【歩き旅・ルート】川越街道 〜江戸と小江戸を結ぶ道〜
「日本の街道」と聞くと、多くの人は五街道を思い浮かべる。東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道は江戸幕府が重要と認めたことで、一躍街道界のスターダムに上り詰めたわけだが、その五街道を影から支えるバックダンサー的役割を担っていたのが「脇往還」と呼ばれる諸街道である。
今回紹介する川越街道は、中山道・板橋宿から川越城までの50km弱の道程で、中山道の脇往還として江戸時代に整備されたものである。
長禄元年(1457年)、築城の名士として名高い太田道灌によって千代田城(江戸城)・河越城(川越城)が築かれる。この2つの拠点を結ぶための道が川越街道の基礎となった。慶長六年(1601年)から、徳川家康が五街道の整備を始めると、脇往還についても沿線の藩主導のもと整備が進められた。寛永16年(1639年)、松平信綱が川越藩に移封されると、城下町の整備等とあわせて川越街道が改修された。
川越街道の改修とほぼ同時期に、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6つの宿場が設けられた。本陣・脇本陣が設置された宿場もあったが、川越から江戸までは頑張れば一日程度で移動できる距離であったこともあり、その規模は小さかった。宿場としての業務は人馬継立がメインだったと思われる。
川越街道はさらに北に延伸すると、下仁田道藤岡宿へと至る(川越児玉往還)。下仁田道は中山道本庄宿から中山道借宿へと至る脇往還であり、川越児玉往還と下仁田道を組み合わせれば、中山道を行くより短い距離で移動することが可能となる。そのため、大名は中山道を、役人などは大名とすれ違うことを避けて川越児玉往還を利用する傾向にあった。そんなこともあり、脇往還ながら交通量は多かったようで、それは移動手段が徒歩から自動車に変遷した今なお続いている。
上図は、寛永10年(1633年)に作成された日本六十余州国々切絵図 武蔵国より江戸と川越をつないでいる部分を抽出したものである。江戸から川越に至る道沿いには、
【江戸】ー板橋ーねりま(練馬)ーおさおり(膝折?)ー大わた(大和田)ーふしくほ(藤久保)ー亀くほ(亀久保)ーうとふ(烏頭)ー【川越】
といった集落名が確認できる。川越街道が本格的に整備される前だが、基本的なルートは変わっておらず、地名もほとんど現存している。
今回は川越街道を中山道板橋宿平尾追分から川越城大手門跡前まで、2日間に分けて完歩した。ルートの決定や立ち寄る史跡の選定には、主にWeb上にある諸先輩方の歩行履歴を参考にした。