気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2018/05/27

【歩き旅】大山街道 Day7 その④ ~大山参道の坂を上る~



三の鳥居をくぐって、ついに大山阿夫利神社参道へ。江戸火消しいろは48組のうち、京橋あたりを担当していた「せ組」が建てたことから「せ組の鳥居」とも呼ばれる。


このあたりは小字を新町といい、寛文6年(1666年)に発生した大洪水の被害のため、子易村との土地交換を元に作られた町である。
新玉橋で鈴川を渡ると小字別所町。このあたりから鈴川に沿って門前町が続いていく。


門前町には旅館が多数並ぶ。その旅館の敷地を囲うように名前が刻まれた玉垣が並んでいるのが少々異質かもしれない。
大山の旅館の多くはいわゆる「宿坊」であり、神職についた「先導師」が宿を経営し、参拝者をもてなしていることから「先導師旅館」と呼ばれる。


丹沢大山国定公園のゲートをくぐる。大山を含む丹沢一帯には、神奈川県最高峰の蛭ヶ岳(1,673m)やユーシン渓谷などの景勝地もあり、ハイキングや散策で訪れる人も多い。


加寿美橋を渡ると、阿夫利神社の社務所がある。かつては大山寺の別当である八大坊の下屋敷(下寺)があった。この道は旧参道と呼ばれ、多くの宿坊が立ち並んでいる。
その先には愛宕滝が水音を轟かせていた。参拝者のために作られた人工の滝ではあるが、かつては大山詣での禊で賑わった場所である。
大山には二重滝、八段の滝、元滝(不動滝)、良弁滝、愛宕滝、大滝の六滝があり禊の滝として利用されていた。


滝の脇には愛宕社・松尾社の祠がある。もともとは新滝と呼ばれていたのだが、近くに愛宕社があったことからいつしか愛宕滝と呼ばれるようになった。


大山豆腐を直販している夢心亭の入り口脇には「大山名水 一番 相頓寺の岩清水」の文字が。この先に茶湯寺があるが、これは昭和27年(1952年)に大山山内にあった相頓寺、西岸寺、西迎寺を合併してできた寺である。
喉を軽く潤して先へ進む。


遠州屋酒店の向かい、もとは宿坊であったであろう民家の前に不動明王の祠があった。石の状態を見るにだいぶ古そうではあるが詳細は不明である。


「蛇口之瀧」への入り口はこんな感じ。良弁僧正が入山の際、はじめて禊を行ったのがこの滝とされている。


滝の脇には開山堂がある。中には姥大日如来像、そして猿が金鷲童子(良弁の幼名)を抱く像が安置されている。良弁が近江国にいた幼少期、鷲が良弁をさらって東大寺二月堂の杉の木に懸けられているところを、義淵に助けられたことから僧になったという伝説があることに由来するようだ。


そしてこちらが蛇口の滝こと良弁滝。今でこそ水量は少ないが、江戸時代には大滝と二分する人気を持つ水垢離(禊)スポットであった。その様子は、葛飾北斎の諸国瀧廻りシリーズ「相州 大山ろうべんの瀧」や、歌川広重の関東名所図会「相州大山良弁之瀧」などの描かれており当時の大山詣の盛況ぶりが伺える。


気持ちだけ禊を行って、旧道の豆腐坂を上る。参拝者が豆腐をてのひらに乗せてすすりながら坂を上ったという。豆腐の水分含有量は90%近いので、水分補給にはもってこいだったのかもしれない。


豆腐坂を上りきればこま参道へ突入していよいよ大山登山!なのだが、ちょうど大山ケーブルバス停があるのでここで本日は終了とした。路傍の道祖神に一礼して帰宅。

2018/05/14

【歩き旅】大山街道 Day7 その③ ~上粕屋・子易~



上粕屋神社に立ち寄る。天平年間に大山寺開創の僧、良弁僧正が山王社をこの地に勧請したことに始まるとう説や、大同・弘仁年間に近江の日吉神社を勧請したとも言われる。鳥居にかかる赤い紙垂(しで)が印象的。


御神木のケヤキは風格がものすごい。向こう側が見える穴と味のあるコブが、これまで重ねてきた年月と存在感を感じさせてくれる。


街道に戻ると、上粕屋神社の参道へ続く道との分岐点、千石堰用水沿いに石仏が並んでいる。一番右のものは台の道標と呼ばれ、「上り大山道 下り戸田道 寛政十一年」と刻まれている。真ん中の享保6年(1721年)の庚申塔にも「〜大山道」と刻まれているという。一番左のものは双体道祖神だという。


移設されてきた庚申塔があった。もともと伊勢原市三ノ宮にあったもので、右の小さいものは寛政9年(1797年)の銘があり、「此方 かない道」と刻まれている。坂東三十三観音霊場第7番札所光明寺(金目観音・通称「かない観音」)への道を示している。


石倉橋交差点で県道611号へ出る。ここからしばらくは大山への緩やかな上りとなる。
三光寺・石倉不動堂に立ち寄る。江戸時代に造られた腰掛不動が祀られている。最近お堂の改修をしたようで、立派な瓦屋根のお堂となっていた。


不動堂の脇には石仏がまとめられていた。この辺りは新東名高速道路の建設とそれに伴う県道の改修で至る所で工事が行われている。そのため近くにあった石仏を一箇所にまとめているようだ。


元々石倉橋交差点にあった道標が移設されているというので少し街道を外れ、鈴川沿いまで向う。
全国各地から大山へ延びるほとんどの道が石倉橋交差点で合流していたため、道標には多くの地名が刻まれている。不動尊が乗る台座には「右 い世原 田村 江乃島道、左 戸田、あつぎ、青山道、此方はたの道 此方ひらつか道」と刻まれているという。


石倉橋交差点を過ぎてしばらくすると、道はゆるやかな登り坂となる。ゴールが近づいてきた証拠である。
明神前バス停付近に平成14年(2002年)建立の比較的新しい道祖神がある。両脇の五輪塔も形といい高さといい立派な状態を保っている。私が訪問した後に高速道路建設によりこの場所から少し移動しているようだ。


道祖神があった道の反対側は専ら工事中。この先で新東名高速道路の高取山トンネルを掘削するための発破作業が行われるとのことだった。きっと車での大山詣も楽になってくるのだろう。


子易明神比比多神社へ参拝する。天平年間、藤原鎌足の玄孫でこの地の守護であった染谷太郎時忠によって勧請されたという。大山寺を開基した良弁は、染谷太郎時忠の子にあたる。また、延喜式神名帳に記載されている「比比多神社」の論社ともされている。


社殿は享保2年(1717年)に再建されたもの。向拝の柱を削って飲むと安産できるという言い伝えがあり、実際に柱はボロボロな状態になっている。もちろん現在は削ることが禁止されている。


だんだんと坂の傾斜がきつくなってきたが、ここで易往寺に立ち寄る。元慶3年(879年)に地震により大山寺が倒壊。弁真上人が易往寺地蔵院をこの地に建立し、移転してきたという。その後大山寺は寛平2年(890年)に改修される。


境内には地蔵on地蔵のタイプの六地蔵。そういえば相模国分寺にも似たような六地蔵があった。


子易児童館の敷地内に再び比々多神社があった。こんな近距離で同名の神社があるのは少々不思議な気がしたので調べてみると、こちらの比々多神社は先程の比比多神社から明治時代に勧請してきたものだという。この辺りは子易下地区にあたり、自らの地区で神祭を行うための勧請だという。


当初、比々多神社には社殿が設けられず、神輿などは神社の脇の聖観音堂に置いていた。しかし明治末に火災が発生し、聖観音堂は焼失してしまった。そのため大正8年(1919年)頃に現在の社殿を建築した。
この先旧道の這子坂を上る。昭和初期に現在の県道が整備される以前の道で、名前からも当時は相当な旧道だったことが予想できる。


子易バス停を越えたあたりに、諏訪神社がある。先程の子易下では比比多神社を勧請していたが、ここ子易上地区では当時は個人管理していた諏訪神社を地域の氏神として祀ることとした。比比多神社は由緒のある神社だったため、寄付金などの徴収が負担となっていた。そこで自集落に神社を勧請することで、寄付金などの資金が別地区へ移動するのを防ぐ目的があった。


子易上集落の緩やかなカーブを曲がるともうひと頑張り。

2018/05/10

【歩き旅】大山街道 Day7 その② ~矢倉沢往還と分かれ道灌と再会する~



糟屋宿を抜けて、丸山城址に立ち寄る。丸山城は鎌倉時代の築城とされており、糟屋左衛門尉有季の居館跡とされている場所。扇谷上杉定正の居館・通称「糟屋館」 がこの地にあったという説もある。糟屋館は前回のエントリーで紹介した太田道灌暗殺の地であるが、決定的な証拠は出土していないようである。


現在は丸山城址公園として整備されているが、土塁などの遺構がしっかりと残っている。かつての城域は高部屋神社あたりまで広がっていたとも言われており、かなりの規模の城郭だったようだ。


街道に戻り下糟屋の交差点で国道246号を突っ切る。その先に道祖神と五輪塔がまとめられている。メインの道祖神には嘉永3年(1850年)の銘が入っているという。
この先、高橋商店の脇の林の中に伊勢原市最古の庚申等があるとのことだが見逃してしまった。


東海大学伊勢原キャンパス・大学病院の脇の細い道を進み、開けた場所に出たところに咳止地蔵尊の祠がある。かつてこの付近で渋田川に木橋が架かっており、増水時に川を堰き止めることから「せきど橋」と呼ばれていた。これがいつしか「咳止め」に転訛して、地蔵尊が咳止めにご利益があると言われるようになったという。


旧道は県道63号の開通に寸断されてしまった。市米橋交差点で写真右手に曲がり少しいけば再び旧道へと入るのだが、この交差点は矢倉沢往還との分岐点となる。つまり写真の奥へ直進するのが沼津へと続く矢倉沢往還、右手へ折れるのが大山街道となる。


矢倉沢往還と分かれ、市米橋バス停を過ぎた辺りで再び旧道へ入る。細い道を歩いていると「上糟屋郷絵図 文政八年(1825)秋図文」と書かれた絵図がある。2014年に作成されたようで、近年でも地元に街道が親しまれているのがわかる。


峰岸団地入口交差点を越え道なりに住宅街を進んでいくと「三軒茶屋」と書かれた家の模型のようなものが道端に置いてある。説明によると、このあたりは大山街道青山道、大山街道戸田道(戸田の渡しからの道)、田村通り大山道から分かれた日向道(日向薬師へ向かう道)、津久井道などが交わる地で、三軒の茶屋が旅人の喉と足を癒やしていたのだという。


道は東名高速道路に突き当たるので、近くのトンネルで向こう側へ抜けるとそこに石仏がある。この旅何回目の双体道祖神+五輪塔のセットだが、「右 いゝやまみち 七五三引村 左 ひなたみち 明和九」と刻まれている道標を兼ねた石仏である。
飯山道は坂東三十三観音霊場第6番札所である長谷寺・通称「飯山観音」への道を示している。ちなみに「七五三引」と書いて「しめひき(=〆引)」と読む。


用水路沿いの狭い道を進んでいく。この用水路は「千石堰用水」と呼ばれる。鈴川から取水し、先程の咳止地蔵近くで渋田川へ流れる水路で、流域の灌漑用水として利用されてきた。元々は上杉館の空堀に水を引くために造られたとされ、道灌濠とも呼ばれる。


用水路に沿って進むと三所石橋造立供養塔があった。文政3年(1820年)に建立された供養塔で、千石堰用水に架かる3つの石橋(台久保の石橋、石倉の石橋、川上の石橋)を供養するために近くの洞昌院の住職と地元の村人によって造られたもの。この場所は台久保の石橋があった場所に相当するという。


供養塔の隣には木製の道標がある。だいぶ立派な道標である。


街道から少しはずれて上粕屋・台久保・山王原周辺を散策する。ここに2つ目の太田道灌の墓がある。


鬱蒼とした林の中にあるのがこちらの墓。下糟屋にあったのが首塚でこちらが胴塚とされている。宝篋印塔と松の切り株が供えられている。道灌暗殺後、遺体は洞昌院の裏手で荼毘に付したと言われている。洞昌院は上杉憲実の弟・道悦和尚のために道灌が建てた寺と伝えられている。


道灌暗殺の際、道灌の家臣七人が追手を受けて討死したと言われている。彼らを祀っているのが道灌の墓にほど近い場所にある七人塚である。元は上粕屋神社の境内にあったが、そのうちの一つをこの地に移設したもの。実は家臣は9人いて、生き残った家臣の子孫と言われる家系が代々この七人塚を世話しているという。

もう少しこの周辺をみてみよう。

2018/05/04

【歩き旅】大山街道 Day7 その① ~糟屋宿へ~



7日目の本日は小田急線愛甲石田駅よりスタート。南毛利村愛甲と成瀬村石田の境界付近にできた駅のためこの名前となった。現在でも厚木市と伊勢原市の境である。


小田急線を踏切で越え久々に国道246号に合流する。しばらく国道沿いを歩けば天正2年(1574年)開山とされる浄心寺がある。山門は葦葺き屋根で趣があるが、全面的に最近改修されたようで、建物等は真新しい雰囲気だった。


石田の交差点で国道246から離れ用水路を越える。進行方向右手が崖のように切り崩されている場所に道祖神が置かれていた。周りには五輪塔が分解されたような石が転がっていた。


この崖の道を挟んだ反対側にこんもりとした森が見える。これが相模最大の円墳と言われている「小金塚古墳」である。4世紀末に造成されたものと言われ、出土した朝顔形埴輪は南関東最古のもとのとされる。墳頂には江戸時代に建てられたという小金塚神社がある。


街道から寄り道へと別れた地点には道標が置かれている。上部が欠けており、「東 厚木町二至ル □船場二至ル」と辛うじて読める。欠けた方面は「南 戸田渡船場二至ル」と刻まれているらしく、明治期まで利用されていた相模川の渡しの一つである戸田の渡しへ至る道だったと考えられる。また戸田の渡しは柏尾通り大山道のルート上にあり、後ほど合流する。


成瀬小学校前の高圧電線の鉄塔の足元に不自然に植え込みがあったので、覗いてみると風化しきった石碑が置かれていた。五輪塔の一部が周りに置かれていたので、道祖神なのだろうと思うが詳細は不明である。


成瀬小学校の道を挟んで反対側に白金地蔵尊が鎮座している。万延元年(1860年)に子宝繁栄のため設置された子育地蔵だが、移設を繰り返し現在地に鎮座。平成8年(1996年)の台風により倒壊したものをここに再建したものだという。


歌川を歌川橋で越えるとなにやらゴツイものが見えてくる。現在鋭意建設中の新東名高速道路である。2018年5月現在、東側は厚木南ICまで開通しており、写真に写っている部分に該当する伊勢原JCTまでの範囲は2018年度中の開通を見込んでいるという。


建設中道路の高架下をくぐり緩い坂を上ると、双体道祖神や五輪塔などの石碑がまとめられていた。平成12年道祖神講中によるものとの碑があった。訪問当時はこの場所の裏手は空地だったが、2018年現在ではマンションが建っており、無造作に置かれていた石碑はきれいにまとめられているようだ。


坂を上り切り道は丁字路となる。ここで先ほどの戸田の渡し方面から伸びる柏尾通り大山道と合流する。そしてここから糟屋宿となる。入り口の自転車屋には風情ある看板と笠が置かれていた。


糟屋宿は下屋村、上屋村(間違いではない)からなる宿場で、南に渋田川が流れていることから水運も発達していた。大山までの距離もほどほどで、物資が集まる場所でもあったため、大山麓の宿坊に泊まらずに糟屋宿で一泊して大山へ向かう旅人も多かったという。


普済寺を訪ねる。嘉永六年(1854年)建立の不動明王に一礼して境内へ。


普済寺は伊勢原神宮寺の菩提寺とされる寺院。江戸時代には相模国札所第三十番の報徳庵を擁していた。梅がきれい。


天保9年(1838年)建立の多宝塔は伊勢原市最大で6mの高さにもなる巨大なもの。
享和2年(1802年)から文化元年(1804年)にかけて、江戸幕府は蝦夷地の警備のため、蝦夷三官寺を建立する。そのうちの一つが北海道厚岸の国泰寺の5代目住職に任命されたのが、下糟屋にあった神宮寺の住職であった文道玄栄であった。7年の任期を終えて神宮寺に戻った際にこの多宝塔を建立。神宮寺が廃寺になるタイミングで普済寺に移設された。


粕屋上宿のバス停を越えた先の信号を折れて街道を外れて寄り道。道灌橋を渡った場所に「太田道灌公菩提寺」と主張激しい寺院がある。こちらは大慈寺で、太田道灌の叔父で鎌倉建長寺の長老であった周厳禅師を中興開祖とした寺院である。
道灌の父・資清が糟屋に本拠を置いていたため、道灌は伊勢原市で生まれたという説がある。


大慈寺の道を挟んで反対側、川沿いを行くと太田道灌の墓なるものがある。
文明9年(1477年)に起きた長尾景春の乱で功績を上げた道灌を疎ましく思った上杉定正は、文明18年(1486年)に糟屋館に道灌を呼び出し暗殺したものとされる。道灌の墓とされる場所はいくつかあり、ここでは「首塚」と呼ばれることが多い。


街道に戻り、高部屋神社へ。延喜式内社の一つと比定されており、紀元前655年創建とも言われる。千鳥ヶ城と呼ばれる要害があったとされる地であり、上杉氏、後北条氏など武家との繋がりも大きい。


境内にある県指定重要文化財である梵鐘は至徳3年(1386年)に河内守國宗によって作成されたと陰刻されているという。この人物は、中世に相模国・武蔵国を中心に活躍した相模鋳物師の物部氏の後継にあたる清原氏であると考えられている。


本殿は五間社流造という格式の高い構造。関東大震災で倒壊したものを昭和4年(1929年)に再建し、その際に倒壊前に使用していた部材を再利用したという特徴がある。
本殿と拝殿および幣殿は平成28年(2016年)に国登録有形文化財に指定された。

高部屋神社のあたりまでが糟屋宿のエリアとなっていた。