気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2015/12/14

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の④ 〜ついに結願!〜



頼母沢の集落を抜けると、山道への入口と案内板が顔を出す。
「札所34番 水潜寺 ここより徒歩約一時間半」という矢印は「熊出没注意」の看板を貫いて急峻な山道を指していた。最後の戦いの場、札立峠に向かう登山道の入口である。
巡礼者の格好をした男性が颯爽と坂を登って行くのを横目に、熊除け用の鈴をかばんに付ける。軽い柔軟運動を済ませ、登山道の利用状況調査のためのカウンターを軽快に鳴らして、眼前の登り坂へと足を運んだ。

「しばらく登り ガンバロー」の標識に誘われて九十九折の山道をひたすら登っていく。先行していた巡礼姿の男性も途中の曲がり角で足を止めて休憩していた。成人男性でもなかなかに厳しい登りが休みなく続いた。



15分ほどひたすら登り続けると、平らな石が路傍に置かれていた。看板は半壊していたが、どうやら「休み石」と呼ばれる石だそうだ。
座って休むには高さが足りない気がしたので、写真を撮るだけにしてその場を後にした。


休み石から10分ほどで札立峠に到着。天長元年(824年)の大旱魃の折、付近を通りかかった旅の僧が村人に観世音を拝むようにと説いた。そこで「樹(澍)甘露法雨」と書いたの札を立てて拝んだところ大法師が現れ、岩を杖で突くと水が湧き出てきたという。この逸話が水潜寺、ひいては百観音の起こりとされるエピソードである。
峠の一角に大小の観音様が置かれていた。その傍らには熊野修験の木札が置かれていた。平成二十六年度の五月とかなり新しいものだった。午年総開帳に合わせて奉納したのだろうか。
札立峠は見晴らしが全くないが、ここから500m先の破風(はっぷ)山へ向かうハイキングルートが整備されており、破風山頂からは秩父盆地が見渡せるので、時間があればそちらに寄るのも手だろう。
破風山から水潜寺に至る道は「関東ふれあいの道」の一部になっている。しかし峠からの下り道は結構険しく、ふれあっているどころじゃない。
ゴツゴツとした岩がせり出ている箇所も多くあるため、足場が悪く滑りやすい。途中で男性が立ち往生していて何事かと思えば、足を挫いてしまったらしく同行の方の介抱を受けているところだった。下るにつれ湿気も増えてきたので、気を引き締め直してゴールを目指す。


ついに34番寺・水潜寺に到着。
小雨のぱらつく中、文政11年(1828年)に建立された本堂を前に呼吸を整える。
西国・坂東に秩父を合わせた日本百観音の結願寺でもある水潜寺は、千手観音を本尊としている。その両脇を挟むように西国を意味する西方浄土の阿弥陀如来、坂東を意味する東方瑠璃光世界の薬師如来が祀られているのが、結願寺ならではの特徴である。

最後のご朱印をもらおうと納経所に向かおうとしたところ、何やら長蛇の列ができているではないか。話を聞くと、御朱印を貰うまでおよそ40分並ばなければならないという。さすが結願寺といったところだろうか。某ランドのちょっとしたアトラクションの如く、冷えきった体を揺らしながらの待ちぼうけ。


ついに結願!
6日間・全長約100kmの道のりがここで終了した。

帰路は「札所前」のバス停から皆野町営バス日野沢線の最終で皆野駅へ向かう。天候が悪くなったこともあり札所前で満員となってしまった。

思いつきで始めた巡礼の旅であったが、気がつけば山あり川あり藪ありのなかなかに楽しい道中だった。それまで「巡礼」という言葉すら耳にした程度たっだが、巡礼というものがどういった経緯で民衆に広まっていったのか、人々がどのような思いで巡礼を行っていたのかに触れることが出来たのは本当に有意義な経験であった。

埼玉にこのような日本に誇れる歴史的コンテンツがあるということを多くの人が知らないだろうし、知った所で巡礼を実際に行ってみようという人は少ないであろう。それでもこの秩父巡礼が今なお人々の支えになっていること、そしてこれからも多くの人の支えてくれる存在となることを、現代そして後世に伝えられれば是幸である。

2015/11/30

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の③ 〜最後の峠へ向けて〜



三十三番寺・菊水寺に到着。
正面に「正大悲殿」の額が掲げられている本堂は、文政3年(1820年)に再建されたもの(大悲殿は観音菩薩が祀られている建物を指す)。入母屋造りの建物に菊水の紋がよく映えている。
写真に収めるのを忘れてしまったが、境内には県内最古と言われる寛保年間の芭蕉句碑「寒菊や こぬかのかかる 臼のはた」がある。

ここまでくれば最後のひと踏ん張り、意気揚々と34番寺を目指す。
桜井橋までの区間はところどころ旧道が残されており、旧道のうねうねとした線形を楽しむことができる。桜井橋はかつて現在よりも少し上流に位置しており、そこまでの旧道が残されていたが、川をそのまま渡ることはできないので、結局桜井橋に戻ることになる。
取方の交差点で永法寺の参道にぶつかる。「萬福山永法禅寺」と揮毫された寺標の脇に「左三十四番」と刻まれた道標がある。とはいえ下の方は草と土に埋もれて判読できない。
従来の古道はこの辺りから吉田川を越えて土手道を進むが、現在は通れないので吉田下橋まで迂回する。


吉田下橋の辺りに八幡神社と旧武毛銀行本店のレトロな建物が残されている。県道をこのまま進むと旧吉田町の中心街となる。秩父盆地の明治初頭の人口を見ると、(秩父)大宮に次いで2番目の規模を誇ったのが下吉田である。
今回は中心街には寄らずに、手前の吉田下橋で吉田川を渡る。橋を渡ってすぐに右折すると、旧道の土手を少しだけ歩くことができる。
ここから先の道筋がやや難解で、ガイドマップはややデフォルメされている。基本的には曲がり角などに設置されている江戸巡礼古道の道標に従っていけば問題ない。
畑と畑の間の細い道を通ったり、短い区間だが未舗装の足場の悪い登り坂もあるので注意が必要である。この坂を登り切ると秩父事件激戦地でもある清泉寺の前に出る。

龍勢会館前を通過する。吉田の龍勢祭りは毎年10月の椋神社の例大祭内の催しとして行われる。火薬を仕掛けたロケットを天高く打ち上げる「龍勢」が見ものである。
そのまままっすぐ行くと天徳寺の入口前を通過する。この寺の浦山には「天徳寺城」や「寺山砦」と呼ばれる山城の遺構が残されているが、関連する記録がほとんど存在しない謎多き山城となっている。
道なりに進むと県道37号線と合流する。信号を越えると左手に立派なお堂が鎮座している。この平石(ひらなめ)馬頭尊堂は弘化四年(1847年)に竣工したもので、現在の吉田久長地区の前身にあたる久長村が発願したものである。
境内には明和五年(1768年)建立の宝篋印塔や、元禄・大正期の道標があるようだが確認しそびれてしまった。

ここから最後の山越え、破風山への登りが始まる。まずはしばらく沢沿いの車道を行く。車通りもほとんどなく、巡礼かハイキングを楽しんでいると思わしき二人組が、たまに訪れる直線区間でチラチラと見える程度。
左手の山が少し開けた場所に石碑が3つ並んでいた。調べた所一番右の石碑には「享保十六辛亥天 右水込道 奉唱念佛百万遍供養塔」と刻まれているらしい。丁度この石碑の裏山に、鉢形城の支城であり「吉田の盾」とも呼ばれた「龍ヶ谷城」があったようだ。
石碑群の少し先に草木が綺麗に整えられた場所がある。そこから沢を土橋で越える道が伸びている。これが「水込道」なのだろう(ちなみに「水込」は水潜寺を指す)。
ここからしばし山道となる。ひとしきり登り切ると石塔と巡礼道のプレートが掲げられており、そこからは緩やかに下り、すぐに車道へと出てくる。

林道頼母沢(たのぶさわ)線をひた登っていく。おそらくこの林道沿いに流れる沢が「頼母沢」のようで、今回の旅最後の集落の名でもある。
頼母沢を堪能していると石碑群と小さなお堂が現れた。お堂はおそらく地蔵堂。石碑は念仏二百万遍供養塔、如意輪観音、そして光明真言百万遍・阿弥陀名号一億・具一切?百万遍がセットになった供養塔が並んでいた。

まだまだ登りは始まったばかり。ここからが本番となる。

2015/11/12

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の② 〜般若に誘われて〜



32番寺・法性寺の山門では般若が大迫力で出迎えてくれる。
山号「般若山」を冠する法性寺は、秩父巡礼の歴史を語る上でも欠かせない「長享二年札所番付」が奉納されているなど、非常に重要な寺院となっている。

境内は紅葉の色づき始めで、緑から赤までのグラデーションが非常に雅であった。色づいた木々の向こう側には、舞台造りの観音堂がちらちらと見え隠れしている。
観音堂は宝永4年(1707年)建立で、本尊である聖観世音菩薩は行基菩薩の作と言われている。
観音堂の裏側は岩が削られたようにくぼみがある。ここには多数の石碑や墓石とともに地蔵が祀られており、子授けにご利益があると言われている。




法性寺には奥の院がある。境内から大岩の割れ目くぐり、奥の院に伸びる道は山道となっている。途中には岩場・鎖場など多数の危険を伴っている、との情報が。
時間に余裕があれば立ち寄りたかったが、今回は行程がキツいスケジュールを組んでしまったのでまたの機会にお預け。
写真は法性寺から岩船観音を撮影したものだが、小さすぎてほとんどその姿を捉えられていない。肉眼では辛うじて目視することができたので、後ろ髪引かれつつ寺を後にする。
柿の久保沢に沿って道を下っていく。落合橋の手前にある建物(集会所?)の前に小さな馬頭観音が鎮座している。
いつの間にか柿の久保沢が般若川に名前を変えていたが、この辺りから般若川を下り対岸へと渡る旧道があるようだ。
私が訪れたときには藪が深く茂っており、道を探そうにも難しい状況だった。
明和8年(1771年)の巳待供養塔。巳待の主尊である弁財天を表す「ソ」の種字が頂部にあしらわれている。
その隣の小さいのは百八十八所供養の石碑だろうか。




その先の道が二股に分かれるところに如意輪観音石仏が置かれていた。如意輪観音の特徴である顎をついた右腕は失われているようであったが、片膝を立てるお決まりのスタイルは健在であった。光背は輪光が頭光としてはっきりと描かれている。


しばらく行くと、馬頭観音と思わしき石碑が用水路の脇に鎮座していた。「札所32番一周コース」の案内はこの先の道を左に進み、山の裾野を行く道であるが、巡礼道はまっすぐの道を行くので注意。



県道209号線に出たところに日本武(やまとたける)神社がある。江戸時代には「大般若十六善神社」として、大般若経の十六善神(四天王と十二神将を合わせた十六名の神)を祀っていたため「十六様」の名で地元で親しまれている。
毎年3月には例大祭が執り行われ、この祭りに端を発して小鹿野歌舞伎の一年が始まるという。

県道をそのまま少し進むと、畦道の入口に石碑が二つ立っている。
一つは庚申塔。建立時期は定かではないが、右端に薄い掘りで「右ハ三十三番道」と刻まれている。
もう一つは大分荒れていて碑面が読めないが、天保10年(1839年)の石碑とのことである。

少し戻り細い道に入っていくのが巡礼道のルートとなる。
民家の庭の一角に弁財天の石碑が二つ並んでいた。左側のものには「辯才天」の文字の上に点が3つカタカナの「ツ」のように彫られているように見えるが、これが気のせいなのか意味を持つものなのかよくわからない。講中名も刻まれているが、うまい具合に掠れていて私には判読できなかった。

その先道は大きく右旋するが、線形に沿って直進していける道が残されていた。進んでみると、数十メートル進んだあたりで深い藪とフェンスに阻まれ、その先に進めなかった。すぐ脇は崖のようになっていて、かつての巡礼道はこのまま直進し、赤平川を渡っていたようである。
元の道に戻る途中に馬頭観音が草に埋もれているのを確認し、迂回路を行くことにした。
この石碑、ガイドマップでは馬頭観音とあるが、「二夜待」「三夜待」と刻まれているように見える。それぞれ二十二夜待・二十三夜待を表すのだろうか(二十三夜待を「三夜待」と称する例は発見したが、二夜待の方は定かではない)。
もしかすると馬頭観音を兼ねた月待塔なのかもしれない。


道は次第に細くなり、荒れた舗装路となる。これを抜けて県道43号に出る場所に「小鹿野大火回顧碑」と複数の石仏がある。
戦時中の昭和19年2月に発生した「小鹿野大火」により、小鹿野では238世帯と山林25haが消失したという。その教訓を活かして、消防団の非常訓練が今でも毎年2月に行われているのだそうだ。
赤平橋を渡った先の十字路が、失われた巡礼道との合流地点となる。これを右折ししばらく進むとすぐに県道に合流する。これを道なりに行くと、信号の近くに二十三夜堂が構えている。
お堂の中は、文政12年(1829年)の勢至塔が安置されている。

県道283号をひたすら真っすぐ行くと、砂利道に入っていく道がある。ここを進むと「大徳院」がある。その脇に川へ下る道(馬坂?)があるが通行止めとなっていた。本来はここから仮橋を使って川を渡っていたが現存しないので、迂回路である奈倉橋を渡る。
奈倉橋から赤平川を臨むと、山々が良い感じに色づいていた。
そのまま赤平川沿いの道を歩いていると「スランプ褶曲」という馴染みのない単語が書かれた看板が目についた。
今から2,500万年前、この辺りは秩父湾の縁に位置する場所であった。海底に蓄積していた固まる前の地層が、地すべりなどによって強い力が加わると、地層が捻じ曲げられ「スランプ褶曲」となる。「藤六のスランプ」はここから川へ下った場所で見れるらしい。

この辺りは地学的に価値のある地層が点在しているエリアなので、化石や地層が好きな人は一層楽しめそうなコースである。

2015/10/20

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の① 〜大日峠を越えて〜



秩父巡礼の旅も6日目となる。西武秩父駅7:35発の小鹿野線小鹿野車庫・栗尾行きバスで、終点の栗尾で下車。ちなみに終点で降りたのは私だけ。本日はここから34番寺まで一気に攻めたいと思う。

栗尾バス停前の馬頭観音と千手大士碑に今日の無事を祈願し、歩を進める。

石碑群の隣には十一面観音堂。中に十一面観音が祀られているのだろうが、確認することはできなかった。
十一面観音は病気治癒を祈願して祀られることが多く、往時から人気の高い観音であったそうだ。



畑の脇には「得大勢至尊」の石碑。得大勢至尊は勢至菩薩のこと。庚申講とならんで良く見られる「二十三夜講」では、陰暦二十三日に勢至菩薩を念ずる講である。この石碑は二十三夜待で利用されていたものなのだろうか。
こういったガイドマップにも載っていない石碑を発見するのも歩き旅ならではの楽しみである。

少し進むと右手に幾つもの石碑・石仏がまとめられている。勘定木橋石仏群のようだ。庚申塔・供養塔・地蔵などが並んでいる。国道の付替え工事の際に移設されたのだろうか。
少し進むと栗尾沢に「勘定木橋」が架かる。橋の袂には「埼玉の砂防発祥地」の石碑が置かれている。しかしときがわ町にも同様の発祥碑があり、砂防が築かれたのもほぼ同時期だという。
また少し進むと、新興住宅地の如く同じ姿の家屋がずらりと並んでいるエリアに遭遇した。町営の滝原団地である。鉱山か工場の従事者用住宅だろうか。
住人も現役を退いている人がほとんどだろう。子供が居なくなった公園の錆びた滑り台やブランコが某ゲームの世界のようで、それは恐ろしくもあり物悲しくもあった。

松坂、黒海土バイパス前の交差点を過ぎ、次の信号の手前に石仏群がある。寛政10年(1789年)建立の如意輪観音・馬頭観音などが立ち並ぶ。
この場所は明治初頭には飯田村に属していた和田の集落の入口のようだ(飯田村は明治22年に三田川村に、三田川村は昭和31年に小鹿野町に合併した)。

石仏群脇の道から国道を離れて小鹿野の中心街へ向かう。小鹿野は武州街道の宿場町として栄え、県内で二番目に町政が施行されたほど。
小鹿野の町中には至る所に歌舞伎のポスターや写真が掲げられている。小鹿野には二百数十年前に初代坂東彦五郎により江戸歌舞伎が伝えられ、明治期には常設舞台や興行巡業が最盛を迎えていたという。近年は町民総出で舞台を作り上げる活動が盛り上がっている。
小鹿野郵便局を過ぎた辺りで、県道をから細い路地へ入っていく。白山神社・大ケヤキの脇をすり抜けていく。道を間違えてしまったかと思えば、昭和年間建立の庚申塔が道案内してくれる。



さらにその先、下り坂になっている辺りに屋根付きの地蔵尊が鎮座している。安永4年(1775年)建立の地蔵で、台座には「右三十二ばん道」と刻まれている。
坂は赤平川へと下っていく。




金園橋から赤平川を臨む。11月中旬ということもあり木々の色づき始めが目に優しい。
丁度この場所は小判沢と赤平川が交わる地点である。小判が注ぐ地、つまり「金の園」にある橋であるから「金園橋」と命名されたという。


小判沢に沿って坂を登り、同名の「小判沢」集落に辿り着く。とある住居の一角に「こんせい宮」と書かれた額が掲げられた小さな鳥居があった。こんせい(金精)宮では、男根を模した自然石をご神体として祀っており、子孫繁栄を祈願している。
集落を抜けた辺りに大日峠へ向かう山道の入口がある。「熊出没」の文字がまぶしい。
道はしばらく小判沢沿いを進む。そんな中のボロボロの弁財天の碑。沢沿いの道ということもあって、足元は常時ぬかるんでおり、滑りやすい箇所も多くあった。
この辺りで32番寺から来た巡礼者とすれ違った。白装束を身に纏い、鈴付きの金剛杖を鳴らしながら向かってくる様は、迫力すら感じる。閑散とした山中で交わす短い挨拶は、なぜか安心するものだ。
山道に入って20分程で大日峠に到着。峠の名前の由来にもなった大日如来像が新旧揃い踏み。傍には大正8年(1919年)に設置された道標が立っている。
峠ではハイカー数人が小休憩を取っているところだった。峠から先はひたすら下りとなり、一気に麓まで降りていく。

10分程下ると集落の屋根がちらほら見え始める。石碑(おそらくお墓?)が山間の一角にまとめられており、この辺りまでが村民の日常的な活動範囲なのだろうと予想できる。
柿の久保の集落に出ると地蔵尊が出迎えてくれた。隣には道標も添えられており「順禮道」「左山道」と刻まれている。

そして三十二番寺はすぐそこに。