博物館の出口のところに石人のモニュメントがある。チブサン古墳の石人を4倍に拡大したものだという。石室内部にカラフルな幾何学模様があるのが特徴的で、古墳内部の見学を博物館で申し込みできるという(古墳は博物館から約1km離れている)。
坂を下っていくと道路改修記念碑がある。その脇の岩肌がいい感じに露出している。
そして坂を下りきったところに「鍋田横穴群」がある。古墳時代に作られた群集墓で、阿蘇山の噴火でできた溶岩を横に掘って墓としたものである。横穴は61基もあり、壁面に浮き彫りが装飾されているものもあるという。岩野川を鍋田橋で渡る。
国道443号に沿って田園風景の中を進み、吉田川を渡る。久留米で横切って以来久しぶりの国道3号を再び横切ると、豊前街道の案内がありわずかに旧道らしい線形が残っている。ここから山鹿の市街地へと入っていく。
道は川から離れるにつれて緩やかな上り坂となっている。ある程度高度が上がると、足元の舗装の色が黄土色がかった色味に変わる。道筋を観光地化する際によく取られる手法だが、ここ山鹿でも街道と温泉地一帯を観光資源として頑張って整備している様子が窺える。
八千代座通りを進んでいく。豊前街道の説明板が掲げられた木製の灯籠がある。その隣にある休憩所も公衆電話などありレトロ感を醸し出している。
山鹿温泉は保元2年(1157年)、宇野親治が傷を負った鹿が傷を癒やしている姿を見て温泉を発見したと伝わる。湯量豊富な温泉であったが、文明5年(1473年)に謎の枯渇が起き、その際に金剛乗寺の宥明法印が薬師堂を建立して祈祷を行ったところ、お湯が復活したという。
そんな山鹿復活伝説の金剛乗寺は、天長年間(824〜834年)に空海によって開山したと伝わり、山鹿で最も古い寺院として現在でも残る。その山門は文化元年(1804年)に作成された石製のものである。
金剛乗寺の宥明法印が遷化した際、紙細工の名人であった山口兵衛によって数百の紙灯籠が作られ霊前に供えた。これが山鹿灯籠の始まりとされ、山鹿のシンボルとなっている。街中の至るところには灯籠を模したオブジェやデザインが溢れている。
山鹿灯籠の歴史は「山鹿灯籠民芸館」で体感することができる。建物は大正14年(1925年)に安田銀行山鹿支店として建てられたもので、国指定登録有形文化財にも指定されている。
細川家の九曜紋の提灯がぶら下がる「山鹿温泉さくら湯」。起源は古く、寛永17年(1640年)に肥後細川藩の「山鹿御茶屋」が新築されたことにはじまる。殿様と重臣用の「御前湯」、家臣用「御次湯」、庶民用の「外湯」が設けられていた。明治初期に細川藩から山鹿市へ払い下げられ、「山鹿温泉大改築」により、市民温泉として利用されるようになった。明治31年(1898年)の道後温泉棟梁・坂本又八郎による改修では、象徴的な唐破風玄関が設けられた。昭和48年(1973年)に取り壊されたものの、平成24年(2012年)に現在の姿に生まれ変わった。
広町交差点の次の丁字路、大きな榎の脇には山鹿町道路元標があった。榎は「湯の端のエノキ」として市指定天然記念物に指定されており樹齢400年程だという(道路元標の後ろに榎についての説明が倒れている)。ここにかつて高札場が置かれていたという。
山鹿の町並みを南下していくと「火除け地蔵尊」がある。かつては像成寺という真言律宗の寺の惣門があった場所で、地蔵が置かれていたため「地蔵口」と呼ばれていた。築城年は不明だが、寺域はいつしか山鹿城(上市城)となり、肥後国人一揆により天正15もしくは16年(1587もしくは88年)に廃城となるまで続いた。
更に南下し、左手奥に光専寺の立派な楼門が見えてくる。この楼門は熊本城を築城する際に余った木材を利用したと言われている。明治10年(1877年)の西南戦争では、薩軍の野戦病院としても利用された経緯がある。
豊前街道沿いは山鹿市の景観形成重点地区に指定されており、建築物は江戸末期〜大正時代の建築様式を参考にしたデザインを採用し、隣接する建築物の壁面とできるだけ統一した意匠とするよう求められている。
明治29年(1896年)創業の千代の園酒造。江戸時代には米問屋を営み、玉名の高瀬蔵を経由して大阪の市場へ運んでいたという。明治時代に入ってから米を利用して日本酒造りを始め、近年では熊本県オリジナルの酒米品種「華錦」(はなにしき)を原料としたものや、明治から昭和の初めまで西日本一帯で作られていた「神力」(しんりき)を復活させた日本酒を醸造している。
菊池川に突き当たるところに惣門が設けられている。手前の公衆トイレのある辺りにあったものを平成22年(2010年)に菊池川沿いに移設した。江戸時代、惣門は町の入口としての役割を果たしており、今でも惣門付近のエリアは「惣門地区」と呼ばれている。
本日は山鹿に宿泊する予定だが、まだ時間が早いので少し先まで進んでしまおう。菊池川を昭和28年(1953年)架橋の山鹿大橋で渡る。
惣門からの延長線上に延びる道へと入る。本当に旧道で合っているのか不安になるが、六里木跡の碑があったので一安心。
国道3号を横切る。用水路の脇には群境石がある。「是ヨリ北 山鹿郡」と刻まれたもので、天保8年(1837年)建立のもの。ここが山鹿郡と玉名郡の境界だった。
うらやま坂の案内板があった。地元に残る「長者どんの宝くらべ」という民話が由来となって命名されているという。
駄の原長者と米原長者が日本一を決めるために宝くらべをすることになった。この坂のふもとに米原長者が金銀財宝の宝の山を持ってきたのに対して、駄の原長者は12人の子供を連れてきた。米原長者は子供がおらず、駄の原長者の勝ちとなった。この逸話から「うらやましい坂」が転じて「うらやま坂」と呼ばれるようになったという。
うらやま坂を越えてちょっとした未舗装路を抜ける。その先畑の中の旧道は部分的に不明瞭になっている。畑区間を抜けて少し丘のようになっている箇所に「比丘尼坂」の案内板があった。老婆なのか尼なのかが近くに住んでいたのだろうか。
鹿央総合支所まで進んだところで本日の歩きは終了。バスで山鹿に戻る。夕焼けに染まる温泉街の雰囲気が素敵だった。