○申年 九月吉日 庄○○○○」とかろうじて読める石碑(庚申塔?)(写真右)と、是またよくわからない文字が刻まれた石碑(写真左)が置かれていた。
路傍に転がる稲荷をつついてみたら、意外と多くのものがこぼれ落ちてきた。