名所江戸百景 考察
名所江戸百景の個別の作品についてまとめ始めたら、そもそも「名所江戸百景」がどういう作品なのか、その全体像をあまり把握していないことに気づいた。
これではマズいということで、改めて名所江戸百景どのような作品なのかについて調べてみた。
※(追記)読み返してみたら「考察」成分がほとんどなかった・・・。
「名所江戸百景」は歌川広重によって制作された連作浮世絵名所絵である。
と、某Web百科事典にはあった。
大体のことはそちらを参照して頂ければ十分なので、ここではその補足的な内容を添えて記述しようと思う。
歌川広重と言えば、言わずと知れた江戸時代を代表する浮世絵画家である。
彼の代表作と言えば、これまた言わずと知れた「東海道五十三次」であり、この作品を期に彼の名は日本中に広まることとなった。
そんな広重の晩年の作が「名所江戸百景」である。
名所江戸百景は、安政3年(1856年)から安政5年(1858年)にかけて制作された作品で、118枚の絵から成る。あれ?100景じゃないの?
(119枚目の絵として「赤坂桐畑雨中夕けい」が存在するが、二代広重の落款が押されており、シリーズには含めないのが通例となっている。)
118景の作品は、春夏秋冬4つの季節毎に分けられており、春には梅が、冬には雪が、江戸の風景に季節感を添えている。
しかし、晩年の策であるが故、すべての作品を生前に書ききることが出来ず、一部の作品は二代広重(歌川重宣)の手が加えられている。改印が安政6年4月となっている、
12.「上野山した」
41.「市ヶ谷八幡」
115.「びくにはし雪中」
がそれにあたるとされている(広重は安政5年9月に死去)。
広重の死後、1870年頃からは、フランスを中心に「ジャポニスム」と呼ばれる日本を趣味とする風潮がヨーロッパで広まり始めた。
とりわけ広重の作品は、日本の浮世絵を代表する作品として認知されており、多くの画家が名所江戸百景に興味を持っていたようである。
有名どころでは、ポスト印象派のフィンセント・ファン・ゴッホが、「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。
わざわざ半透明の紙に油絵でトレースする熱の入れようで、その後のゴッホ作品における「輪郭を強調する」作風に強い影響を与えたとされる。
わずか3年弱に100余枚という速いペースで版画を出版していくことがどれだけ大変か計り知れない。
その背景には、町民の絶大なる支持があったことには間違いない。
その一つの理由として、この作品が安政2年(1855年)に起こった安政の大地震(安政江戸地震)からの復興の意味を持っているということが挙げられる。
この地震では、江戸だけで死傷者1万人以上という大きな被害を受けた。
多くの建物が倒壊し、その中にはこれまで江戸で名所とされていた場所も含まれていただろう。
その大地震の翌年、まだ再建が終わっていない土地も多く残っていたと考えられる。
そのため、これまでの名所絵にはほとんど登場しなかったような場所が、新たな江戸の名所として取り上げられているのがこの作品の特徴でもある。
実際、これまで名所として登場することの無かった場所が50点近くあるとされている。
また、再建が終わった直後の様子を切り取った作品も散見される。
このように、広重はシリーズを通して、これからの江戸の復興の想いを絵に込めたのであろう。
そう考えると、広重の驚異の出版ペースも納得できる。
まだ絵が描けるうちに江戸と江戸町民に活気を与えよう、そう躍起になっていた熱意の現れこの作品を特別な作品へと仕立て上げているのではないだろうか。
これではマズいということで、改めて名所江戸百景どのような作品なのかについて調べてみた。
※(追記)読み返してみたら「考察」成分がほとんどなかった・・・。
「名所江戸百景」は歌川広重によって制作された連作浮世絵名所絵である。
と、某Web百科事典にはあった。
大体のことはそちらを参照して頂ければ十分なので、ここではその補足的な内容を添えて記述しようと思う。
歌川広重と言えば、言わずと知れた江戸時代を代表する浮世絵画家である。
彼の代表作と言えば、これまた言わずと知れた「東海道五十三次」であり、この作品を期に彼の名は日本中に広まることとなった。
そんな広重の晩年の作が「名所江戸百景」である。
名所江戸百景は、安政3年(1856年)から安政5年(1858年)にかけて制作された作品で、118枚の絵から成る。あれ?100景じゃないの?
(119枚目の絵として「赤坂桐畑雨中夕けい」が存在するが、二代広重の落款が押されており、シリーズには含めないのが通例となっている。)
118景の作品は、春夏秋冬4つの季節毎に分けられており、春には梅が、冬には雪が、江戸の風景に季節感を添えている。
しかし、晩年の策であるが故、すべての作品を生前に書ききることが出来ず、一部の作品は二代広重(歌川重宣)の手が加えられている。改印が安政6年4月となっている、
12.「上野山した」
41.「市ヶ谷八幡」
115.「びくにはし雪中」
がそれにあたるとされている(広重は安政5年9月に死去)。
広重の死後、1870年頃からは、フランスを中心に「ジャポニスム」と呼ばれる日本を趣味とする風潮がヨーロッパで広まり始めた。
とりわけ広重の作品は、日本の浮世絵を代表する作品として認知されており、多くの画家が名所江戸百景に興味を持っていたようである。
有名どころでは、ポスト印象派のフィンセント・ファン・ゴッホが、「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。
わざわざ半透明の紙に油絵でトレースする熱の入れようで、その後のゴッホ作品における「輪郭を強調する」作風に強い影響を与えたとされる。
わずか3年弱に100余枚という速いペースで版画を出版していくことがどれだけ大変か計り知れない。
その背景には、町民の絶大なる支持があったことには間違いない。
その一つの理由として、この作品が安政2年(1855年)に起こった安政の大地震(安政江戸地震)からの復興の意味を持っているということが挙げられる。
この地震では、江戸だけで死傷者1万人以上という大きな被害を受けた。
多くの建物が倒壊し、その中にはこれまで江戸で名所とされていた場所も含まれていただろう。
その大地震の翌年、まだ再建が終わっていない土地も多く残っていたと考えられる。
そのため、これまでの名所絵にはほとんど登場しなかったような場所が、新たな江戸の名所として取り上げられているのがこの作品の特徴でもある。
実際、これまで名所として登場することの無かった場所が50点近くあるとされている。
また、再建が終わった直後の様子を切り取った作品も散見される。
このように、広重はシリーズを通して、これからの江戸の復興の想いを絵に込めたのであろう。
そう考えると、広重の驚異の出版ペースも納得できる。
まだ絵が描けるうちに江戸と江戸町民に活気を与えよう、そう躍起になっていた熱意の現れこの作品を特別な作品へと仕立て上げているのではないだろうか。