気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

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2016/10/06

【歩き旅・ルート】川越街道 〜江戸と小江戸を結ぶ道〜



「日本の街道」と聞くと、多くの人は五街道を思い浮かべる。東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道は江戸幕府が重要と認めたことで、一躍街道界のスターダムに上り詰めたわけだが、その五街道を影から支えるバックダンサー的役割を担っていたのが「脇往還」と呼ばれる諸街道である。

今回紹介する川越街道は、中山道・板橋宿から川越城までの50km弱の道程で、中山道の脇往還として江戸時代に整備されたものである。
長禄元年(1457年)、築城の名士として名高い太田道灌によって千代田城(江戸城)・河越城(川越城)が築かれる。この2つの拠点を結ぶための道が川越街道の基礎となった。慶長六年(1601年)から、徳川家康が五街道の整備を始めると、脇往還についても沿線の藩主導のもと整備が進められた。寛永16年(1639年)、松平信綱が川越藩に移封されると、城下町の整備等とあわせて川越街道が改修された。

川越街道の改修とほぼ同時期に、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6つの宿場が設けられた。本陣・脇本陣が設置された宿場もあったが、川越から江戸までは頑張れば一日程度で移動できる距離であったこともあり、その規模は小さかった。宿場としての業務は人馬継立がメインだったと思われる。

川越街道はさらに北に延伸すると、下仁田道藤岡宿へと至る(川越児玉往還)。下仁田道は中山道本庄宿から中山道借宿へと至る脇往還であり、川越児玉往還と下仁田道を組み合わせれば、中山道を行くより短い距離で移動することが可能となる。そのため、大名は中山道を、役人などは大名とすれ違うことを避けて川越児玉往還を利用する傾向にあった。そんなこともあり、脇往還ながら交通量は多かったようで、それは移動手段が徒歩から自動車に変遷した今なお続いている。


上図は、寛永10年(1633年)に作成された日本六十余州国々切絵図 武蔵国より江戸と川越をつないでいる部分を抽出したものである。江戸から川越に至る道沿いには、
【江戸】ー板橋ーねりま(練馬)ーおさおり(膝折?)ー大わた(大和田)ーふしくほ(藤久保)ー亀くほ(亀久保)ーうとふ(烏頭)ー【川越】
といった集落名が確認できる。川越街道が本格的に整備される前だが、基本的なルートは変わっておらず、地名もほとんど現存している。

今回は川越街道を中山道板橋宿平尾追分から川越城大手門跡前まで、2日間に分けて完歩した。ルートの決定や立ち寄る史跡の選定には、主にWeb上にある諸先輩方の歩行履歴を参考にした。

1日目 2016/09/24 板橋宿平尾追分〜和光  その① その②
2日目 2016/10/02 和光〜川越宿 その① その② その③

2016/09/20

名所江戸百景:駒形堂吾嬬橋 -浅草寺のはじまりを知る場所-



東京観光と言えば浅草寺は定番である。
「EKIMESE」としてリニューアルした東武浅草駅で待ち合わせをし、人であふれた雷門通り商店街を抜け、巨大な提灯に感嘆しながら雷門をくぐり、仲見世を通り抜けて本堂へ向かうのが、偏見を存分に含んだ鉄壁ルートだろう。

しかし、この鉄壁・鉄板・王道ルートでは浅草寺の歴史を知る上で重要な建物を見逃してしまう。それが今回紹介する作品「駒形堂吾妻橋」の主人公、メインで取り上げられている「駒形堂」である。

浅草寺の歴史を記した「浅草寺縁起(応永縁起)」によると、浅草寺の本尊は推古天皇36年(628年)に隅田川で発見された聖観音像。その観音様を最初に祀った地が現在駒形堂が建つ場所であり、かつてはここに総門(現在で言う雷門)があったという。
(参考:浅草寺|諸堂案内 駒形堂

ここで作品を見てみよう。
暗い印象を持った作品だが、手前左側に駒形堂、その奥に雄大な流れの隅田川と吾妻橋、その奥に橋の袂に広がる集落が描かれている。版によってはしっかりと雨が降っている様子が伺えるものもある。

雲の表現は「あてなしぼかし」と呼ばれる技法によるもので、広重の作品ではよく見られるもの。版木を濡らしてその上に絵の具を付けることで、絵の具が自然に広がっていき、柔らかいグラデーションが出来上がるというものである。

この作品では印象的に描かれている2つの物がある。
一つは風になびく赤い旗。これは駒形堂の斜め向かいにあった「紅屋百助」という小間物屋が掲げているもの。ここではおしろいなどの化粧品を販売しており、旗は「紅あります」の意味をもたせた広告みたいなものである。

もう一つ印象的なのが、空を舞うホトトギス。吉原の花魁・二代目高尾太夫が仙台藩主伊達綱宗に宛てた句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」にインスパイアされた表現である。
実際、隅田川周辺にはホトトギスにちなんだ作品や地名が点在しており、「ホトトギスと言えば隅田川」が当時定着していたために受け入れられる表現だろう。


これは江戸切絵図浅草御蔵前辺図(嘉永2年〜文久2年(1849〜1862年))から駒形堂周辺を抜き出したもの。右側が北になっており、中央の赤い四角「駒形堂」から雷門へ伸びる道(現国道6号・江戸通り)がはっきりと描かれている。

作品右下に立ち並ぶ角材のようなものは、実際の位置関係と異なるが材木町のものだろうか。船の往来が多いのは、切絵図にもある「竹町の渡し(中之郷の渡し・駒形の渡しとも呼ばれる)」が材木町と対岸の竹町を繋いでいたためであろうか。
この渡しは寛文7年(1667年)に許可されたが、安永3年(1774年)に吾妻橋が架橋されたことを皮切りに利用者が減っていった。その割に明治9年(1876年)まで営業していた記録が残っており、隅田川の渡しの中でも息の長い部類に入る渡しだったようだ。


現在の駒形堂は平成15年(2003年)に再建されたもの。朱が映える立派なお堂である。
多くの観光客が手前の道を行き来しているが、なかなか境内まで立ち寄る人が少ないのが悲しいところである。



現在ではビルやマンションが立ち並んでおり、駒形堂と吾妻橋を同時に臨むのはなかなか難しい。その代わりに東京の新名所「東京スカイツリー」が隅田川対岸で威勢よく構えている。

名所江戸百景では薄暗い様相で描かれているが、現在では浅草の喧騒とスカイツリー・アサヒビールタワーのお陰か、些か華やかな印象の風景であった。

2016/07/12

秩父巡礼古道 ルートマップを作成しました




今更ながら、2014年の秩父三十四カ所巡礼の際に通行したルートマップを作成しました。
(旅の詳細は「秩父三十四カ所巡礼の旅」を参照)

ネット上のルート地図はルートの詳細がわかりづらいものが多く、歩行可能な古道を厳密にトレースしたものが少なかったため、一定の需要があると感じて作成したものです。

閲覧に際しての注意

1.あまりオススメしないルートが含まれているため、適宜迂回などの措置を取る必要があります。最終的なルート選定は、各自の判断でお願い致します。

※主な注意ポイント
・栃の木坂の渡しでの荒川徒渉(白川橋での迂回を推奨)
・贄川宿→大指集落への本ルートの利用(町分ルートを推奨)

追記:記事執筆以降に通行不能となった箇所があります。
詳しくは秩父観光なび|江戸巡礼古道を参照してください。

2.山間ルートはおおまかな線形のみをトレースしています。

3.多くの石碑や施設が時間とともに移設・撤廃等されているため、現在位置と異なる可能性があります。道路状況によっては現在は通行できないルートが含まれている可能性があります。

上記事項について了承の上、ご利用下さい。

参考文献

秩父観光なび|江戸巡礼古道※巡礼道の状況が更新されるので、訪問前に一読することをオススメします。
秩父の坂(秩父巡礼道)|坂道散歩(※2008年の記事)
秩父巡礼道マップ&ガイド: 迷わず歩ける札所めぐり(井上光三郎 2002)

2016/05/25

都内の神様にちなんだ地名を集めてみた。


(写真は2011年熊野那智大社。)

地名にはその土地がそれまで積み重ねてきた歴史が残されている。
東の都という意味を込めて「東京」と名づけたり、そこにあったものから「日本橋」、「三軒茶屋」、「高円寺」などと呼ばれるようになったりする。
具体的な由来が明らかな地名は近代になって命名されたものがほとんどだが、その中でも東京都内の「神」にちなんで名付けられた地名についてまとめてみた。

王子(北区)

王子神社に由来する。熊野信仰が盛んだった鎌倉時代、当時この地を治めていた豊島氏が熊野若一王子を勧請したのが現在の王子神社だという。
王子は若宮や御子神とも呼ばれ、主神(本宮に祀られる)の子や従者としての位置づけの神。特に若一王子は熊野信仰においてよく勧請される神である。

八王子(八王子市)

1571年(元亀2年)頃から北条氏照によって築城が始まった八王子城に由来している。城名は、916年(延喜16年)に牛頭天王の使者である8人の王子を「八王子権現」として深沢山(現:城山)に祀ったことに由来する。

熊野町(板橋区)

熊野神社に由来する。創立は応永年間(1394〜1427年)。
全国に点在する熊野神社は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を勧請したものである。

白山(文京区)

白山神社に由来する。948年(天暦2年)に加賀国一宮である白山比咩神社から勧請を受けたもの。
白山信仰は日本三名山に数えられる白山を対象とした山岳仏教がはじまりと考えられ、白山比咩神社では菊理媛命(くくりひめのみこと)=白山比咩大神を祭神としている。

愛宕(港区)

愛宕神社に由来する。1603年に徳川家康の命により創建。京都愛宕神社(愛宕山白雲寺)を勧請したもの。愛宕信仰は愛宕山の山岳信仰にはじまり、後に勝軍地蔵を本地仏、軻遇突智(かぐつち)を祭神としたことから、武神や火防のご利益があるとされた。

秋葉原(台東区)

秋葉神社に由来する。明治2年(1870年)の大火の際、宮城(皇居)の敷地内から現在のJR秋葉原駅構内にあたる場所に鎮火三神を勧請したものがはじまり。民衆が火防の神として知られる秋葉大権現と混同して「秋葉さん」と呼ぶようになったことからいつしか「秋葉社」となり、1930年に移転した際に正式に「秋葉神社」となった。

東伏見(西東京市)

東伏見稲荷神社に由来する。創建は昭和4年と比較的最近出来た神社。地名も1966年の町名整理で成立したもの。稲荷神は五穀豊穣の神として広く知られている。昭和に入ってからの創建は近郊農業の発展に伴ったものだろうか。

天神町(新宿区)

北野神社(天神社)に由来する。当時この地にあった大友義乗の屋敷内に太宰府天満宮を勧進したことにはじまる。
天神信仰は菅原道真を「天神」として信仰するものとして知られるが、本来はその字の如く「天」を崇める信仰である。延長8年(930年)、道真の怨霊が引き起こしたとされる「清涼殿落雷事件」を契機に、天神=道真として広まっていったものとされる。

番外:駅名に佇む神様

稲荷町(東京メトロ銀座線)
駅を設置した1927年当時の地名、下谷区南稲荷町より命名された(現在は台東区東上野)。ここでいう「稲荷」は下谷神社を指す。

溜池山王(東京メトロ銀座線・南北線)
山王日枝神社に由来する。江戸三大祭りの一つ山王祭でも有名。
江戸氏が山王宮を祀り、文明10年(1478年)に太田道灌江戸城築城の際に川越山王社を改めて勧請したもの。
山王信仰は比叡山を対象にした山岳信仰を原点とするが、広く知られるようになったのは比叡山延暦寺を本拠地とする天台宗の布教に伴うものとされる。

鬼子母神前(都電荒川線)
駅前にある法明寺鬼子母神堂に由来する。
鬼子母神は訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれ、毘沙門天の部下・般闍迦の妻で、多くの子を育てるために人間の子を食べていた言わば「鬼」である。その様子を見た釈迦が、戒めのために彼女の子を隠してしまった。いくら探しても見つからないので釈迦に助けを乞うと、改心をすることを条件に子を返した。こうして彼女は鬼子母神となり、子育てや安産の神として人々の信仰を集めるようになったのである。

今回はできるだけ「神様の名前」が地名に含まれているものをピックアップしたが、上記以外にも神社の門前町として栄えたことから名付けられた地名が都内には数多く存在する。

地名の由来は多くの場合理由が定かで無いものが多く、民俗学や言語学など多くの学問を横断して調べていく事が必要になってくる。そんな中ここで挙げているように由来が明確にわかっているものをとっかかりにして、奥深い「地名学」の世界に足を踏み入れていくのもアリなのかなと思う。

2016/03/09

なぜ全国にこんなにも「不動滝」が点在しているのか?



急な坂をひーこら言いながら登っては下り登っては下り、山歩きは自分との戦いである。そんな戦の最中、ここぞというときに手を差し伸べてくれるのが川のせせらぎであったり、水の冷たさだったりする。中でも滝に出会った時の爽快感・圧倒感は言うまでもない。

(写真は板橋区・赤塚不動の滝。左上から不動明王がチラ見している。平地にあるので、ひーこら言わなくても見ることができるし、水量は辛うじてせせらいでいるレベル。)

そんな「滝」をいくつか見てきた方なら不思議に思った方も多いのではないだろうか。
全国各地、様々な場所に「不動滝」と呼ばれる滝が存在しているのだ。

地名コレクション 不動滝には表記ゆれも含め(2016/3/3現在)135件の不動滝が掲載されており、おそらく滝の名称としては最も多いと思われる。

不動ってなに?

不動は「不動明王」を指す。日本の仏教ではかなりメジャーな信仰対象で、「○○不動尊」と呼ばれる寺院を目にすることも多いのではないだろうか。

「不動」という名前から、動かざること山の如し、無言で仁王立ちしている姿を想像する方もいるかと思うが、実際の姿は右手に剣(倶利伽羅剣)、左手に羂索(投げ縄みたいなもの)、背面に迦楼羅焔(火焔光の一種)をまとい、怒りの形相で睨みつけているのが一般的である。どちらかというと生命感・躍動感があり不動の名とはかけ離れている。それもその筈、不動という名はその形相から付けられたものではなく、サンスクリット語のアチャラ(動かざるもの)ナータ(〜様のような尊称)を直訳したものである。

ここで着目するのは「明王」という尊格。これは密教(真言宗・天台宗など)における最高仏尊である大日如来の命を受け、民衆を仏教に帰依させようとする役割を持った仏尊を指す尊格である。
不動明王が「密教」における重要な崇拝対象だったということがポイントとなってくる。

密教と滝行

密教を日本に持ち込んだのはかの有名な空海である。空海は唐で密教を学び、日本に帰国した際にいくつかの不動明王を持ち込んでいる。密教が日本に伝来すると、日本古来の山岳信仰と結びついて「修験道」として知られる信仰が成立する。

この密教や修験道における修行の一つが「滝行」である。
白装束を身にまとい滝に打たれる姿を見たことがある人も多いだろうし、実際に体験したことがある方もいるだろう。

滝行では不動明王の真言を唱えるケースが多い。これは不動信仰でよく読まれるという「聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経」を典拠としたものである。この経典は普賢菩薩が文殊菩薩と衆生(生けるものすべて)に向けて不動明王の教えを説くというストーリーになっている。その中に次のような一節がある。
或入河水 而作念誦
若於山頂樹下 塔廟之處
作念誦法 速得成就 
(超意訳:河水に入って念ずれば不動明王の功徳を得られる。)

この経典を根拠に、滝行を行うことで不動明王の教えを会得しようする動きが全国的に広まったものと考えられる。このような滝の傍には不動明王が祀られていることが多く、それまで名も無き一修行の場として存在していた滝が、いつしか「不動滝」と呼ばれるようになったのではないだろうか。

2016/02/27

大江戸線の「厩橋越え」の謎は諸説あり



都営地下鉄大江戸線は2000年に開通した比較的新しい路線。
都内で一番深いところを走る路線としても有名だが、この路線には様々な「謎」があり、半ば都市伝説化しているものもある。
その中の一つが、地図などを見たときに気になる人も多い、蔵前駅と両国駅の間にある謎の「分岐」であろう。
上下線が厩橋の直下を避けるように迂回して隅田川を越えるのである。

厩橋は昭和4年竣工の3径間下路式タイドアーチ橋である。
隅田川西岸にあった浅草御米蔵の北側に厩が併設されていたことから、一帯の隅田川沿いは「御厩河岸」と呼ばれており、元禄3年(1690年)には「御厩(河岸)の渡し」が認められた。明治5年(1872年)に渡しで転覆事故が起こると利用者が激減し、明治7年(1874年)に廃止された。その代わりに架橋されたのが(旧)厩橋である。

さて本題に戻ろう。
調べてみたところ大江戸線厩橋の謎は、既にいくつかの説が浮上しているようである。
代表的なものは以下の2つ。

1.橋を爆撃された際に、地下鉄が影響を受けないようにするため。

若干オカルト臭がする話。
「橋」は交通の要所であることから、戦時中は爆撃対象となるという。実際の東京大空襲では隅田川に架かる橋への攻撃は無かったが、もし爆撃された場合、崩れ落ちた鉄骨で川底がダメージを受ける可能性がある。
そのような場合に橋の直下に地下鉄を建設していると被害を受ける可能性があるため、それを避ける目的で大江戸線は厩橋を迂回しているというのである。

この議論の延長には、大江戸線のトンネルが戦前から存在し、その耐用年数が限界に来ていたため大江戸線開通の名目でトンネル補強を行ったという話があるが…。
あんまり触れないでおこう。

2.橋台に影響を与えないようにするため。

厩橋には他の橋と同様に立派な「橋台」と「橋脚」が備わっている。橋台・橋脚の地下にはそれらを支える「基礎」が設置されているはずである。地下にトンネルを掘ろうものなら、地下に埋まったこの障害物をどうしても避けなければならない。

隅田川を地下で行き来する路線は大江戸線以外にも多数存在するが、東西線以外は橋の直下に路線が存在しない。そもそも橋の両端を通るようにルートが設定されていないのだ。
ちなみに東西線は永代橋直下に路線があるが、永代橋は杭を使う工法ではない(ニューマチックケーソン工法)ため、橋と地下鉄を並列にすることが可能なようである。

本来であれば計画の段階で厩橋の両端を通るようなルート設定は避けるはずだが、隅田川西岸には国道6号直下を都営地下鉄浅草線が通っていることもあり、うまいこと橋を避けて川を越えるルートが設定できなかったようだ。

厩橋西岸付近の水深は3.7m[参考1]。
厩橋東岸付近の水深は3.9m[参考1]。
蔵前駅の深さは17.9m[参考2]。
大江戸線のトンネル外径は5.3mなので、杭基礎が川底から十数mもあれば地下鉄のトンネルに到達するしそうである。

(参考1:日本財団図書館(電子図書館) 船舶の河川航行に関する調査研究報告書
(参考2:蔵前 | 東京都交通局


2016/02/18

名所江戸百景:中川口 -水の流れは変わるもの-



名所江戸百景では、水を主題にした作品が多い。江戸が水を有効に活用して町づくりを推し進めていたのも一因ともいえよう。
特に江戸時代は、それまでに無いような大規模な河川工事が多く行われた。有名どころでは、文禄3年(1594年)から開始された「利根川東遷」なんかがある。
江戸府内でも水運輸送を充実させるために、水路の整備が進められていた。特に「塩」の確保を重要視した幕府は、天正18年(1590年)、江戸入府と同時に行徳を天領とし、江戸府内から行徳に向かう水路を開削した。これが「小名木川」である。

ここで作品を見てみよう。
画面を横断する流れが「中川」、中川を挟んで奥に伸びるのが「新川(船堀川)」、手前側が「小名木川」である。小名木川については、名所江戸百景の他のいくつかの作品でも題材として描かれているので、ここで深く言及するのは避けておこう。
今回はこの場所にあった「番所」にフォーカスを当てたい。

番所は河川を往来する船の出入りを監視・取り締まりを行っていた幕府設置の機関であり、いわゆる「関所」の一種である。寛文元年(1661年)まで小名木川の西端・隅田川口にあった船番所を、この絵が描かれた中川口に移転してきたものが「中川船番所」である。

中川船番所の最重要任務は、船積みされた様々な物資の流通量を監視することにあった。メインの「塩」をはじめ、米、野菜、鮮魚、硫黄など、様々な商品の出入りを見張っていた。特に生鮮食品については夜間の通行も認めることで、鮮度の高いものを江戸府内で手に入れることができるようになっていた。

広重の作品を見ると、人の行き来も盛んに行われていたのがわかる。
この番所では物資に対する厳重な監視に対して、人の往来についてはそれほど厳しくなかったという。とはいえ、他の関所と同様、女性の通行は厳しく制限されていた。
ともあれ、主な交通手段が船であったこの時代には、非常に重要な機関であったことがわかる。

明治2年(1869年)に関所制度が廃止されると同時に、船番所もその役目を終える。以降も新川から小名木川を経由したルートは蒸気船の運行などにより重宝されていた。蒸気船「通運丸」は日本橋蛎殻町から銚子までを18時間以上かけて運行していた。しかし、明治28年(1895年)の総武鉄道の開通を皮切りに、長距離の旅客輸送は次第に鉄道に移行していき、旅客輸送は短距離化していった。

荒川放水路が開通すると、それまでの中川は旧中川、そのすぐ脇に荒川放水路、その東脇を中川放水路が流れるようになる。このとき新川の西側はほとんどが放水路によって消失した。また河川間に水位差が生じ、船舶の通行に支障をきたすようになったため、これを解消するために昭和5年(1930年)に旧中川・荒川放水路間に小松川閘門、荒川放水路・中川間に船堀閘門が設置された。

中川船番所があった場所には現在平成15年(2003年)開館の「江東区中川船番所資料館」が立っている。資料館内には当時の番所の様子をジオラマで再現しているコーナーもあり、往時の様子を伺うことができる。
資料館向かいの川沿いには「旧中川・川の駅」が平成25年(2013年)にオープンした。ここは墨田区・江東区を中心とした観光名所を周遊する水陸両用バス「SKY DUCK」が、陸地から旧中川へ勢いよくダイブする様子を見ることができるポイントにもなっている。



現在の広重視点からの風景。旧中川から新川間の流れは小松川閘門によって調整されていたが、昭和50年(1975年)に船の需要低下から閘門の使用が終了し、新川も運河としての役目を終えた。旧中川と荒川に挟まれた土地は日本化学工業の工場が立っていたが、クロム鉱滓の埋め立て問題が発覚し、その後処理を行った結果として平成9年(1997年)には大島小松川公園が整備された。

現在、小名木川から新川方面を臨むと、産業遺産としての旧小松川閘門の堂々たる姿を拝むことができる。その傍らでは水陸両用バスやカヌーなどのアクティビティを楽しむ人が散見できる。

かつての水運の要所はもはや要所ではなくなってしまったが、人々は未だに川と親しく付き合っている。

2016/02/13

【中央区観光検定】今から来年の対策(2016年版)


2/11(木)に中央区観光検定を受験してきた。

中央区観光検定は23区初のご当地検定として2009年に始まったもので、今回で8回目となる。職場が中央区ということもあり、興味本位でテキストと過去3回分の過去問をまとめたものを購入した。

一通りテキストを読み、過去問を解いてみたところ、合格点の「75点」を越えることができたので、意気揚々と試験に臨んだのだが、想定外の問題が多く出題されたため自己採点の結果65点となってしまった。

とても悔しくて夜も眠れないので、今から来年の検定に備えて個人的に間違えやすいポイントを抑えておこうと思う。

築地は多くの大学発祥の地

明治元(1868)年に、現在の明石町域に築地外国人居留地が設置されると、それまで日本に無かった多くの西洋文化が築地から全国へ発信された。教育分野においても西洋の文化が持ち込まれ、さらに明治5(1872)年には海軍省が築地に設置された。これにより、西洋式学校と軍事関連学校といった、多様な学校が築地で創立することとなった。

創立年 旧学校名 現学校名 備考 出題回
1858 蘭学塾 慶應義塾大学 福沢諭吉が開設。
1870 A6番女学校 女子学院 ジュリア・カルゾロスが開設。
築地で最初に建てられた洋館。
1874 立教学校 立教学院 C.M.ウィリアムズ主教が開設。
1874 海軍会計学舎(海軍経理学校) - 明治21年に浴恩園跡地、
昭和7年に築地の一角に移転。
海軍解体に伴い昭和20年に閉校。

1875 築地語学校 雙葉学園 サンモール修道会の宣教師が開設。
1875 三菱商船学校 東京海洋大学 大久保利通内務卿の命を受け、岩崎弥太郎が設立。
当初は永代橋下流に成妙丸を繋留し、校舎とした。
⑥⑧
1877 東京一致神学校 明治学院

1888 工手学校 工学院大学

建築家と建築物を抑える

今回は都選定歴史的建造物に関する問題が多数出題された。建造物の特徴についてだけでなく、建築家に関する問題も出題されている。

設計 建築物 備考
ジョサイア・コンドル 北海道開拓使東京出張所 日本銀行はこの建物で業務を開始した。
辰野金吾(ジョサイア・コンドルに師事) 日本銀行本店本館 江戸時代の金座跡地。ベルギーの中央銀行を参考にしたネオ・バロック建築。
横河民輔 旧三井本館 関東大震災で被災。
森山松之助(辰野金吾に師事) 玉置文治郎ビル 関東大震災後の復興ビル。テラコッタの技法。
伊東忠太 築地本願寺 古代インド様式。
妻木頼黄 日本橋 麒麟と獅子のブロンズ彫刻などの装飾を担当。

歌舞伎座について知る

2013年に歌舞伎座がオフィスタワーを備えた複合施設「GINZA KABUKIZA」としてオープンした。世間の注目度も高いことから関連問題が出題されている。

歌舞伎座のはじまり

東京日日新聞社の主筆兼社長の福地源一郎が中心となって明治22(1889)年に開場した。現在のものは第五期の建物で、第四期の劇場外観をできるだけ再現して設計されている。

木挽町広場

地下2Fには土産物屋やイベントスペースとして利用されるエリアが設けられている。災害時には帰宅困難者を収容する施設となる。

歌舞伎座ギャラリー

5Fには屋上庭園を望める場所に、日本の伝統芸能を紹介する施設が備えられている。


この他の要対策項目としては、「橋」「イベント」「美術館」あたりが鬼門のように感じる。また来年近くなったらこの辺りについてもまとめたいと思う。

2016/01/11

江戸時代の年号を覚えたい その②


※ここまでのまとめ
(中期)元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応

ここでは年号と結び付きの強い「飢饉」と「大火」について調べてみた。

飢饉


  • 寛永の大飢饉

江戸時代初期は慢性的に凶作・飢饉に悩まされており、それが最大化したもの。

  • 享保の大飢饉

西日本を中心とした飢饉。これにより米価が高騰し、江戸で享保の打ちこわしが発生した。

  • 天明の大飢饉

東北地方を中心とした飢饉。これにより農村部から都市部に人口が流入し、治安が悪化。全国で打ちこわしが多発した。これら諸事により田沼意次が失脚し、事態の脱却を図るため寛政の改革が行われることになる。

  • 天保の大飢饉

洪水や冷害による凶作に伴う飢饉。百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発し、大塩平八郎の乱にも繋がった。

参考:Wikipedia|江戸四大飢饉

(初期)寛永の大飢饉→…
→(中期)元禄文化→享保の改革→天明の大飢饉寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応

江戸の大火


  • 明暦の大火(振袖火事)

江戸の町について調べていると必ず引っかかるキーワードなのではないだろうか。この火事で江戸は一掃され、その教訓として回向院の建立、広小路の設置、隅田川東岸の宅地拡大をはじめ、江戸の都市計画が大きく変更される契機となった。

  • 明和の大火(目黒行人坂の大火)

目黒行人坂にある大円寺での放火が原因となった火事。目黒から出火し千住まで広がった。その後の建物の修復や再建において資材が不足し、物価がそれまでの10倍になってしまった。これら災難が明和九年(迷惑年)という年号によるということから、この年に「安永」に改元された。

  • 文化の大火(丙寅の大火)

芝で出火し浅草まで延焼した火事。下谷にあった組屋敷が全焼し、空き地で朝顔の栽培を始めたところ、江戸に朝顔ブームが広がることとなった。

ここまでをまとめると次のようになる。

(初期)寛永の大飢饉→…→明暦の大火
→(中期)元禄文化→享保の改革→明和の大火→安永に改元天明の大飢饉→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応

ここまでで13個の年号が挙った。
ここからが難しいところになってくる。

2016/01/02

江戸時代の年号を覚えたい その①



「歴史と散歩とポタリング」というブログタイトルの癖に、当方の歴史知識は中学時代に義務教育で学んだところで停滞している。高校大学と理系街道をゴリゴリにまっしぐらしてしまったため、その間は歴史に触れる機会などほとんどなく、それは最近まで続いた。

最近街道散歩をするようになって、町中に「年号」が溢れていることに気がついた。ただ如何せん歴史知識が足りない故、その年号が示している年代がわからない。知っている年号に出会っても、その時代が時系列上のどのポジションに位置するのかが分からない。
すべての年号を覚えるのは大変なので、とりあえず江戸時代の年号をどうにか覚えてみようと試行錯誤してみた。

江戸時代に使われた年号は、
慶長、元和、寛永、正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応
の36個。
さて、どう覚えようか。

三大改革と文化をおさえる

江戸時代の年号が入っている有名な歴史用語といえば江戸の三大改革。これを軸にして江戸の全体像を捉えよう。

  • 享保の改革
八代将軍・徳川吉宗による政策。倹約令や目安箱が有名。

  • 寛政の改革
老中・松平定信による政策。倹約令や朱子学以外の学問の禁止を行った。

  • 天保の改革
老中・水野忠邦による政策。農民の出稼ぎ禁止、株仲間の解散などを行った。

江戸時代の二大文化も押さえやすい。大衆文化の興りは改革とも強い結び付きがあるため、セットで時代背景を追いやすい。

  • 元禄文化
上方を中心に栄えた文化。松尾芭蕉の奥の細道、近松門左衛門の曽根崎心中、尾形光琳による琳派の台頭など。

  • 化政(文化・文政)文化
元禄文化が上方中心だったのに対し、化政文化は江戸からの発信も盛んだった。寛政の改革による厳しい統制に反発するように、民衆に明るさを提供する役割を担うものが人気を集めた。

ここまでを時系列にすると、
元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革
となる。これで江戸中期の基本となる年号はおさえられたのではないか。

出来事の名前に年号が使われているもの

改革と文化の他に中学の歴史で出来事の通称に年号が含まれているものは、次のようなものがあるので、これを改革・文化と照らしあわせて時系列を覚えてしまおう。

  • 安政の大獄
大老・井伊直弼による尊王攘夷派の大量処罰事件。吉田松陰などが処刑され、後の桜田門外の変に繋がる。いかにも幕末だなーという感じがする事件。

  • 飢饉

江戸期には飢饉が散発的に発生していた。これについては改めて別の機会にまとめようと思う。

幕末の年号を付け加え、ここまでを時系列にすると、

(中期)元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応

となる。所々の結びつきは補う必要があるが、中学時代に耳にした年号はほとんど出揃っているはずである。

次回以降、さらにこの繋がりを強固にして年号の時系列を覚えていきたい。