【歩き旅】北国街道 Day7 その①
7日目は新井宿よりスタート。いきいきプラザ前に高田宿の案内板があった。新井宿は北国街道と飯山道の分岐点としてだけでなく、古くから河川交通の要衝として開かれていたという。
いきいきプラザの横には市神社がある。新井宿では応永年間初期頃から6の日と10の日に六斎市(月に6回市が開かれる)が立つようになったという。市神社は六斎市の守り神。
戦国時代には宿場が開かれ、天正3年(1575年)に上杉謙信が和田氏を「荒井町問屋」に任じて、伝馬宿送等の業務を担わせている。延宝9年(1681年)に高田藩が改易されると、新井宿は天領となり、新井陣屋が置かれるようになった。貞享2年(1685年)に稲葉氏によって高田藩は復活したものの新井宿はしばらく天領のままだったが、文化6年(1809年)に榊原政敦によって再び高田藩領となった。
大鹿屋時計店の外装に「北国街道」「ARAI NAKAMACHI」の文字。
酒樽が置かれている旧家は天保13年(1842年)創業の「君の井酒造」。田中酒舗として創業し、昭和26年(1951年)に君の井酒造となった。母屋は昭和42年(1967年)に完成したもの。山廃造りを長年続けている酒造として知られる。
左手に「明治天皇新井行在所」碑が立つ。ここには願生寺という親鸞の弟子・善性が下総国下河辺に設立した寺院を移転したものが建っていたが、貞享2年(1685年)に異安心(異端)認定され牟礼(飯綱町)の證念寺へ追放される。その跡地に東本願寺直轄の新井道場が設置された。
明治天皇巡業の際には、新井別院が行在所として利用された。
県道63号を横切ると、左手に石塚の一里塚跡の標柱がある。西塚跡に碑のみが設置されている。
石塚の集落を抜けて、いくと左手に康源寺が見える。鐘楼門は延宝7年(1679年)建立で、街道上で一、二を争う古さの建築物となっている。
康源寺の前からいかにも旧道らしい道が左手に伸びているので、そちらに進んでいく。
旧道に入ってすぐに三体の石像が並んでいる。真ん中の不動明王には「清水不動妙王」と刻まれている。
このあたりの大崎集落は「大崎の石屋」と言われるぐらい今でも多くの石材店が点在している。「千草石」と呼ばれる若草色の輝石安山岩が近隣の五日市山や猪野山で採掘され、これを加工して墓石や記念碑、鳥居など様々な用途で利用された。
慶応元年(1865年)建立の筆塚。儒学者・医者の小池蓮蹊の顕彰碑だという。医師として従事する傍ら、天保年間〜明治期にかけて寺子屋での教育にもあたった。
幟立の石柱がぽつんと立っていた。近くにある白山神社へは街道から直接向かうことができないが、かつては参道があったのだろうか。
再び上越市に入り西田中の集落へと差し掛かる。ここに諏訪社があった。常夜灯と社号碑のデザインが独特。
石沢踏切で妙高はねうまラインを越える。前掛けの花柄が特徴的な地蔵尊があった。