気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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©こけ
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2015/02/22

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day3の② 〜長尾根みちを行く〜



22番から23番へは、明治時代の道を行き、山中で江戸巡礼古道と合流することになる。まずは明治巡礼古道を辿る。墓地の脇をすり抜ける砂利道が正規のルートとなっている。

砂利道を進んでいくと、土が高く持ってある所に地蔵の祠が佇んでいた。調べてみると22番札所がある永福寺一帯は、室町時代に「永田城」が築城された地だという。この城の詳細な文献は現存していないが、地蔵尊のある小高い盛土が永田城の土塁跡だそうだ。また、空堀跡が現在歩いている巡礼古道なのだそう。
県道72号まで戻ってきた。かつて永田城の西側を流れていた、天然の堀「唐沢」が用水路に接続されている道沿いに明治巡礼道は延びている。しかし、ほとんどの人は案内板の「巡礼みち」と書かれている方へ進んでいく。
案内板の「小鹿坂巡礼みち」に沿って進んでいくと、集落を抜けた辺りで道がよくわからなくなってしまった。地図のような線形で直線に進んでいくと、駐車場のような空間にぶつかって先へ行けないのである。
右往左往していたところ、丁度逆打ちで巡礼してきた人に遭遇し、ルートを教えてもらうことができた。山に向かって左側に細い道があった。
しばらく険しい山道が続く。とはいえ10分程で尾根に到着し、江戸巡礼古道に合流する。振り返ると今辿った道越しに秩父市街が一望できる。
この傾いた案内板にはここまでの道を「明治巡礼古道 中山みち」と記していた筈なのだが、豪雨か何かの災害を受けて案内板の半分程が失われており、確認することができなかった。
平坦な尾根道を進む。木陰がちょうどよく日差しを遮ってくれるので快適に歩を進めることができた。
開けた場所に出ると、そこには13体のお地蔵様が並んでいた。この「小鹿坂峠の十三権者」は秩父巡礼の開祖だと伝えられており、揃って秩父市街を臨んでいる。



23番札所・音楽寺に到着。その名に相応しく、境内にはクラシックが流れていた。先の十三権者がこの地に訪れた際、松をなびかせる風の音が菩薩が奏でる音楽のようだと評したことから音楽寺という名が付けられたという。
小鹿坂峠から音楽寺にかけて歩いた農民は、音楽寺にある梵鐘を鳴らして秩父市街へなだれ込み、秩父事件の幕が開けることとなった。

音楽寺というだけあって、多くの音楽関係者が参拝に訪れているようだ。本堂脇のパネルには所狭しと演歌歌手のポスターが貼られていた。秩父という土地柄か、若いアーティストのものはほとんど無かった。

駐車場脇に古道の入口があるのだが、少々解りづらい。その先には足下もあまり安定せず、緩やかとも言いがたい坂道が続いていた。一応「長尾根みち」と呼ばれている区間であるが、既に尾根ゾーンは越えてしまっており、山道を下る区間が続く。
数分で開けた場所に到着する。秩父ミューズパークの敷地内の下水処理施設だろうか。荒川につながる塩谷沢に接続しているようだ。

土壁のような造りの家の脇を通過する。人工のトンネルになっていて、ここが古道なのか?と心配してしまうが、ちゃんと「巡礼道」のプレートが置かれており正規のルートだとわかる。



道が未舗装路から荒れた舗装路にクラスアップする。ひっそりと佇む馬頭観音碑を横目に道を右へと切り替える。数十メートルで、再び山道へ入っていく。




山道を抜けると二十二夜塔があり、車道に出てくる。舗装路だが登りがややきつい。これも100メートル程で再び山道に入ることになる。宝暦13(1763)年建立の弁財天碑が入口の目印となっている。
竹林のトンネルがある鬱蒼とした箇所を抜けると、武甲山の眺望が素晴らしい開けた場所に出るが、道が不明瞭な箇所が区間があった。
なかなか険しい山道を進んでいく。下りだが道が細いので、体に薮やら木の枝やらがひっかかってくる。
しばらく下ると、桜久保沢に当たる。「新編武蔵風土記稿」「別所村」の項にある「櫻窪澤」の説明によると、
”水路廿町餘、小流なれども、澤の幅は五十六間にも及ぶべし”とあり、なかなか渡るのに苦労する沢だったようだ。

今では水量もそれほど多くなかったので、石を辿っていけば濡れずに渡ることができた。桜久保沢を渡ると、今度は急な上り坂となる。「念仏坂」と呼ばれるこの坂は、巡礼者が念仏を唱えながら往来したことにちなんでいるとのこと。


念仏坂を登りきると、車道に出て平坦な道を進んでいく。時折覗く武甲山の眺望が非常に美しい。
途中、道を少し外れたところに庚申塔や石仏群がまとまっていた。どうやらかつてこの地にあった「永源寺」の跡地のようだ。(永源寺は24番札所・法泉寺等を束ねていた寺?)

116段の石段を駆け上ると、24番札所・法泉寺である。
観音堂は、正面に仁王像が配置されている珍しい構造となっている。山門を兼ねた意味合いを持たせたかったのだろうか。

今日はもうちょっと歩こう。続きは次回。

2015/02/13

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day3の① 〜明治巡礼古道をゆく〜



秩父巡礼3日目は、十九番札所・龍石寺からスタート。
六地蔵と中心仏が柔軟運動を見守ってくれた。

歩き始めると「安春地蔵菩薩」なる祠が見えてきた。遠目に見ると、幟などの装飾がカラフルな地蔵堂だった。
中には大小2体の延命地蔵が祀られていた。奉納されたのは平成6年とまだ新しく、当時77歳と75歳の奉納者夫婦の名前が記されていた。




荒川を渡る旧秩父橋に到着。埼玉県の有形文化財に指定されているこの橋は、昭和6年竣工の三連コンクリートアーチ橋。隣接する(現)秩父橋の塔とケーブルを臨む風景が、絵画的な空気をつくっている。
前回紹介した十七番札所・定林寺と同様、「あの花」の劇中に何度か登場する舞台となっており、聖地として人気の場所でもある。
巡礼古道時代には秩父橋のような立派な橋はもちろん無く、現存しない川沿いのルートがあり、より上流で川を渡った。現在では秩父橋を渡って上流方向へ台地を上がるルートがあるのだが、私が訪れたときには地滑りで通行止めとなっていた。
迂回路を進み、しばらく歩くと寺院入口で青面金剛らしきものと、江戸時代の無縫塔(僧侶の墓)が出迎えてくれた。


二十番札所・岩之上堂は、荒川河岸の崖上に建っている。しかし、その参道入口はそれよりも高い位置にあるので、初めて見る岩之上堂の姿は本堂の屋根と庭が広がる風景だ。
堂主が僧侶ではなく一般の個人というのも珍しい。

ここからの荒川西岸に沿うように辿るルートは「寺尾みち」と呼ばれる古道である。川沿いの少し高い位置を行く道で、比較的歩きやすい。
21番までは10数分程で着くような距離だが、途中には道標石が複数あった。左の写真の石は「廿番 ひだり」と刻まれており、道標としての役割を果たしているが、よく見ると複数名の戒名らしきものも併記されており、墓石に転用したのかされたのか気になるところである。


二十一番札所・観音寺の本堂は比較的新しい造りのように見える。
矢之堂や矢納堂とも呼ばれ、ヤマトタケルや行基、平将門にちなんだ矢に関する伝説が残されている古刹であるが、大正12年に火災により消失し、再建されたものである。本尊の聖観音はこの火災から免れたので、以来「火除け観音」と呼ばれるようになったという。

さて、実はこの先のルートは悩みどころなのである。22番札所に向かうルートの途中に、江戸期と明治期、時代の異なる2つの道が存在するのだ。

古い方のルートは、21番→(長尾根みち)→(旧)22番→(長尾根みち)→23番と、その名の通り尾根沿いの道を進むルートであった。
しかし22番札所が明治末期に荒川沿いの崖上に移転してしまったため、21番→(寺尾みち)→22番→(長尾根みち)→23番と辿らざるを得なくなってしまった。

どちらの道も興味があったので両ルートとも歩きたかったたのだが、生憎時間がなかったので、判断を納経してくれた観音寺の方に委ねてみた。すると、江戸期のルートは道が荒れており、お勧めできないとの回答があった。

今回は素直に渡された引導に従ってみよう。
江戸巡礼古道との分岐点を見送り、明治巡礼古道・寺尾みちを進んでいく。この日も徒歩での巡礼者を何人か見かけたが、江戸巡礼古道はおろか、明治巡礼古道に足を踏み入れる人もほとんどいなかったように思う。


江戸巡礼古道と分かれた巡礼道は、県道72号に沿って進んでいく。途中道標石と明治巡礼古道の案内板、巡礼道のプレートがひっそりと佇む場所で、県道を外れる。
この後再び県道と合流することになるため、多くの人が明治道を進まない。案内板が薮の方向を指し示しているのも問題かもしれない。

田んぼの間を縫うように進んでいく。季節は丁度稲刈りのシーズンで、所々に藁を干している様子を見ることができた。
藁の干し方は地域などによって異なるが、この辺りの干し方は、最も一般的な「稲架掛け」の部類に入るだろう。
整然と並ぶ稲藁が、自然と人間のつながりを表しているようで感慨深かった。


札所22番・童子堂に到着。
この地に移転してきたのは1910年(明治43年)。茅葺きの仁王門には特徴的な格好をした大正時代に作られた仁王像が鎮座している。地元の有志が作ったもので、芸術的な彫刻が施されている訳ではないが、味のある作品となっている。

時間はまだまだ午前中。巡礼はまだまだ続く。