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2014/06/13

牛田と関屋は近くて遠い -東武と京成の殴り合い-


墨田区を根城とする私にとって、東武伊勢崎線(とうきょうスカイツリーライン)は主要な交通手段の一つである。
とはいえ、伊勢崎線のみを利用して移動するとなると、目的地は北千住くらいに限られてしまう。そんなとき地味に役に立つのが、北千住の一つ手前「牛田駅」である。
牛田駅に何かランドマークがあるという訳ではない。強いて言うなら「京成関屋駅」というランドマークがあるくらいである。そしてこの関屋駅と牛田駅が徒歩1分で乗り換え可能という好立地に位置しているのである。
京成本線を利用すれば、西に向かえば日暮里・上野の山の手東サイドに出れるし、東の市川・船橋といった千葉の主要エリアに向かう際にも便利である。

先日、牛田駅を利用した際に関屋駅との乗り換えが快適すぎて、ふと疑問に思ったのである。なぜこんなにも近接した場所に2つの駅が設置されたのだろうかと。そして、何故異なる駅名を冠しているのかと。

どうやらかつての東武vs京成の鉄道操業権をめぐった争いの名残のようだ。

東京・私鉄ブームの先駆け

1897年(明治30年)に創業した東武鉄道の最初の路線として、東武伊勢崎線は1899年(明治32年)に北千住−久喜間を開業した。創業時の路線計画では、東京市本所区から下千住(現:北千住)を経由し栃木県足利市までを結ぶ区間を想定していた。
もちろん全路線を一気に敷設という訳にはいかないので、徐々に路線を拡大していくこととなる。
1902年(明治35年)には、吾妻橋(現とうきょうスカイツリー駅)−北千住間が開通し、当初予定していた本所を起点とした路線が実現した。

一方その頃、成田山新勝寺への参拝客の鉄道輸送化を目指し、東京市本所区押上から千葉県印旛郡成田町までの区間を計画した京成電気軌道株式会社が1909年(明治42年)に設立された。1912年(明治45年)には押上−市川(現江戸川駅付近)と曲金(現高砂)−柴又間を開業した。

それぞれ本所を起点に東武鉄道は日光方面を、京成電気軌道は成田方面を、参拝客輸送を柱に延伸していく。


上図は1919年「東京首部 二万五千分之一地形図 東京近傍7号」から現牛田駅・京成関屋駅付近を臨んだものである。現在伊勢崎線は、北千住−牛田−堀切−鐘ヶ淵−…と駅が設置されているが、当時は牛田駅・堀切駅は存在しなかった。そしてこの地に京成の手は及んでいなかった。

浅草をめぐる攻防

東武鉄道の東京側ターミナル駅は、1910年に駅名を業平橋から改称し、浅草駅となった。浅草駅とは言うものの、浅草の中心地である雷門は隅田川を挟んで対岸に位置し、距離も多くあった。東京の中心部への乗り入れを果たしたい東武鉄道は、どうにか浅草の中心地、あわよくば上野まで延伸しようと計画を立て、路線計画を申請していた。
1924年(大正13年)には、浅草雷門駅(現浅草駅)までの路線延伸の認可が降り、隅田川を越える路線敷設に着工した。ところが工事の進捗は順調とは言えなかった。やはり隅田川という大物を越えるとなると一筋縄ではいかない。さらに浅草雷門駅の設計に変更があり、工期は長期化していくこととなる。

一方その頃、京成電気鉄道は焦っていた。
京成の東京側ターミナルは、当時の浅草駅からほど近い押上駅であった。とはいえ、都心へは市電乗り換えが必須という不便さ故、京成もまた浅草・上野方面への延伸を申請していた。
6度目の出願の際に発覚したのは、京成の出願を有利に進めるために、16万円(現在価値で約3,000万円)が東京市議会や衆議院などに渡っていたということであった。
1928年(昭和3年)、この「京成電車疑獄事件」の発覚により、社会的批判を受けた京成は浅草への乗り入れを断念することとなった。

都心乗り入れにはまだまだドラマが

京成が事件を起すのと時を同じくして、1928年(昭和3年)、「筑波高速度電気鉄道」が日暮里から流山を経由し筑波山まで至る免許を取得した。実はこの会社、免許を取得したものの実際に施行する予算を持ち合わせておらず、免許の売却により利益を得ることを目的としたものであった。
どの会社に売却を持ちかけようかと考えたとき、すぐさま東武・京成の名が浮上し、実際に話が持ちかけられた。しかし、東武はこの話をあまり旨味がないとし、保留状態にした。一方、京成にとって都心進出の足がけにもってこいの話であるが、当時京成が所持していた路線との兼ね合いが問題になった。


上図は1931年(昭和6年)発行の「最新番地入東京郊外地圖」より、上野・日暮里と路線の位置関係がわかる部分を臨んだものである。東武・京成は赤線で示され、浅草駅から伸びる東武と押上駅から伸びる京成が、隅田川東岸で凌ぎを削りあっている様が見て取れる。
京成の都心延伸の基点の一つである押上からの延伸は、先の事件によって実現が難しくなっている。二つ目の基点が1928年(昭和3年)に向島から分岐した白鬚線である。向島から白鬚に伸びる路線をそのまま北西にのばしていくと、新たな赤線の軌道に接続されるのがわかる。三輪を起点としたこの路線は「王子電気軌道」である。

先の事件により浅草ルートを断たれた京成は、王子電気軌道との直通により都心乗り入れを果たそうとしていたのである。しかし、白鬚まで支線を伸ばしたものの、接続したところで実質的な都心には直接乗り入れ出来ないため、計画の是非が問われていた。

筑波高速度電気鉄道は、路線の利便性を考慮し、最終的に停車駅を、上野−動物園前−日暮里−三河島−千住−西新井−八幡−…と変更し、最終決定とした。何とかこの路線を手に入れたい京成であったが、現行の京成の路線から離れているのが気にかかった。
そこで京成は、立石−高砂間に新駅を設け、この新駅と千住間を支線とするルートを考案。この支線の建設を条件に、京成は筑波高速度電気鉄道を吸収合併を打診し、実現することとなった。

都心乗り入れのため、まず日暮里と新駅である青砥駅を結ぶ路線の開通を急ピッチで進めていった。ほとんどの工事は筑波高速度電気鉄道名義で行われ、新線開通の1年前、1930年(昭和5年)に京成が吸収合併を果たした。

東武が免許権の取得にあまり積極的に動かなかったのは、当時の私鉄のパワーバランス的に合併先は東武以外にないだろうと考えていたためと言われている。後々筑波高速度電気鉄道を買収する画策だった東武は、京成の合併にひどく激昂したようだ。

東武鉄道は1931年(昭和6年)5月25日に、業平橋−浅草雷門間を開通させる。
しかし、遅れることわずか半年足らず、京成は同年12月19日に青砥−日暮里間を開通させるのである。このとき設置された駅の一つが「関屋駅」である。

左図は1934年(昭和9年)発行「新興大東京市制全圖」。京成関屋駅が東武伊勢崎線の堀切−中千住間のなんとも丁度いい位置に座している。堀切・中千住駅にプレッシャーを効かせる絶好の位置である。
千住町大字関屋町と大字曙町の中間の位置にあることと、かつてこの地が「関屋の里」として知られる景勝地であったことが駅名の由来とされる。


そして左図は1939年(昭和14年)発行「大東京新地圖索引式ハンディ版」からほぼ同じ場所を見たものである。
関屋駅の設置の翌年9月1日、東武伊勢崎線「牛田駅」が開業した。
かつて江戸期に牛田村があった地であり、その名残が千住町字牛田として残されていたところを駅名に採用したのであろう。
これまた関屋へのプレッシャーが尋常でない。名称をあえて異なるものにしたのも、明確な差別化とライバル心に由来するといってもいいだろう。

時代の流れとともに私鉄競争も冷えてきた。東武・京成もJRには敵わない。同じエリアを走る私鉄同士、協調姿勢を採らなくてはやっていけなくなってきた。
私鉄バトルの象徴であった牛田・京成関屋も相互連絡運輸を行っている。
ではいっそのこと、駅名を統一してしまうのはどうか。
平成23年に足立区が実施したパブリックコメントでも、「京成関屋・牛田駅の一本化」が要望として寄せられていた。しかし、対する区の回答は「現状では困難な状況」とのこと。
参考:足立区総合交通計画(案)パブリックコメント実施状況および意見に対する区の考え方について(PDF)

時代は流れたとはいえ、根底にある憎しみにも近いライバル心はなかなか拭えないのだろうか。二つの駅は手を差し伸べ合いながらも、横目で睨みを効かせあっている。