気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2018/06/24

【歩き旅】大山街道 Day8 その③ 〜さよなら大山〜



大山街道を制覇した余韻もさながら、この山を下らなければお家に帰れない。
下りは雷ノ峰尾根から見晴台を経由して阿夫利神社下社へ戻り、さらに女坂を使って大山ケーブル駅に戻るルートを採用した。

不動尻分岐の先から雷ノ峰尾根をその名の通りジグザグに降りていくと見晴台に到達する。靄がかかって景色があまり良くなかったのでスルー。


見晴台を越えてしばらくすると巨大な杉があった。元々、大山祇神を祀った山の神神社の御神木と他の木が下部で結合しているもので、「絆の木」と呼ばれているという。


橋を渡りながら進むと、その先には二重滝。水量は少ないが、かつてはこの滝も禊で利用されていた滝で、雨乞いの滝とも呼ばれている。


二重滝の隣には二重社がある。ここでは高龗神が祀られている。高龗神は八大龍王という名でも知られており、龍族の王とされる。そのため狛犬の代わりに龍が置かれている。


二重橋から10分ほどで下社へ戻ってくる。ここからは女坂をたどって麓を目指す。
女坂は道中に七不思議という見どころがあり、 坂下からその1〜7までの説明板が設置されている。
こちらは七不思議の一つ「眼形石」。目の形をしたこの石に触れれば目が治ると言われているようだが、どうやって見れば目に見えるのかがイマイチ掴めなかった。また、石像横の石にはなにやら文字が刻まれているようであるが、こちらも解読不明であった。


こちらは七不思議の一つ「潮音洞」。この小さな洞窟に耳を近づけると潮騒の音が聞こえるという。


朱塗りの無明橋を渡る。こちらも七不思議に指定されており、話をしながら渡ると下に落ちたり忘れ物や落とし物をしたり悪いことが起こるという。かつては危険な橋で、慎重に渡ってほしいとの思いが伝承となって伝えられたのだろうか。


大山寺へ到着。廃仏毀釈に伴い、現在の下社に当たる場所にあった不動堂が廃止、明治18年(1885年)に現在地に再建された。大正4年(1915年)までは明王院という名前であった。本尊の不動明王像は文永11年(1264年)鋳造のもので国の重要文化財に指定されている。
現在ではもみじ寺や関東三十六不動尊霊場の第一番として知られる古刹である。今回は利用しなかったがケーブルカー「大山寺駅」が目の前にあるので、足腰の悪い人や登山をしたくない人でも容易に訪れることができるようになっている。


紅葉と灯籠と童子像が並ぶ石段は、大山寺のフォトスポットとしてよく取り上げられている。この季節は青モミジであったが、それでも風情のある景観であった。


七不思議の一つ、逆さ菩提樹。上が太く下が細いように見えることからそう呼ばれたのだろという。あんまりピンとこないのはこの木が二代目だからだろうか。


この爪切り地蔵も七不思議の一つ。弘法大師が爪で石を彫り、一夜のうちに作り上げたのだという。その伝説を抜きにしても、岩を削って作った仏像作品として価値あるものである。


こちらも七不思議の一つ、子育て地蔵。普通の地蔵として祀っていた石像の顔がいつのまにか童に変わっていたことから、子育て祈願に利用されるようになったのだという。


坂の終わりに近づいた頃に最後の七不思議、弘法の水がある。弘法大使が岩に杖をついた箇所からこんこんと水が湧き出てきたという伝説に基づく。水量が変わらず常に湧き出ていることが売りなのだという。


女坂を下りきり追分へ戻り再びこま参道へ。遅めのお昼ご飯は参道にあるお店の山菜そばとなった。

今回初めて大山を訪問したが、このブログを執筆している時点で実はこのあと2回も訪れている。さよなら大山、次もまたよろしく。

2018/06/21

【歩き旅】大山街道 Day8 その② 〜大山攻略〜



下社から上社のある大山山頂へは登拝門を潜って石段を登っていく。明治初年の神仏分離までは、大山では夏の山開き(7月27日〜8月17日)の時期のみ登拝が許されており、それ以外は門が閉ざされていた。
門の鍵は古くから東京日本橋のお花講が管理しており、今でも7月27日の山開きにはお花講が扉を開ける慣習が残っている。とはいえ現在では通年に渡り登山が可能であり、登拝門は常に開いている。そこで、失われてしまったこの門の意義を尊重する形で、片側を閉ざした「片開き」の状態で門を設置している。現在の門は平成24年(2012年)に再建されたものである。


登拝門の先には「本坂」と呼ばれる急な石段からなる坂が続く。手すりを頼りに登っていくと、少々開けた場所に「阿夫利大神」と刻まれた石碑が建っている。
この場所は白山神社があった場所で、加賀白山神社を勧請したものと考えられるが、大山寺開山以前からあったという。修験僧の修行の一つとして、白山神社を拝するという過程があったという。


六丁目から「千本杉」と呼ばれる杉に囲まれた山道をゆく。昭和20年代の造林によって作られたものだろうか。八丁目付近には「夫婦杉」と呼ばれる樹齢600年以上の巨木がある。


十四丁目付近からは、足元に「ぼたん岩」を見ることができる。球状の岩がシワのように重なって、牡丹の花のように見えることからそのように呼ばれる。タマネギ石とも呼ばれるこの現象は、岩石の風化による現象だという(参考:平塚市博物館|東丹沢のタマネギ石)。


十五丁目付近にあるのが「天狗の鼻突き岩」。写真ではわかりにくいが、岩の左上あたりいに拳大の深い穴が空いている。


十六丁目は蓑毛方面へ下る道との分岐点があり、石碑が建てられている。1716年(享保元年)に新吉原町中によって建てられたもので、高さは3m60cmある。
石碑の正面には「奉獻 石尊大権現 大天狗 小天狗 御寳寺」と刻まれている。廃仏毀釈以前には、大山の山頂付近に石尊社が設置され、不動明王を石尊権現として祀っていた。さらに奥宮には大天狗、前社には小天狗が祀られており、山岳信仰や修験道の色が強かったことが伺える。


さらに登っていくと周りの植生が少し変わってきた。太い幹の木は少なくなり、空が開けてきている。この頃には大学生のグループに颯爽と抜かれていくくらいの体力だった。


二十五丁目まで登ってきた。ここはヤビツ峠から来るルートとの合流ポイントとなる。ヤビツ峠は丹沢ハイキングの起点にもなる主要地点で、最近ではサイクリングやツーリングで訪れる人も多い。


二十七丁目で銅の鳥居を潜る。明治34年(1901年)に東京・銅器職講によって奉納された。


二十八丁目には石鳥居。寛政10年(1798年)に江戸町火消「れ組」の御供物講が奉納し、明治21年(1888年)に三度目の再建を行ったものである。その奥に見えるのが前社で高龗神(たかおかみのかみ)が祀られている。そろそろフィナーレの予感がしてきた。


阿夫利神社上社に到着。上社には大山祇大神が祀られている。ここでは様々なルートから集結したハイカー達が一同に集結しており、本社横の食事処で休憩している人も多かった。


さらに登れば奥の院。ここには大雷神(おおいかづちのかみ)が祀られている。


というわけで大山山頂(標高1252m)に到着。これにて大山街道青山通りを無事踏破となった。


大山山頂からの風景。天気は良かったが少々もやがかかっていたので、遠くまで見晴らすのは難しかった。
それでも江戸時代に多くの町人が歩いたであろうルートとほぼ同じ道筋をたどり、往時の人々がどのような気持ちで大山を登り、そしてこの風景をどんな気持ちで眺めていたのかと考えると感慨深いものがある。
気軽に訪れることができる霊峰であるからこそ、一度ならず何度も登拝した信心深い講中もあったであろう。多くの人々の拠り所としての、大山の存在を五感で確かめた旅であった。



だが、下りもある。

2018/06/16

【歩き旅】大山街道 Day8 その① ~大山てくてく~



ついに最終日。本日は大山山頂を目指して街道歩きというよりは登山に挑戦する形となった。せっかくの登山日和ということもあり、今回は友人を道連れにして頂を目指す。

小田急伊勢原駅から大山ケーブル駅行きのバスに乗り20分ほどで終点の大山ケーブル駅に到着。バス停からすぐに「こま参道」の階段が延びる。もともとは左手にあったもみじ坂が参道だったが、関東大震災の被害により付け替えられた。


途中「茶湯寺」への分岐がある。前回のエントリーで複数の寺院が合併してできたと紹介した寺だが、今回は立ち寄らず。


参道には豆腐料理屋、食事処、土産物屋などが立ち並んでいる。大山は関東近郊では初心者向けの登山コースとして名高く、この先も小さい子供の姿を何度か見かけた。


「左 阿夫利神社 不動尊 道」と刻まれた道標がある場所を右に行くとケーブルカー乗り場となる。もちろん左へ進む。


階段をのぼると八意思兼(やごころおもいかね)神社がある。ここから阿夫利神社下社の手前までは男坂・女坂の2つのルートがあることから追分社とも呼ばれる。
八意思兼命は知恵を司る神。天岩戸伝説においては、岩戸の外で宴会をしていればきっと天照大神は気になって出てくるだろうという巧妙な心理作戦を八百万の神に提案した神でもある。
今回は行きを男坂、帰りを女坂を使用して行こうと思うが、おそらく女坂から登ったほうが緩やかな道のりで足への負担は少ないはず。


追分社の脇の急な石段から男坂が全力で圧倒してくる。一段一段が大きいので、つづらの折返しごとに息を整えながら登っていく。


登山は周りの景色が急に変わることはほとんどない。そんな変わり映えがしない景色に変化を与えてくれる要素の一つが「町目石」だ。登山の最初の方は今何町目かをカウントしつつ着実に登っていることを実感するのだが、段々と数えるのが億劫になってしまう。そしてそもそも何町目が頂上なのかを忘れてしまって、いつしか町目石は景色の一部に溶け込んでしまうのである。


変わり映えしない石段を眺めつつ登っていると、真新しい看板が目に刺激を与えてくれた。「男坂三十三祠」の「弁」だという。かつて男坂には三十三の祠があったという。おそらくここには弁天社が祀られていたのだろうか。看板の後ろの岩がくぼんでいて祠のように見えなくもないが、如何せん詳細が不明であった。


しばらく行くと「愛」があった。ナンバリングは6から16へと飛んだ。愛宕社があったのだろうか。


広場のような場所に出てきた。ここは八大坊上屋敷跡で、阿夫利神社(石尊社)、大山寺の別当として大山の運営を行っていた。徳川家康主導のもと慶長10年(1605年)から大山の改革が始まり、大山一帯は八大坊を中心とした寺社組織となり、明治維新の神仏分離まで続いた。
江戸時代末期には八大坊の下に供僧11坊、脇坊6坊、承仕(候人)4坊、修験8坊、神家8坊(師職兼帯)、師職(御師、後の先導師)166軒があり、かなりの規模だったことがわかる。


すぐ近くに菊水紋が眩しい万国忠霊塔がある。世界のすべての国のその国のために忠節を尽くした勇士の霊を慰めるための塔とのこと。


階段を数段登れば「従是女坂道」の道標。ここで女坂と合流する。


そしてそこから数十段登れば大山阿夫利神社下社へ到着。天下泰平・国土安穏と書かれた銅鳥居をくぐる。


鳥居を潜って左手には「日本三大獅子山 大山獅子」のモニュメントが。かつて境内にあった獅子山が明治期の災害や関東大震災の山津波などにより流出しまっていた。平成24年(2012年)に皇太子殿下が大山登山されたことを記念して、これを復元したものである。


大山阿夫利神社下社の拝殿へ参拝。標高700mに位置する下社は、阿夫利神社の主たる社。明治初年の神仏分離によって、大山寺不動堂が廃止され、その寺地に阿夫利神社下社が置かれた。拝殿は関東大震災の被害を受けた際にも僅かな改修で乗り切っていたが、昭和52年(1977年)に再建が行われ現在に至る。
ケーブルカーでもここまでは簡単に来ることができるので、身軽な参拝者も多い。


拝殿の脇から下社地下巡拝道へ入ることができる。大山名水が汲めるのでここで喉を潤すことができる。その奥には6mを超える巨大な納太刀も展示されている。これを江戸から担いできたと考えると、その信心深さと体力が想像できない。


下社からの眺望は2015年のミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで二つ星を獲得している。薄っすらと見える相模湾や、夜景の美しさが評価されたという。大山自体も一つ星に認定されている。

ここから先、阿夫利神社上社を目指す。