【歩き旅】大山街道 Day7 その④ ~大山参道の坂を上る~
三の鳥居をくぐって、ついに大山阿夫利神社参道へ。江戸火消しいろは48組のうち、京橋あたりを担当していた「せ組」が建てたことから「せ組の鳥居」とも呼ばれる。
このあたりは小字を新町といい、寛文6年(1666年)に発生した大洪水の被害のため、子易村との土地交換を元に作られた町である。
新玉橋で鈴川を渡ると小字別所町。このあたりから鈴川に沿って門前町が続いていく。
門前町には旅館が多数並ぶ。その旅館の敷地を囲うように名前が刻まれた玉垣が並んでいるのが少々異質かもしれない。
大山の旅館の多くはいわゆる「宿坊」であり、神職についた「先導師」が宿を経営し、参拝者をもてなしていることから「先導師旅館」と呼ばれる。
丹沢大山国定公園のゲートをくぐる。大山を含む丹沢一帯には、神奈川県最高峰の蛭ヶ岳(1,673m)やユーシン渓谷などの景勝地もあり、ハイキングや散策で訪れる人も多い。
加寿美橋を渡ると、阿夫利神社の社務所がある。かつては大山寺の別当である八大坊の下屋敷(下寺)があった。この道は旧参道と呼ばれ、多くの宿坊が立ち並んでいる。
その先には愛宕滝が水音を轟かせていた。参拝者のために作られた人工の滝ではあるが、かつては大山詣での禊で賑わった場所である。
大山には二重滝、八段の滝、元滝(不動滝)、良弁滝、愛宕滝、大滝の六滝があり禊の滝として利用されていた。
滝の脇には愛宕社・松尾社の祠がある。もともとは新滝と呼ばれていたのだが、近くに愛宕社があったことからいつしか愛宕滝と呼ばれるようになった。
大山豆腐を直販している夢心亭の入り口脇には「大山名水 一番 相頓寺の岩清水」の文字が。この先に茶湯寺があるが、これは昭和27年(1952年)に大山山内にあった相頓寺、西岸寺、西迎寺を合併してできた寺である。
喉を軽く潤して先へ進む。
遠州屋酒店の向かい、もとは宿坊であったであろう民家の前に不動明王の祠があった。石の状態を見るにだいぶ古そうではあるが詳細は不明である。
「蛇口之瀧」への入り口はこんな感じ。良弁僧正が入山の際、はじめて禊を行ったのがこの滝とされている。
滝の脇には開山堂がある。中には姥大日如来像、そして猿が金鷲童子(良弁の幼名)を抱く像が安置されている。良弁が近江国にいた幼少期、鷲が良弁をさらって東大寺二月堂の杉の木に懸けられているところを、義淵に助けられたことから僧になったという伝説があることに由来するようだ。
そしてこちらが蛇口の滝こと良弁滝。今でこそ水量は少ないが、江戸時代には大滝と二分する人気を持つ水垢離(禊)スポットであった。その様子は、葛飾北斎の諸国瀧廻りシリーズ「相州 大山ろうべんの瀧」や、歌川広重の関東名所図会「相州大山良弁之瀧」などの描かれており当時の大山詣の盛況ぶりが伺える。
気持ちだけ禊を行って、旧道の豆腐坂を上る。参拝者が豆腐をてのひらに乗せてすすりながら坂を上ったという。豆腐の水分含有量は90%近いので、水分補給にはもってこいだったのかもしれない。
豆腐坂を上りきればこま参道へ突入していよいよ大山登山!なのだが、ちょうど大山ケーブルバス停があるのでここで本日は終了とした。路傍の道祖神に一礼して帰宅。