【歩き旅】碑文谷道 その②
わくわく広場の向かいの細道を入ったところに「国藏五柱稲荷大明神」があった。小さな祠で由緒も不明である。「国藏」とは何を指すのだろうか。「五柱」は祀っている神様の数であろうが、祭神の記載等はなかった。なお、2020年頃に隣の区画に移転し、その際に社殿などが新調されたようなので、永く地元に根づいた神社なのだろう。
京極稲荷神社という小祠があった。ここは讃岐国丸亀藩主・京極家の下屋敷「戸越屋敷」があった場所。地元の野菜などを上屋敷に共有していたことから、地域住民と京極家の結びつきも強く、明治4年(1871年)の廃藩置県により京極家が帰国する際、屋敷内にあった神社を地域住民に譲り、現在に至っている。
変速十字路の後地交差点に差し掛かる。この北側にあるライフ武蔵小山店の入り口脇に、朝日地蔵尊がある。寛文7年(1667年)の造立とされ、九品仏の浄真寺を開山した珂碩上人が芝増上寺に通う際、このあたりで朝日が登ることから朝日地蔵と呼ばれるようになっという。
祠の前にある道標は寛政元年(1789年)に建てられた道標で「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれている。後地交差点は「地蔵の辻」とも呼ばれており、北に向かうと目黒不動尊、西に向かうと碑文谷仁王尊に向かう分岐点となっている。近くに煤団子を売る店があったことから「煤団子の辻」とも呼ばれていた。
平和通りを進んでいき、目黒区に入る。目黒平和通り商店街は戦前に映画館があったことで一帯が発展していたが、空襲の被害に遭った。終戦後すぐにバラック街が形成され、現在の商店街の礎を築いた。鉄道の駅に接続しない商店街は淘汰されてしまうことが多いが、目黒周辺は人口の多さもあって、現役の商店街が幾つか残っている。
商店街を抜けた先に鬼子母神堂がある。境内の説明では元和2年(1616年)にこの地に勧請したというが、品川区西小山の摩耶寺にあったものを明治年間に移設したものだという話もある。
境内の脇には石碑がいくつか建てられており、僅かにこんもりしている。これは「法界塚」として戦国時代以前より記録が残る古塚で、法華寺(圓融寺)の経塚(経典を埋納した塚)か古墳と考えられている。
圓融寺の東門手前、目黒区立碑小学校のグラウンド前に庚申供養塔がある。元々圓融寺の門前にあったものを再建して移設したもののようで、昭和31年(1956年)の比較的新しい供養塔である。
境内に入り東門からの参道を進むと、本堂が見えてくる。阿弥陀堂とも呼ばれるこの建物は昭和50年(1975年)建立で、本尊の阿弥陀如来像を安置している。
阿弥陀堂の南側にある一回り小さなお堂は、旧本堂である釈迦堂。室町時代初期の建立とされ、東京都区内最古の建造物である(都内最古は東村山市の正福寺地蔵堂)。昭和25年(1950年)には国の重要文化財に指定されている。昭和27年(1952年)に防災の観点から銅葺きに改められたが、かつては茅葺きであった。
さらに南に進めば仁王門が大きな口を開けている。正確な建立時期は不明だが、仁王像が造立された永禄2年(1559年)と同時期と考えられている。江戸時代に寛文期・元禄期の二度に渡って大規模な改修を行っているため、建立当時の原型はほとんど残っていないという。
そして仁王門の両脇を固めるのが黒仁王尊像。現在はガラス張りになっていて、写真を撮ると反射してほとんど見えないが、確かに阿吽の仁王尊像があった。元禄11年(1698年)に圓融寺が天台宗に改宗後、黒仁王尊ブームによって多くの町人が集まるようになると、信心深い信徒が断食修行を行うための「お籠堂」が仁王門の周囲に設置され、仁王尊の底にも人が入れる空間が設けられていた。
仁王像は長らく造立時期が不明であったが、昭和42年(1967年)の解体修理の際、吽形像の体内から作者と祈願年が記された木札が発見され、永禄2年(1559年)に造られたことがわかった。昭和44年(1969年)には東京都の重要文化財に指定されている。
碑文谷道は圓融寺までの道のりとして完歩したが、ついでに近くの碑文谷八幡宮にも立ち寄ってみる。創建は不明だが、鎌倉時代に畠山重忠の守護神を祀ったことに始まるという。ここには神仏分離令が発令されるまで、圓融寺の子院である神宮院が置かれていた。
境内には「碑文石」と呼ばれる梵字が刻まれた石が安置されていた。室町時代頃に制作されたものとされるが、その目的などは不明である。この石が「碑文谷」の地名の由来とされている。
ここで本日の小旅行は完了とする。