気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2022/07/31

【歩き旅・ルート】北国街道・善光寺街道 〜金銀と参拝者を運んだ道〜



江戸時代、参勤交代が実施されるようになると、日本各地から大名が江戸に駐留する機会が増え、江戸の街には武家屋敷が多く建設された。それと同時に大名の家族や家臣も江戸に集まり、武家人口が爆発的に増加する。そうすると大名相手に商売を行うような商人・町人の数も増え、最盛期の江戸の人口は正確な記録は無いものの、130万人であったという推計もあるほどである。享和元年(1801年)の産業革命真っ只中であったイギリス・ロンドンの人口は約86万人というから、江戸が世界一の都市であったという説もあながち間違いではないかもしれない。

江戸時代の人口は、江戸、大坂、京の三都市に集中していたのは予想が付きやすい。では、4番目は何処の都市だったのか。一説には御三家・尾張藩の本拠地であった「名古屋」が挙げられる。そして、もう一説には「加賀百万石」でお馴染みの「金沢」であったと考えられている。

今回紹介する北国街道は江戸と金沢を結ぶために整備された街道の一つ。江戸から現在の長野県にあたる信濃国までは中山道を利用し、中山道・追分宿から道を分かち北上していく。越後国(新潟県)・高田宿付近で北陸道(北陸街道)と合流し、金沢に至る。

高田から先は金沢とは逆方向の北東方向に日本海沿いを進む街道が伸びている。これは佐渡の玄関口である出雲崎までの街道で、佐渡藩の参勤交代や佐渡の金山から採掘された金銀の輸送にも使われていた。寛文11年(1671年)に西廻り航路の寄港地として新潟湊(現在の新潟港)が指定されると、出雲崎から新潟までの区間も北国街道と呼ばれるようになった。そのため、文献によって出雲崎を起点にするか、新潟湊を起点とするかが異なっている。

途中善光寺を経由するため善光寺街道とも呼ばれるが、中山道・洗馬宿から北国街道・篠ノ井追分宿を経由して善光寺に至る道を善光寺街道(北国西脇往還)とも呼ぶ。また、屋代宿から牟礼宿まで千曲川東側を通るルートを松代道(北国東脇往還)と呼ぶこともある。

今回は、
  • 中山道の追分から善光寺までの区間
  • 善光寺から高田までの区間
  • 高田以降の区間
に分けて踏破することにした。
現時点では高田から柏崎の間、笠島というところで中断している。

また、最初の区間を歩いたのは平成真っ只中の2015年。現在とは様々なものが異なっている可能性があるので注意されたい。
さらに、当時はブログに記事を載せることをあまり意識していなかったので、道中の写真はかなり少なめ。全体的にさっぱりとした記事になっている。

ルート

(中山道)追分ー小諸ー田中ー海野ー上田ー坂木ー上戸倉ー下戸倉ー矢代ー篠ノ井追分ー丹波島ー善光寺ー新町ー牟礼ー古間ー柏原ー野尻ー関川ー田切ー二俣ー関山ー松崎ー荒井ー(北陸道)高田

高田以降の北国街道も、北陸道(北陸街道)と呼ばれることがある。
高田ー黒井ー潟町ー柿崎ー相川ー鯨波ー柏崎ー宮川ー出雲崎ー寺泊ー福井ー稲島ー赤塚ー新潟

行程