気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2023/12/31

薩摩街道・豊前街道 Day5 その②



高台に「河原林雄太少尉戦死の地」碑があった。乃木希典率いる官軍十四連隊は薩軍・村田三介の隊と植木で衝突。このとき薩軍は官軍・河原林将校を襲撃し、掲げていた連隊旗を奪っていった。軍旗を敵に奪われることは当時の軍人にとって非常に不名誉なことだったため、これ以来乃木は死をもって償う事も含めて生涯悩み続けたという。


少し進んでファッションホテルの入り口を越えた辺り、右手に放牛地蔵の矢印があった。塚の上に鎮座しているのが件の地蔵のようである。放牛地蔵の説明は以前も記載したが、ここにあるのは36体目のものであった。


野原産業の廃棄物処理施設前で国道3号線に合流する。しばらく国道に沿って進んでいくと「豊前街道旧道」の古びた標柱があるので、ちょっとだけ旧道へ入り、すぐに再び国道に合流する。


旧道から国道に復帰したあたりから「鹿子木」地区となる。鹿子木町交差点の手前に二里木跡の標柱があった。熊本城までだいぶ近づいてきた。


ひたすら国道を南下し、四方寄(よもぎ)集落へと差し掛かる。石塔が2つ並んでいるが、一つ目は庚申塔。青面金剛と童子が刻まれているとのことだが、風化していて全く判別できない。


となりに並ぶ六地蔵はなかなかのサイズ。戦国時代の作で、雲に乗った姿の地蔵尊が半肉彫りにされているそうだが、こちらも判別できなかった。


これらの石塔は御馬下の角小屋の前に置かれていた。角小屋は江戸後期に庄屋や質屋を営んでいた堀内家の住居として建てられた木造建築で、島津や細川など諸大名の参勤交代の休息所としても利用された施設である。肝心の建物の写真を撮り忘れてしまったので説明板のみ。


大窪2丁目交差点を直進し、国道から県道303号へと入っていく。馬々鋏(ばばさみ)バス停の辺りは道の両サイドが高くなっているが、これは加藤清正が整備した切通しの名残りと思われる。


徳王バス停の手前に「一里木跡」の標柱がある。かつてはこの辺りは「一里山」と呼ばれていたという。熊本城下まであと一里。


山伏塚前交差点を過ぎたところに、「山伏塚」と刻まれた石碑があった。この脇の階段の上に山伏塚そのものがあるようだったが今回はスルー。山伏塚は「やんぼしづか」と読む。熊本城が完成した際に他国の山伏に祈祷を依頼し、その山伏が帰路につく際、この付近で殺されたのだという。城の秘密を他国に知られることを防ぐため、当時の城造りではよくあることだったのだという。


道は緩やかに下っていき、旧池田村(現熊本市西区池田町あたり)を抜けていく。ここに再び放牛地蔵が鎮座していた。享保14年(1729年)建立で、54体目のもの。

2023/12/30

薩摩街道・豊前街道 Day5 その①



この旅最終日。昨日の街道離脱ポイントである鹿央総合支所まではバスで移動し、ここから歩きを始める。畑の合間の道を歩いていると「元木の豊前街道里数木跡」の説明板があった。熊本の札の辻から数えて五里木があった場所で、かつては道の両側に榎が植えられていたが昭和20年代に枯れてしまったという。


広町の集落を抜ける。江戸時代には酒屋や紺屋などの商店が立ち並んでいたという。集落を抜けると「乙貝坂」の案内板があった。かつての難所だったようで、鬱蒼としたきつい勾配を下っていく。


田んぼの合間の道を抜け、県道119号を横断するとこの辺りで熊本市に入る。しばらく進むと再び鬱蒼とした上り坂にさしかかる。ここに「三十六のお茶屋跡」と書かれた豊前街道の案内板があった。三十六というのはこの場所の地名だという。この先の旧道は「凹道(おうどう)」と呼ばれる切通しの坂道となっており、加藤清正が軍事的観点に基づいて築いたものだという。


旧道を登っていけばよかったのだが、荒れ気味だったので今回は舗装路を迂回した。現道と旧道が合流するところに三十六のお茶屋跡の説明板があった。江戸時代にはこの看板近くに茶屋があったのだという。


坂を下るとビニールハウスが広がる。傍らに「天然記念物 一本榎跡」の標柱が立っている。江戸時代にはこの辺りから木葉(玉名郡玉東町木葉)への往還が伸びていたようだ。


九州縦貫自動車道を越え、左手の側道へ進む。ここに「一里木跡」の標柱がある。ここには四里木があったようだ。ここの分岐は右側へ進む。


ビニールハウスと用水路の間の道を進んでいくと五差路に出るので、カーブミラーのある方に進む。岩場がくり抜かれたところに「放牛地蔵」と呼ばれる地蔵が安置されている。
放牛地蔵は放牛という僧が享保年間に作成した石仏群のことで、熊本市を中心にこれまで107体確認されている。ここにあるのは74体目のもの。


坂を登っていくと県道3号に合流する。これを横断したところに「内空閑(うちくが)城跡」の説明板がある。内空閑城跡はこの看板の先を右に入った山の中にある。内空閑氏は明徳元年(1390年)に伊賀国より下向したと伝わる。戦国末期には菊池氏の家臣として頭角を表したが、天正9年(1581年)に島津軍に攻撃され内空閑城は落城、天正16年(1588年)に内空閑氏は滅亡した。


旧道は県道を横切らず、本村・山ノ上集落の方に緩やかに登りながら入っていく。集落を抜けると再び緩やかに下っていき、平田橋で豊田川を越える。平尾山を迂回するように麓の道を進んでいくと、ちょっとした集落に突き当たる。ここ味取町は寛永9年(1632年)に設けられた在町で、茶屋や商家が軒を並べていた。元禄年間にこの先の味取新町と分かれた。
説明板に「来民往還」の分岐点とあるが、これは現在の国道3号線と県道198号線に沿って北上して現在の山鹿市鹿本町来民(くたみ)に至る道を指すのだろうか。来民は柿渋をうちわに塗って防虫効果を高めた「来民渋うちわ」の生産で有名な地域である。


旧道を抜けると国道3号線の「植木町一木」交差点に合流する。少し南下して道の駅「すいかの里 植木」で休憩する。植木は水はけの良い土壌や温暖な気候からすいかの名産地として知られている。「くまもん」と「ひごまる」にエールをもらって先を急ぐ。


交差点を少し南下して、ドラックストアの手前に豊前街道の案内板。かつてここに三里木があったそうで、一つ前の交差点名にもなっている地名の「一木(ひとつぎ)」はこれに由来していそう。


国道は緩やかに右カーブしているが、旧道は直進して県道30号へ進入する。少し進むと大正時代の円柱型道標が置かれている。「小野泉水之道」と刻まれているようで、ここから東に進んだ植木町小野にある「小野泉水」への道標となっているよう。小野小町が生まれた際に、この泉水を産湯に使ったと言い伝えられている。


さらに南下した辺りから味取新町宿だったエリアだと思われる。元禄8年(1695年)に先程通過した味取町から分かれ、参勤交代全盛期は100軒余りの旅籠が並んでいたという。植木郵便局の先の交差点は三池街道(高瀬街道)との追分となる。三池街道は天正15年(1587年)の秀吉九州平定以降、熊本城主加藤清正により軍事目的で整備された街道。三池(大牟田市三池)には街道整備と同時に陣屋が置かれていた。元文3年(1738年)からは陣屋近くの稲荷山で石炭の採掘が始まり、「三池炭鉱」で知られるようになる。


味取新町の宿場を越えたあたりに菅原神社の扁額。植木天満宮と呼ばれているようで、味取新町が成立したときにこの場所に樹齢千年を超える松の木があったため、松の木天神として祀ったことが起源だという。また、この場所は明治10年(1877年)2月22日、西南の役の官軍薩軍両軍の城北での緒戦の地となる。

2023/12/22

薩摩街道・豊前街道 Day4 その④



博物館の出口のところに石人のモニュメントがある。チブサン古墳の石人を4倍に拡大したものだという。石室内部にカラフルな幾何学模様があるのが特徴的で、古墳内部の見学を博物館で申し込みできるという(古墳は博物館から約1km離れている)。


坂を下っていくと道路改修記念碑がある。その脇の岩肌がいい感じに露出している。


そして坂を下りきったところに「鍋田横穴群」がある。古墳時代に作られた群集墓で、阿蘇山の噴火でできた溶岩を横に掘って墓としたものである。横穴は61基もあり、壁面に浮き彫りが装飾されているものもあるという。岩野川を鍋田橋で渡る。


国道443号に沿って田園風景の中を進み、吉田川を渡る。久留米で横切って以来久しぶりの国道3号を再び横切ると、豊前街道の案内がありわずかに旧道らしい線形が残っている。ここから山鹿の市街地へと入っていく。


道は川から離れるにつれて緩やかな上り坂となっている。ある程度高度が上がると、足元の舗装の色が黄土色がかった色味に変わる。道筋を観光地化する際によく取られる手法だが、ここ山鹿でも街道と温泉地一帯を観光資源として頑張って整備している様子が窺える。


八千代座通りを進んでいく。豊前街道の説明板が掲げられた木製の灯籠がある。その隣にある休憩所も公衆電話などありレトロ感を醸し出している。


山鹿温泉は保元2年(1157年)、宇野親治が傷を負った鹿が傷を癒やしている姿を見て温泉を発見したと伝わる。湯量豊富な温泉であったが、文明5年(1473年)に謎の枯渇が起き、その際に金剛乗寺の宥明法印が薬師堂を建立して祈祷を行ったところ、お湯が復活したという。


そんな山鹿復活伝説の金剛乗寺は、天長年間(824〜834年)に空海によって開山したと伝わり、山鹿で最も古い寺院として現在でも残る。その山門は文化元年(1804年)に作成された石製のものである。


金剛乗寺の宥明法印が遷化した際、紙細工の名人であった山口兵衛によって数百の紙灯籠が作られ霊前に供えた。これが山鹿灯籠の始まりとされ、山鹿のシンボルとなっている。街中の至るところには灯籠を模したオブジェやデザインが溢れている。


山鹿灯籠の歴史は「山鹿灯籠民芸館」で体感することができる。建物は大正14年(1925年)に安田銀行山鹿支店として建てられたもので、国指定登録有形文化財にも指定されている。


細川家の九曜紋の提灯がぶら下がる「山鹿温泉さくら湯」。起源は古く、寛永17年(1640年)に肥後細川藩の「山鹿御茶屋」が新築されたことにはじまる。殿様と重臣用の「御前湯」、家臣用「御次湯」、庶民用の「外湯」が設けられていた。明治初期に細川藩から山鹿市へ払い下げられ、「山鹿温泉大改築」により、市民温泉として利用されるようになった。明治31年(1898年)の道後温泉棟梁・坂本又八郎による改修では、象徴的な唐破風玄関が設けられた。昭和48年(1973年)に取り壊されたものの、平成24年(2012年)に現在の姿に生まれ変わった。


広町交差点の次の丁字路、大きな榎の脇には山鹿町道路元標があった。榎は「湯の端のエノキ」として市指定天然記念物に指定されており樹齢400年程だという(道路元標の後ろに榎についての説明が倒れている)。ここにかつて高札場が置かれていたという。


山鹿の町並みを南下していくと「火除け地蔵尊」がある。かつては像成寺という真言律宗の寺の惣門があった場所で、地蔵が置かれていたため「地蔵口」と呼ばれていた。築城年は不明だが、寺域はいつしか山鹿城(上市城)となり、肥後国人一揆により天正15もしくは16年(1587もしくは88年)に廃城となるまで続いた。


更に南下し、左手奥に光専寺の立派な楼門が見えてくる。この楼門は熊本城を築城する際に余った木材を利用したと言われている。明治10年(1877年)の西南戦争では、薩軍の野戦病院としても利用された経緯がある。


豊前街道沿いは山鹿市の景観形成重点地区に指定されており、建築物は江戸末期〜大正時代の建築様式を参考にしたデザインを採用し、隣接する建築物の壁面とできるだけ統一した意匠とするよう求められている。


明治29年(1896年)創業の千代の園酒造。江戸時代には米問屋を営み、玉名の高瀬蔵を経由して大阪の市場へ運んでいたという。明治時代に入ってから米を利用して日本酒造りを始め、近年では熊本県オリジナルの酒米品種「華錦」(はなにしき)を原料としたものや、明治から昭和の初めまで西日本一帯で作られていた「神力」(しんりき)を復活させた日本酒を醸造している。


菊池川に突き当たるところに惣門が設けられている。手前の公衆トイレのある辺りにあったものを平成22年(2010年)に菊池川沿いに移設した。江戸時代、惣門は町の入口としての役割を果たしており、今でも惣門付近のエリアは「惣門地区」と呼ばれている。


本日は山鹿に宿泊する予定だが、まだ時間が早いので少し先まで進んでしまおう。菊池川を昭和28年(1953年)架橋の山鹿大橋で渡る。


惣門からの延長線上に延びる道へと入る。本当に旧道で合っているのか不安になるが、六里木跡の碑があったので一安心。


国道3号を横切る。用水路の脇には群境石がある。「是ヨリ北 山鹿郡」と刻まれたもので、天保8年(1837年)建立のもの。ここが山鹿郡と玉名郡の境界だった。


うらやま坂の案内板があった。地元に残る「長者どんの宝くらべ」という民話が由来となって命名されているという。

駄の原長者と米原長者が日本一を決めるために宝くらべをすることになった。この坂のふもとに米原長者が金銀財宝の宝の山を持ってきたのに対して、駄の原長者は12人の子供を連れてきた。米原長者は子供がおらず、駄の原長者の勝ちとなった。この逸話から「うらやましい坂」が転じて「うらやま坂」と呼ばれるようになったという。

うらやま坂を越えてちょっとした未舗装路を抜ける。その先畑の中の旧道は部分的に不明瞭になっている。畑区間を抜けて少し丘のようになっている箇所に「比丘尼坂」の案内板があった。老婆なのか尼なのかが近くに住んでいたのだろうか。


鹿央総合支所まで進んだところで本日の歩きは終了。バスで山鹿に戻る。夕焼けに染まる温泉街の雰囲気が素敵だった。

2023/12/21

薩摩街道・豊前街道 Day4 その③



豊前街道永ノ原の案内碑がある。永ノ原台地は西南戦争の激戦地と知られる。


「西南の役薩軍の墓」と記された木の案内板があった。矢印の指す方を見ても、それっぽいものが見当たらなかった。なんでも矢印の先の森の中に通称「賊軍の墓」と呼ばれる薩軍墓地があるとのこと。官軍との扱いが違いすぎる。


少し進んだところに「西南の役古戦場跡」と「豊前街道 ハゼ並木」の案内板がある。西南の最大の戦闘が行われたのは「田原坂」であることは有名だが、ここ永ノ原はそれと並ぶ激戦が行われた地だという。

ハゼ並木については、蝋の需要を賄うため細川氏によってハゼを植えさせたということであった。ハゼは熊本の特産品として藩の財政を潤した。

ちなみにこの辺りで、かなり至近距離から何度も猟銃の音がしていて、自分が猪か何かに間違えられやしないかとビクビクしながら歩みを進めていた。


おもむろに突き刺さった標石は「玉名山鹿郡境碑」。「従是西北玉名郡」と刻まれているという。ここから山鹿市に入っていく。


梅迫の集落に入っていく。ここに西南の役(山鹿口の戦い)の説明板があった。ここ山鹿口では明治10年(1877年)2月26日から3月21日の24日間にわたって薩軍官軍両軍の激しい攻防があった。


集落を抜けて林に入って下っていくが、この坂は「車坂」と呼ばれる。坂の途中に「西南の役政府軍の台場跡」の標柱がある。官軍はこの辺りの斜面を利用して砲台を設置し、薩軍に向けて猛射したという。


坂を下りきったところにも「史跡西南の役鍋田戦跡(車坂)」の標柱。明治10年(1877年)3月3日に車坂で衝突した官軍と薩軍は、一時間の戦闘の末、官軍が長野原(永ノ原)まで後退することとなった。さらに腹切坂まで官軍を追いやり、薩軍は街道の北に位置する板楠まで進駐。翌日4日にいざ南関を目指して進んでいこうとしたときに、田原坂で薩軍が大敗したという一報が入る。これを聞いた薩軍本隊は、孤立を避けるため山鹿まで戻ることにした。しかし、この田原坂大敗は誤報だったというのである。

3月12日、今度は兵力を増強した官軍が山鹿を目指して進軍。鍋田東まで進んだものの、薩軍の猛反撃などにより、この日は街道の北に位置する平山まで戻って次の進軍に備えることにした。

3月15日、鍋田の西に本隊を構える官軍が、鍋田東に陣を張る薩軍に総攻撃を仕掛ける。この日の戦闘は一進一退でどちらも譲らず、両軍の被害だけでなく砲弾で地面や木々がえぐれたり、周囲の民家が燃えたりする事態となった。

3月20日、田原坂が官軍により制圧されたのを期に、薩軍が隈府に向けて撤退。官軍が山鹿に入ったことで山鹿口の戦いに終止符が打たれることとなった。


国道443号を横切り、ちょっとし山道を抜けると田園沿いの道を進むことになる。ここに「七里木跡」の碑があった。徐々に熊本城に近づいているのがわかる。


追分道標があり「右國道兼松道」「左南関道」と刻まれている。南関道はこれまで辿ってきた豊前街道であるが、国道兼松道は現在の八女市立花町兼松へ向かう国道3号線を指すのだろうか。追分石の裏手には西南の役戦没者慰霊碑が設けられている。


追分のすぐ隣が山鹿市立博物館になっている。敷地の一部は屋外から散策できるようになっていて、ここに水路橋が移設展示されている。これは慶応元年(1865年)頃、吉田川に架橋された橋で、上益城郡山都町にある通潤橋(つうじゅんきょう・国指定重要文化財)に次いで全国2位の規模の水路橋だったという。昭和28年(1953年)に吉田川河川改修工事によって撤去。その後、昭和59年(1984年)に山鹿市立博物館に復元移設された。


博物館の入り口付近には石碑もいくつか置かれていた。右手の「方保田の板碑」は元享元年(1321年)の銘があり、阿弥陀如来と不動明王の種字が刻まれている。元々方保田八幡宮にあったものが、専立寺へと移設され、その後博物館に渡った。左手の石碑は「中村の庚申塔」。

気温も高く疲労も溜まってきたので、博物館内で少し涼ませてもらった。


街道に戻る途中に、山鹿口の戦いの錦絵が展示されていた。


山鹿市小坂にある柳井寺跡で出土した五輪塔が並べられていた。「柳井寺」は、天台宗の寺院で、平安時代後期から室町時代頃まで栄えていたが、現在は廃寺になっていて近い場所に「野辺田観音堂」が建立されている。