【歩き旅】水戸街道 Day5 その② 〜稲吉から石岡へ〜
下稲吉一里塚の先で「稲吉宿入口」の案内標識があるので、それに従って左手に曲がる。
県道197号線との交点に大正5年(1916年)の道標が建っている。「上稲吉ヲ経テ小田北条ニ至ル約四里」「土田市川ヲ経テ石岡町ニ至ル約二里 清水中貫真鍋ヲ経テ土浦町ニ至ル約二里」と刻まれているという。元は現在地より南の丁字路にあった道標である。
稲吉宿はこの辺りから宿場として軒並みが伸びていた。
稲吉宿は万治年間(1658〜61)に成立した宿場で、比較的大規模な土浦宿と府中宿の中間の宿場としての役割を果たしていた。江戸時代後期には17軒の旅籠が軒を連ね、小さいながらも賑わいを見せていた宿場であったことが伺える。
右手に見える坂本家住宅は稲吉宿の本陣であった。水戸街道で本陣が残るのはここと取手宿・中貫宿のみである。
坂本家住宅の隣にも旧家が残る。これは水戸街道で唯一残る旅籠建築である木村家住宅。かつての屋号は「皆川屋」で、安政2年(1855年)の建築とされる。
再び大正5年(1916年)の道標。「根當市村ヲ経テ野寺ニ至ル□□□ 中佐谷下佐谷ヲ経テ山本雪□□□」「土田市川ヲ経テ石岡町ニ至ル約二里 清水中貫真鍋ヲ経テ土浦町ニ至ル約二里」と刻まれているという。この近くに稲吉宿内の石碑一覧が書かれている案内板がある。
道標の反対側には林が広がっている。鬱蒼とした木々の中へ伸びる参道とその入り口にある鳥居は下稲吉香取神社のもの。参道を抜けると本殿に光が当たって、神々しいとはまさにこのこと。ヤマトタケルが東国征伐の際に立ち寄り、稲藁の寝床が気に入ったことから「稲よし」→「稲吉」の地名がおこったという伝説が残る場所である。
旧道はかすみがうら市千代田庁舎の脇を通る。かすみがうら市は平成17年(2005年)に千代田町と霞ヶ浦町が合併して発足した市で、千代田庁舎は旧千代田町役場のあった場所である。庁舎と道を挟んで反対側に馬頭観音が2基設置されている。
旧土田村に入ると、長屋門を構えた旧家が何軒か見ることができる。土田観音寺の山門には六地蔵が並んでいた。山門が潜れないようになっているが、これは東日本大震災による影響だという。境内には鎌倉時代の作とされる不動明王像が安置されている。
下土田北の交差点で国道6号に合流する直前で、ちょっと寄り道するために街道を離れる。その先にある石碑は「従是往西寺□堀…」と刻まれているようだ。道標の後ろのお墓には「中根家」の文字が見える。
少し街道を外れて往西寺へ。往西寺は天保2年(1831年)の創建とされる浄土真宗の寺院。当時この周辺を治めていた志筑藩は、土地の開墾のために北越から人を呼び寄せた。このとき北陸地方で信心を集めていた浄土真宗の寺院がこの地になかったため、往西寺のを創始するに至ったという。
そしてこの台地一帯が「中根長者の屋敷跡」だったという。天正年間(1573〜1591)には中根与兵衛という人物がおり、佐竹氏からの軍用金の徴収を断ったため滅ぼされたと伝わる。往西寺の境内には屋敷の堀跡が残されている。
国道6号を横切り、国道沿いの道を進むと馬頭観音がある。この辺りは街道が新治台地の隙間を横切るため谷戸のようになっている。近くのバス停は「野寺坂」である。坂道で不運な目にあった馬を供養するための馬頭観音だろうか。
常磐線自動車道の千代田石岡インターのあたりは道路拡張などの影響で旧道をトレースするのが難しい。そんな中、インターの入り口付近に千代田の一里塚がある。
塚は江戸時代初期に作られたものとされる、脇の道路が掘り下げられているため非常に高く感じる。
新治小入口から旧道に入る箇所に昭和13年(1938年)の「生馬神供養」の石碑が立っている。農耕などで使われた馬を供養するためのものだろうか。あまり見ない石碑である。
その隣に明治13年(1880年)の「馬歴神」碑が置かれている。こちらもあまり見ない石碑であるが、馬歴(馬櫪)と呼ばれる馬の守護神を祀ったもの。馬を供養するといえば馬頭観音が一般的なように思うが、それよりも古くから信仰を集めていたのが馬歴神なのだろう。これも次の石岡宿が古代東海道の終点として栄えた場所だったからかもしれない。
恋瀬橋ロードパーク内に旧恋瀬橋の親柱と欄干が残っている。旧恋瀬橋は昭和6年(1931年)に架橋され、平成13年(2001年)に老朽化により撤去された。
恋瀬川を新しい恋瀬橋で渡る。恋瀬川はかつて信筑川(しづくがわ)と呼ばれていたが、江戸時代になると「鯉川」と呼ばれるようになり、転訛して「恋瀬川」となった説がある。
田園風景越しに筑波山から伸びる山並みが見える風景に、遠くまで来たことを改めて思い起こされながら、石岡市へと入る。