気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2017/10/08

【歩き旅】大山街道 Day2 〜世田谷をゆく〜



上目黒氷川神社から上目黒大橋を渡ったあたりから旧道区間へと入る。池尻稲荷神社は明暦年間に旧池尻村・池沢村の産土神としえ創建された。


境内には「涸れずの井戸」の説明版と、井戸に水を汲みに来た子供たちの像が設置されている。江戸からここまで、街道沿いに飲み水がほとんどなかったことから、多くの旅人がここで足を止めたという。


少し歩くと「三軒茶屋」の大きな交差点に出てくる。大山道と登戸道の追分付近に、信楽(後の石橋楼)・角屋・田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことに由来して三軒茶屋となった。その後多くの商店が集まり、三軒茶屋は発展することとなるが、明治に入ると角屋が閉店し、昭和に入り石橋楼が閉店する。田中屋も火災に見舞われるなどするが、「田中陶器店」として当時とほぼ同じ場所で現在も営業している。


こちらが三軒茶屋の追分道標。「(正面)相州道大山道 (右)富士、登戸・世田谷道、(左)此方 二子通」と刻まれている。ここから大山道は二手に分岐する。一つは北側世田谷通りを行く通称「慈眼寺線」。もう一方は南側国道246号を行く通称「行善寺線」。行善寺線は文化文政年間に成立したいわば「新道」であり、慈眼寺線が「旧道」にあたる。今回は旧道:慈眼寺線を進むことにした。


鎌倉時代のこの地の領主、北条左近太郎入道成願によって創建されたと言われる。その際、自分が乗っていた馬(駒)が止まった場所に社殿を創建したとされ、名前の由来となっている。このあたりは上馬・下馬など馬にまつわる地名が点在している。


大きな茅葺きの建物が見えてくる。これは国の重要文化財に指定されている世田谷代官屋敷である。家康が江戸入府した際、世田谷一帯は直轄領とされた。その後井伊家の江戸屋敷賄料として、この一帯の村々は彦根藩世田谷領となり、明治初期まで続く。その際代官の職を務めた大場家の私邸兼役宅だったのが、この代官屋敷である。


代官屋敷の前はボロ市通りと呼ばれる。安土桃山時代には六斎市として始まった市が、江戸時代には歳の市となる。明治時代になると古着やボロ布を売る露天が多く並ぶようになったことから「ボロ市」と呼ばれ、現在の桜栄会商店会の前身となる。


こちらの石碑はよく見ると「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。」と刻まれているらしい。この場所は登戸道(津久井往還とも呼ばれる)と大山道の分岐点にあたり、以前は延享3年(1746年)の道標が設置されていたが上記の顛末を辿っている。


大山道児童公園には旅人の像が設置されている。一服している旅人がいるこの場所は、目黒川の支流、蛇崩川が流れている場所である。流れていると言っても暗渠化されているため、水の流れを見ることはできない。
近くには「蛇崩川 洗い場跡」の石碑が設置されている。この場所がかつて蛇崩川の源流だっという。


弦巻四丁目交差点には地蔵菩薩庚申供養塔と馬頭観音碑が並んでいる。地蔵の方は台座に「左リ大山道 右世田谷道」とあり、地元では野中のお地蔵さまと呼ばれているそう。


陸上自衛隊の用賀駐屯地を脇目に進むと「衛生材料廠跡」の碑が立っている。昭和4年(1929年)に陸軍で使用する薬品などを管理する施設「衛生材料廠」が芝白金より移転してきたものである。その後、敷地の一部は用賀駐屯地に変わり、残りは国立衛生試験所を経て、現在は国立医薬品食品衛生研究所として我々の生活を守っている。


大山道追分の碑が立つこの場所は、三軒茶屋で分岐した新道・旧道が合流する場所である。かつては文政10年(1827年)建立の立派な石の道標が立っていたのだが、世田谷区立郷土資料館に移設されている。


門柱と三界万霊塔が建つこの場所から、真福寺への参道が続いている。かつての参道は縁日の日になると市が開かれ、この門前町として「用賀」が発展していった。


参道の先には赤い門が立ちはだかる。赤門寺の愛称でも呼ばれるこちらが瑜伽山(ゆがさん)真福寺。天正年間の開山とされている。
かつてこの場所には真言宗の瑜伽(いわゆるヨーガ)の修験道場があり、これが「用賀」の地名の由来だという説があり、その跡地に真福寺が建っているとされる。今回は時間が遅かったため、山門の中には立ち入れなかった。

本日は近くの用賀駅から帰路についた。