気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2020/10/17

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day5 その②



引き続き酒々井宿を歩く。下宿に入ったところに麻賀多神社がある。天喜年間(1053年)頃に酒々井の集落が発祥した際に創建されたと伝わる。本佐倉城が築城されてからは千葉氏が篤く信仰していたようだ。


緩やかな下り坂の途中に「下り松三山碑」との案内があり、石碑などが置かれていた。左から文政8年(1825年)の庚申塔、文政8年(1825年)の馬頭観世音碑、文政13年(1830年)の出羽三山供養塔が並ぶ。出羽三山供養塔はよく見ると坂東西国秩父の百観音供養塔も兼ねているようで、当時の酒々井の人々が「講」という形で各地への旅を楽しんでいたことがわかる。


その先に下り松と呼ばれる場所がある。先程の石碑は元々このあたりにあったものだろうか。ここは酒々井宿の端にあたり、松越しに印旛沼を臨むことができるビュースポットであった。元治元年(1864年)には歌川広重が「諸国名所百景」という作品群の一つに「下総印幡ぬま」としてこの場所からの風景を描いているほど、景勝地として名高かった場所である。


酒々井宿を抜けたところに「築山」とよばれる小山がある。ここは資産家の木内常右衛門の庭の一部にあった山で、それ以前は佐倉藩の御林の一つで「桜山」と呼ばれていた。明治14年と15年(1881年、82年)には三里塚の下総種畜場の視察のため訪れた明治天皇が木内家で休息し、それを記念した駐蹕記念碑が築山の上に建てられている。


信号のある交差点で斜め左の道へ入っていく。交差点手前の歩道の道幅が広くなっているところが旧道の線形と思われる。細い道を入ってまもなく丁字路に突き当たるが、その手前の左手に「第六十五番」と記された祠がある。四国の八十八ヶ所巡礼をならって全国各地でご当地八十八ヶ所巡礼を設定しているケースがあるが、調べてもこの周辺でそのような巡礼を行っていたことはわからなかった。


祠の隣には富士登山の登拝記念碑。ここは「中川」と呼ばれる集落があったようだが、村内で富士講が流行ったのだろう。


祠を挟んで反対側には地蔵群。この敷地はおそらく隣接している中川西蔵院のものだったのだろう。西蔵院は慶長年間に創建されたと伝わる寺院であるが、昭和42年(1967年)に火災に遭い、延命地蔵を残して消失している。そのときに残った石仏の類がここにまとめられているのだろうか。


突き当りには二本の石碑が置かれている。左は「いわな 二王みち」と刻まれており、辛うじて「二」が判別できるが、ほかは摩耗しきっている。なんでも狂歌で知られる蜀山人こと太田南畝の銘だという。岩名仁王尊は佐倉市岩名の玉泉寺を指し、室町時代作と言われる阿吽一対の仁王像に加え、桃の名所として花見で訪れる人も多かったという。

その隣の細長い碑は明治44年(1911年)建立の道標。各面に「此方 酒々井停車場道」「此方 成田宗吾道」「此方 内郷道」と刻まれている。明治30年(1897年)に開業した成田鉄道酒々井駅への道を指す。内郷道は岩名道とも呼ばれ、先の岩名仁王尊へ向かう道筋を示している。


集落の中川から河川の中川を渡ると「卜ヶ崎」の集落となり、ここにも別の道標がある。正面には「←宗吾安喰道 →成田佐原道」、側面には「酒々井停車場佐倉東京道」「酒々井停車場佐倉千葉道」と刻まれており、昭和初期に設置されたものと考えられる。


すぐ先の三叉路に、三角形の道標。正面には「佐倉千葉道 成田佐原道」と刻まれ、右側に「七永三里塚道」とある。三里塚といえば全国的に有名なのが「三里塚闘争」。成田空港の建設に反対する過激派住民による抗争があった地だが、それ以前は御料牧場のある場所として有名であった。
かつて中川と卜ヶ崎は共同で間の宿を形成していて、茶屋や商家が多かったという。道標が集中して点在しているのはそのためだろうか。


再び国道51号に合流し、すぐさま右の道に入る手前の信号の袂に小さな道標がある。寛政2年(1790年)の銘で「仁王尊」と刻まれているが、どの仁王尊を指すのかは不明だという。


旧道はそこにある民家を避けるように大きくカーブするが、その民家の敷地に立てかけるように道標がある。明治27年(1894年)の「成田山」と刻まれた石碑は、これまで何度か見てきた岩田長兵衛による道標の最後の一つである。成田街道沿いに5本あるはずだが、全て紹介できただろうか。


大坂と呼ばれる坂を登りながら竹林をくぐる。その出口付近、左手に階段があるので登ったところに観音堂がある。


観音堂の脇には大小の馬頭観音碑。その後ろの祠には如意輪観音が座していた。


馬頭観音の脇に、なにやら句碑のようなものが倒れていた。裏面には天保11年(1840年)の銘があるらしく、句は「あゝ楽ヶりな 御利益にけ 帰」と部分的に読める。句の右上には「成田山へ一里二十三町」とあり、道標も兼ねている。成田山への距離的に、元々はより南の街道沿いにあったと考えられる。


国道との間にある竹やぶの中に何やら高い石碑のようなものが置かれていた。これは成田山護摩木山供養碑というもので、成田不動尊の護摩を炊くのに必要な木材を調達する山を寄進したことを記念した碑。木材を切り出した山を「護摩木山」と呼び、街道沿いに十数箇所あったという。ここから先の街道沿いに供養碑が立つ場所をいくつも見かけることができる。


旧道が国道にくっつく場所に年代不明の宗吾道の道標が置かれている。この場所から国道を跨いで北に向かうと、佐倉惣五郎を祀る宗吾霊堂こと東勝寺へ向かうことができる。


ここから先にはかつて「伊篠の松並木」が800mほどに渡って伸びていたという。享保年間に佐倉七牧を管理していた代官・小宮山杢之進(昌世)が植樹したと伝えられることから「杢之進並木」とも呼ばれていた。しかし、昭和50年頃から松食い虫の被害を受け松の本数が減っていき、昭和60年(1985年)に最後の2本も枯れてしまったのだという。


旧道沿いに再び成田山護摩木山供養塔。碑を立てた「新榮講」は古くから成田山信仰において有力だった講中のようだ。


そのすぐ奥にも石碑が3つ置かれていた。一番左の自然石碑は護摩木山供養塔で深川の末広講社によるもの。


真ん中の小さい碑は道標になっており、明治32年(1899年)に丸万講によって建立されたもの。「左 しすゐ停車場道」「東 成田山 宗吾社道」「西 酒々井 佐くら道」とあり、元々は先程通過した「築山」の下に設置されていたものだという。


一番右の高い碑は「成田山 是より壱里余」とある道標で、年代は不明であるが距離から判断して元はこの場所よりも北に設置されていたものと考えられている。


少し先の開けた場所に再び成田山護摩木山供養塔。寄進者は「東京巣鴨町二丁目 保坂徳右衛門長男 保坂源太郎」とある。巣鴨保坂氏は巣鴨村の名主として知られる。


街道は国道51号と合流してすぐに左手に分岐して旧道に入ると下り坂。建設会社の資材置き場に立てかかるように成田山護摩木山供養塔と中仙道鴻巣宿萬屋清兵衛が建立した不動尊碑が置かれている。

さて、もう少しで成田市に入る。