気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2019/03/23

【歩き旅】水戸街道 Day4 その④ 〜大きな亀を目指して〜



大聖寺に立ち寄る。平安時代の長徳元年(995年)に「今泉寺」として開山し、応安7年(1374年)には小田氏第9代当主、小田孝朝によって「小田城四方護寺」の一つに定められた。このとき寺名を「大聖寺」に改めたという。当時は現在のつくば市西平塚にあったが、少なくとも大永6年(1526年)には現在地に移転していたとされる。
薬医門型の山門は火災による焼失の後に、貞享2年(1685年)に土浦城主松平信興により寄贈されたものである。


境内には四国四十八ヶ所のミニ霊場がある。各霊場の砂と各寺の本尊が小さい石仏となって鎮座している。霊場は広い境内に点在しているため、全て回ろうとすると1時間ほど所要するとのこと。社務所では奉納用のお札を購入できるので、実際の巡礼同様に納札を体験できる。


訪問したのが6月ということもあり、境内の紫陽花が満開であった。


本堂の大聖殿は昭和60年(1985年)に落慶したもの。明治30年(1897年)の火災によって運慶作とされる不動明王を消失したが、本堂の再建とともに室町時代の高僧作と伝わる大聖不動明王を本尊に迎えた。


大聖寺を後にし、再び国道沿いをゆく。国道6号は土浦バイパスの開通をうけ、昭和58年(1983年)に土浦〜中貫間の国道指定を解除。その後国道354号となった。
セブンイレブン土浦中高津店の脇に「馬頭観世音」と刻まれた石柱がある。石柱の横側には「水海道 布施 関宿 流山道」、足元の石碑には「やたべ おばり いたばし みつかいどう」と刻まれているという。石柱とその足元にある石碑は布施街道の道標を兼ねている。

布施街道は水戸街道の脇往還として享保15年(1730年)に整備された街道。柏市の根戸十字路で水戸街道と分岐し、布施弁天、守谷、板橋不動尊、谷田部などを経由して現在の地点で再び合流する。


医療センター入口の信号を直進し、国道から離脱する。道が緩やかに曲がる箇所に下高津の道標がある。享保18年(1733年)の道標で、「右 江戸道 左 なめ川 阿ば道」と刻まれている。
「なめ川」は坂東三十三観音霊場の一つで成田市にある「滑川観音」、「阿ば」は稲敷市阿波の大杉神社を指し、かつては土浦城方面から左に曲がる道が整備されていたが、現在では国立霞ヶ浦医療センターに阻まれ通行できない。


道標の近くに愛宕神社がある。天慶年間(938〜947年)の創建とされ、平貞盛が戦勝祈願にこの地を訪れた際、軻遇突智命を勧請したことに始まるという。文化8年(1811年)に再建された社殿は本殿と拝殿の性質を併せ持った複合社殿で、茅葺入母屋屋根の作りとなっている。
大棟をよく見ると三ツ石の紋があしらわれていることがわかる。これは初代土浦藩主・土屋数直により、土浦城主の表鬼門にあった愛宕神社を再建したことに由来し、土屋家の三ツ石紋を装飾しているものである。


備前川・桜川を銭亀橋で渡る。桜川は古くから桜の名所として知られており、「西の吉野 東の桜川」とも呼ばれている。近年の研究で、2万年以上前には鬼怒川が現在の桜川の流路を流れていたことがわかり、霞ヶ浦の成立を紐解く材料となっている。


橋を渡った先の土手上に銭亀橋の跡碑があった。慶長18年(1613年)に水戸街道の橋として初めて架橋されたのが銭亀橋であった。当時は木製の太鼓橋だったという。


大町交差点の先の道はクランク状になっている。享保12年(1727年)まで、この場所には土浦城の南門が置かれていた。ここから先が土浦城内ということだ。


枡形の先にある赤が映える建物は東光寺の瑠璃光殿。元文4年(1739年)建立の薬師堂で、朱塗りの壁面には花頭窓だけでなく、十二支の透かし彫りがあるのが特徴的。


東光寺の隣には等覚寺。元々、新治郡藤沢にあった極楽寺を、(弱小武将として)戦国界隈では有名な小田氏治の弟・治算によって慶長10年(1605年)に現在地へと移転したものである。銅鐘は国指定重要文化財に指定されており、建永年間(1206〜1207年)に寄進されたものである。


再びクランクを曲がると中城通りに入る。するとすぐに「旧大手門入口」の案内碑がある。ここを左に曲がると土浦小学校の脇に大手門の跡碑があるのだが、この場所が大手門跡地だと勘違いして見逃してしまった。


街道から少し入った住宅街の中に中城天満宮がある。創建年代は不明だが、菅原道真を祀り学問の神として信仰を集めていた。江戸時代には毎年3月に「中城の駒市」が催され、700頭もの馬が境内に集められたという。


琴平神社と不動院が同じ境内に鎮座している。
琴平神社は明和2年(1765年)に勧請されたもの。写真左に見切れている鳥居は文化8年(1811年)造のものである。一方不動院は永享年間(1429〜1440年)に、土浦城を築いたとされる若泉氏により創建されたもの。境内にある「井戸端庵」は地理学者・天文学者の沼尻墨僊によって開かれた寺子屋跡で、享和3年(1803年)から延べ600人がここで学んだという。


木造2階建ての「保立食堂」は明治2年(1869年)の創業。かつては店の対岸に魚河岸が広がり、土浦で最も繁盛した店の一つと言われている。昭和14年(1939年)に隣町の阿見町に海軍飛行予科練習部(予科練)が横須賀より移転してくると、保立食堂は指定食堂として若い訓練生の胃を満たした。
ちなみに「保立(ほたて)」は店主の実際の名字である。


折角なので土浦城址に立ち寄る。城内建築の多くは火災などに見舞われており、現存しているのは幾つかの門と復元した櫓である。本丸・二の丸跡地が「亀城公園」として整備されており、家族連れで訪れている人もちらほら見かけられた。
写真にある関東唯一の現存櫓門である太鼓櫓門は慶長6年(1601年)に建て替えられ、明暦2年(1656年)の改修時に櫓門に建て替えられたもの。


土浦城は平地に築かれた平城であったため、周囲を桜川や霞ヶ浦から引いた水路を張り巡らせることで防御力を高めていた。何重もの堀に囲まれた様子はさながら水に浮かぶ亀のようであったことから「亀城」とも呼ばれていた。

本日はJR土浦駅から帰宅とした。

2019/03/07

【歩き旅】水戸街道 Day4 その③ 〜小さな宿場を巡る〜



薬師寺を後にし、国道6号線を北上する。金太楼鮨前に旧道区間が僅かに残っているのでそちらを進む。旧道区間の真ん中あたりに写真の石碑が置かれていた。
この場所は牛久市田宮町とつくば市高見原の堺でもあるが、刻まれているのは「〇六〇米」の文字。横側には「〒」のような記号と何かが刻まれていたが判別できなかった。少なくとも標高は60mもない地点なので、何を指しているのか気になる石碑である。


再び国道6号を進み、猪子町交差点の脇に猪子町集会所がある。この敷地の入り口に多数の石仏が祀られていた。中でも写真右側の地蔵は「しばられ地蔵」と呼ばれ、よく見ると布が地蔵を囲むように巻かれているものであった。
しばられ地蔵といえば、都内では葛飾区の南蔵院のものが有名であるが、南蔵院では紐を巻いているのに対してこちらは布を巻いている分、地蔵にやさしいような気もする。


さらに国道を北上し、土浦市に突入する。国道が市境になっている地点に一里塚が姿を残していた。土浦市側にあるのは「荒川沖一里塚」。日本橋から布川を経由するルートで17番目にあたるという。


道の反対側・牛久市にあるのは「中根一里塚」。花を植えたり生垣を作ったり小綺麗にしている。一対の一里塚なのに呼称が異なっているのは市境ならではの光景である。


しばらく北上すると、国道から右に逸れる旧道がある。その分岐点に八幡神社がある。由緒はわからなかったが、昭和54年の地図には神社の表示がなかったことから、最近出来たか移設された神社なのかもしれない。


姫宮神社に立ち寄る。社殿は新しいように見えるが、昭和60年(1985年)に再建されたもののようだ。元々別の場所にあった由義寺に姫宮があり、廃寺となった寛永20年(1643年)頃に、姫宮を現在地に分祀したのだという。
祭神は木花咲耶姫命で、安産の守護神として地域を見守っている。


正徳元年(1711年)創建の、荒川沖天満宮の参道が伸びている。菅原道真を祭神として祀っている。


菅原道真の神霊は雨を降らせるという言い伝えがあることから、境内には雨乞石が置かれている。かつては日照が続くと、この石を乙戸川へ持ち出し、石を川に漬けると雨が降ると信じられていた。


荒川沖宿には荒川は流れていない。なぜならここでいう「荒川」は近くを流れる乙戸川のことを指しているからである。乙戸川はよく氾濫することから「荒れ川」と呼ばれていた。
荒川沖の「沖」は「元の場所から離れた村」という意味で使われている。水戸街道開通時、現在の阿見町荒川本郷にあった荒川村から宿場を形成するために分村してできたのが荒川沖村(=荒川沖宿)である。当初はわずか七戸の農家が移住してきたのみであった。かつては単純に「沖村」と呼ばれていたが、江戸時代後期に「荒川沖村」と呼ばれるようになった。


荒川沖宿は人馬継立業務のみを行い、本陣は置かれていなかった。街道左手に悠々と佇む茅葺屋根の家は、旧旅籠の佐野屋である。旅館業務は行っていないが、現在でも住居として利用されている。


佐野屋の少し先、右手に「日先大神道」と刻まれた石碑がある。日先大神とは土浦市右籾に鎮座する日先神社を指す。康平元年(1058年)創建の神社で、明治5年(1872年)には荒川沖を含む八ヶ村の村社に指定されている。


荒川沖宿を抜け、再び国道に合流。中村南4丁目交差点で再び旧道へ。この交差点は中世からの街道である鎌倉街道との交点でもある。
パニックボウルつくば手前の交差点に二基の道標が置かれていた。右手にあるのは先程同様、日先大神道の道標である。先程の道標よりも彫りがはっきりしていて、明治5年(1872年)のものであることがわかる。「従是東境内迄十二丁」とも刻まれており、願主が阿見町の「宮本治郎右衛門」であることも合わせて判明した。
左手は寛政5年(1793年)の地蔵尊兼道標で、「右ハいちのや江 左ハ里うがさき江」と刻まれているという。それぞれ笠間市市野谷、龍ケ崎への案内を示している。


原の前交差点の手前の土手に松並木がわずかに残っている。この先に板谷の松並木があり、水戸街道で唯一残存している松並木を謳っているので、往時の姿ではないかもしれない(あるいは規模が小さすぎて並木にカウントされなかったか)。
また、かつてこのあたりには一里塚があったという。


原の前交差点で国道を横切る。その先の墓地の脇に石仏がまとめられていた。ここは観音堂があった場所で、中村宿の江戸口の外れにあたる場所である。


中村宿はもともと鎌倉街道沿いにあった西根集落の一部が水戸街道沿いに移転してできた宿場。荒川沖宿、土浦宿ともそれほど離れていないこともあり、本陣1軒と旅籠数軒の小規模な宿場であった。現在は閑静な住宅街となっており、宿場に関する案内表示なども見当たらない。

本日はもう一宿分歩いてみる。