気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2024/10/31

【歩き旅】北国街道 Day7 その①



7日目は新井宿よりスタート。いきいきプラザ前に高田宿の案内板があった。新井宿は北国街道と飯山道の分岐点としてだけでなく、古くから河川交通の要衝として開かれていたという。


いきいきプラザの横には市神社がある。新井宿では応永年間初期頃から6の日と10の日に六斎市(月に6回市が開かれる)が立つようになったという。市神社は六斎市の守り神。


戦国時代には宿場が開かれ、天正3年(1575年)に上杉謙信が和田氏を「荒井町問屋」に任じて、伝馬宿送等の業務を担わせている。延宝9年(1681年)に高田藩が改易されると、新井宿は天領となり、新井陣屋が置かれるようになった。貞享2年(1685年)に稲葉氏によって高田藩は復活したものの新井宿はしばらく天領のままだったが、文化6年(1809年)に榊原政敦によって再び高田藩領となった。


大鹿屋時計店の外装に「北国街道」「ARAI NAKAMACHI」の文字。


酒樽が置かれている旧家は天保13年(1842年)創業の「君の井酒造」。田中酒舗として創業し、昭和26年(1951年)に君の井酒造となった。母屋は昭和42年(1967年)に完成したもの。山廃造りを長年続けている酒造として知られる。


左手に「明治天皇新井行在所」碑が立つ。ここには願生寺という親鸞の弟子・善性が下総国下河辺に設立した寺院を移転したものが建っていたが、貞享2年(1685年)に異安心(異端)認定され牟礼(飯綱町)の證念寺へ追放される。その跡地に東本願寺直轄の新井道場が設置された。

明治天皇巡業の際には、新井別院が行在所として利用された。


県道63号を横切ると、左手に石塚の一里塚跡の標柱がある。西塚跡に碑のみが設置されている。


石塚の集落を抜けて、いくと左手に康源寺が見える。鐘楼門は延宝7年(1679年)建立で、街道上で一、二を争う古さの建築物となっている。


康源寺の前からいかにも旧道らしい道が左手に伸びているので、そちらに進んでいく。


旧道に入ってすぐに三体の石像が並んでいる。真ん中の不動明王には「清水不動妙王」と刻まれている。


このあたりの大崎集落は「大崎の石屋」と言われるぐらい今でも多くの石材店が点在している。「千草石」と呼ばれる若草色の輝石安山岩が近隣の五日市山や猪野山で採掘され、これを加工して墓石や記念碑、鳥居など様々な用途で利用された。


慶応元年(1865年)建立の筆塚。儒学者・医者の小池蓮蹊の顕彰碑だという。医師として従事する傍ら、天保年間〜明治期にかけて寺子屋での教育にもあたった。


幟立の石柱がぽつんと立っていた。近くにある白山神社へは街道から直接向かうことができないが、かつては参道があったのだろうか。


北新井駅脇を過ぎ、国道18号をアンダーパスする。左手には「金子伊太郎君遺跡」碑があった。文久元年(1861年)生まれの金子伊太郎は、越後電気株式会社(後の中央電気株式会社)の専務取締役や高田瓦斯株式会社(後に高田市営ガスに引き継ぎ)の取締役を務めた人物。


再び上越市に入り西田中の集落へと差し掛かる。ここに諏訪社があった。常夜灯と社号碑のデザインが独特。


石沢踏切で妙高はねうまラインを越える。前掛けの花柄が特徴的な地蔵尊があった。

2024/10/10

【歩き旅】北国街道 Day6 その⑤



静かな農村を歩いていると、二本木宿と松崎宿の案内板が突然現れる。これまで北国街道で見てきた宿場でもあったが、二本木宿と松崎宿も半月交代で宿役業務を行う合宿だったようだ。


あまり宿場の入口っぽい場所ではないので単なる村境だった場所なのかもしれないが、説明板の脇には「此れより松崎宿」の榜示杭が立つ。


そこから枡形のように少しくねった道を下ると若宮神社がある。この辺りから松崎宿の入口だったようだ。


松崎宿は、宿の真ん中をえちごとトキめき鉄道妙高はねうまライン(旧JR信越本線)の北国街道踏切が横断する。その先、小さな水路を渡ると町続きで二本木宿へと入る。


三面六臂の馬頭観音。先ほど覚願寺で見たものと似ているような気がする。


その少し先右手に安楽寺がある。松崎宿・二本木宿では本陣を設けておらず、加賀藩はこの寺を休息所として利用していた。そのため、安楽寺庫裡には上段の間が設けられていた。


その先、白山神社手前の民家に明治天皇二本木小休所の碑が建っている。明治天皇御巡幸の際ここ松原家(現在は早川家)で小休して、新井に向かった。


白山神社境内には、かつて宿場北側入口の街道脇にあった石柱が移設されている。「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず。邑の内、咥きせる無用二本木宿」と刻まれているといい、宿場を通行する際の注意書きを記したもの。当時の宿場の通行量の多さと、「咥きせる(くわえキセル)」を禁じるという宿場の自治的な防火対策の模様が伺える。


文政7年(1824年)刊行と伝わる『吾妻紀行』という紀行書には、二本木宿の旅籠での食事の様子が描かれている。「二本木といえども 酒は一本木」と宿での食事を絶賛しているが、現在は旅館も食事処も無さそう。


中郷小学校脇の丘の上になにやら説明板があり、「蛇塚」と呼ばれる祠に関する伝承の説明のよう。かつてこの近くには大蛇が住んでおり、通行人の邪魔をしていた。ある寒い日に野伏が焚き火をしていると、急に地面が動き、大蛇のとぐろの真ん中にいることに気がついた。大蛇は焚き火でやけどをし、その結果死んでしまった。村人たちは祟りを恐れて、ヘビを石祠に祀って供養したという。


坂を下っていき、北国街道踏切を越えたところに二本木駅がある。新潟県唯一のスイッチバックが残る駅として知られる。


駅前は二本木宿の子村であった坂本新田の集落だったが、二本木駅の開業によって賑わい、駅前商店街は坂本銀座と呼ばれるようになった。家の敷地にある祠には馬頭観音と青面金剛の像が鎮座していた。


藤沢一里塚が見えてくる。西塚は戦後の食糧難の時代に潰されてしまったため、東塚のみが残っている。現道は後世に一段掘り下げられているので、塚は高い位置にある。


県道344号に沿って進むが、三叉路で左へ進み県道から離れて板橋新田の集落に入る。板橋新田は二本木宿と新井宿の中間にあたり、立場茶屋や馬屋が置かれていた。路傍にあった馬頭観音は、これまで見かけたものと同様、岩をくり抜いた中に観音像が鎮座しているタイプのものだった。


雑木林の中に神明神社がある。


神社の少し先に、岩にくり抜かれていないタイプの馬頭観音像もあった。


少し先の峠の辺りにも同様に祠に納められた馬頭観音像がある。隣の坐像は頭部を交換されているようだ。


少し坂を下ったところに小出雲坂(おいずもざか)と松並木の説明板がある。この辺りには「かしわもちや」の屋号を持つ立場茶屋があり、柏餅は越後名物の一つに数えられていた。加賀藩の参勤交代での休息所にもなっていたため「加州立場」とも呼ばれていたという。


小出雲坂は高田平野が見渡せる最後の場所(進行方向的には最初の場所)だったという。松並木は200mほど伸び、いい感じの日陰を作ってくれる。坂を下った辺りから再び妙高市に入る。


小出雲の集落に入ると賀茂神社がある。創建年代は不明だが、古来は斐太神社(妙高市神宮寺にある式内社)の末社だったと伝わる。斐太神社の主祭神の一柱に「大国主命」が数えられており、出雲大社の主祭神と一致している。小出雲の地名と何か関連があるかもしれない。


小出雲交差点の脇に明治5年(1872年)銘の道標があり、「左 飯山道 右 善光寺道」と刻まれている。加茂神社に折れて横たわっていたものを発見され、元あったであろう位置に戻されたもの。ここから姫川原、除戸、猿橋、長沢、富倉などを経由して飯山に至る飯山街道(富倉街道)が分岐していた。


渋江川を辻屋橋で渡ると、旧小出雲新田村に入り古い商家のような建物が点在している。新井宿手前ということもあり宿場的な機能を備えていたという。しばらく進むと上町延命地蔵尊がある。江戸時代の初めにため池から2体の地蔵を発見して祀ったところ、参詣者の子の夜泣きや夜尿症、母親の乳の出が良くなるなどのご利益があり、人々の信心を集めるようになった。後に明治時代にお堂が建立されたという。


新井宿は南から上町・中町・下町で構成されており、上杉謙信が天正3年(1575年)に通行している記録も残る。かつては「荒井」とも記されたが、天保9年(1838年)に「新井」表記に統一された。

本日はここまでで終了とし、宿は高田にて宿泊した。

2024/10/09

【歩き旅】北国街道 Day6 その④



小野沢信号から左に入り、小野沢集落へ。融雪パイプの赤茶けた道路が新潟感を感じさせる。


集落内には車道と民家の間にところどころ水路がオープンになっている箇所がある。馬の水飲み場跡かとも思ったが、洗濯や炊事などの用途で利用されていたものだろうか。


独特な屋根の興善寺。元々は高田にある瑞泉寺の末寺であったが、江戸時代には関山神社の別当である宝蔵院の配下にあり、社務などにあたっていた。約1200年前に描かれたチベット曼荼羅と、約1700年前に描かれた中国の曼荼羅が寺宝となっているが、この寺に安置されている経緯は不明だという。


小野沢川に向かって道は下っていくが、途中に大日如来が祀られた祠があった。上半身だけの「生け込み式」と呼ばれるスタイルの石仏。周辺にあったであろう馬頭観音が大日如来を取り囲んでいた。


道は大きく左に弧を描くように進む。民家の傍らに馬頭観音が置かれている。


泉地蔵尊の祠があった。この手前で道は右に曲がり、関山宿へと入っていく。


諏訪大神の扁額が掲げられた鳥居とその先に祠があった。


関山宿は古くからの山岳修験道の霊場である「妙高山」を遥拝する里宮である「関山三社権現(現在の関山神社)」の門前町として栄えた。街道を挟んで東側が高田藩領、西側が関山権現社領となっており、宿役は高田藩領側が務め、関山権現側は免除されていた。


関山神社は和銅元年(708年)に裸行上人によって創建したと伝わる。別当寺として隣接する宝蔵院とともに、天正10年(1582年)の森長可軍勢による侵攻では社殿や堂宇が消失し一時衰退するものの、江戸時代に入り再興し、宝蔵院は上野寛永寺の末寺となった。妙高五山(妙高山、神奈山、茶臼岳、火打山、不動山)を朱印地として管理し、許可なく入山することを禁止していた。仏教色の強い神社であったが、明治の神仏分離政策により宝蔵院は廃止され、社領も現境内を除いて国に没収された。


参道入口には大正時代に設置された関山村道路元標が置かれている。


北沢川を越え、宿場を抜けると左手に北沢一里塚が見えてくる。西塚のみだが、塚の形はきれいに残っている。かつて塚に植えられていた木は不明で、現在植えられている木は後年に植えられたものだという。


一里塚のすぐ先、国道を横切るところに「北沢の一本松」があった。上部だけに枝がある大木が聳えているはずだったが、肝心の上部が伐採されてしまっていた(ストリートビューを見る限り、現在では跡形も無くなっている)。ここを境に妙高市から上越市に入る。


稲荷山集落に入っていくと、道路脇に杉並木が伸びている。「元ギャル多し スピード落とせ」の標語は味がある。


福崎集落に入っていくと覚願寺がある。大永4年(1524年)開創の寺院。


入口のところに、岩の中に彫りが比較的はっきりした馬頭観音像があった。


続いて片貝集落に入っていく。比較的新しそうな路傍の祠にはお地蔵様が祀られている。


少し先に片貝縄文資料館の入口があった。北沢一里塚の北側(泉縄文公園)で発見された県指定史跡「籠峰遺跡」をはじめ、この付近では縄文遺跡が多数見つかっており、それらの出土品などを展示している。平成17年(2005年)に廃校となった片貝小学校の校舎を再利用している。


片貝集会所の前に嘉永3年(1850年)建立の筆塚がある。側面には「龍と龍 影やかげろう 塚の上 鱗ニ」と刻まれているという。伊勢国津藩から流浪の旅に出ていた「公田権右衛門・和五郎親子」がこの地で寺子屋を開き村人に文字や詩歌を教えたと言われており、その弟子である村民が後年に建立したものだという。

この先片貝橋で片貝川を渡り、市屋集落を抜けていく。