気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2020/04/19

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day2



2日目は時間がなかったので、八幡宿から船橋宿までのショートウォーク。

とりあえずまずは八幡宿の由来にもなった葛飾八幡宮で安全祈願。寛平年間(889〜898年)に京都の石清水八幡宮より下総国の総鎮守として勧請したことに始まるという。
平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など名立たる人物から信仰を集めていたという。


八幡宮の参道には巨大な「改耕碑」がある。
これは明治44年(1911年)に八幡村が中心となって組織された耕地整理組合によって建てられたもの。当時この一帯は水はけの悪い土地で、耕作が十分に行えなかった。そこで、江戸川の流路を変更したり、排水路の掘削を行うなどの大規模な工事を行い、大正8年(1919年)に工事が完了。翌年の大正9年(1920年)に葛飾八幡宮で竣工式を行った記念に建てられた碑である。


葛飾八幡宮と国道14号を挟んで反対側に神社があった。「不知森神社」と書かれた扁額を備えた鳥居のバックには鬱蒼とした竹林が広がっている。この場所は「不知八幡森(しらずやはたもり)」と呼ばれる場所で、通称「八幡の藪知らず」として知られる。江戸時代の頃より禁足地とされ、一度踏み入ると二度と出てこれない場所という伝承が残る。
なぜこの場所が禁足地となったのか複数の説があり定かではないが、広辞苑にも一般名詞として「八幡の藪知らず」という言葉が「入ったら出られない場所や迷路」という意味で掲載されるほど。現在では心霊スポットとして有名になっている。


街道は真間川を越える。川沿いには桜並木が広がっており、あと1週間早ければ見頃の中を歩くことができた。真間川は万葉集にも登場する「真間の入江」跡とされ、古くより風光明媚な場所だったという。


鬼越二丁目のT字路に、古そうな家が建っている。ここは地元の名主であった中村家の旧味噌醸造所であった。中村家は明治時代に馬糧商(馬の飼料などの販売)を営んだことから始まり、2代目の勝五郎氏は旧中山町の町長も務めた。中山競馬場の誘致にも奔走し、現在でも中山競馬場に銅像が建っているという。若手芸術家の育成にも努め、昭和21年(1946年)には日本画家の東山魁夷が味噌蔵の2階を間借りして生活していた。
またここから分岐する木下街道(きおろしかいどう)の起点でもある。


中村家の道を挟んで向かい側に少しいくと 高石神社がある。大多喜城主の正木内膳亮時総が奇石を祀り、これを「高石神」と呼ぶようになったことに由来するという。近辺の土地を分割する際、片方を「鬼越」、もう片方を「高石神」と名乗り、どちらも現在でも残る地名となっている。


京成電鉄中山駅方面へ街道をそれると、寺に向かって参道が伸びているが、これは法華経寺への参道である。その途中に大きな高麗門が構えている。山門の赤門に対して黒門と呼ばれる門で、扁額は掛川藩主・太田資順(おおたすけのぶ)のが書いたものである。


法華経寺は文応元年(1261年)開基とされる、日蓮宗の大本山にあたる寺院。日蓮の死後に門人の日常(富木常忍)が法華寺を設置し、中山門流と呼ばれる一派を形成していた。室町幕府との政治的なつながりを持ち、天文14年(1545年)に足利晴氏より「法華経寺」の称号を得た。
江戸三大鬼子母神にも数えられるなど、全国的に信者を集め、世界三大荒行の一つ「百日大荒行」が行われることでも知られるようになった。


小栗原稲荷神社に立ち寄る。ここから多聞寺の裏山までの一帯は、かつて小栗原城があった場所とされる。鎌倉時代には千葉氏の家臣・栗原氏が周辺を治めていたため栗原郷と呼ばれ、江戸時代前に成瀬正成によって栗原藩が設置されると、小栗原城は廃城になったと考えられている。


多聞寺は九老僧(日蓮宗の日朗の高弟9人)の一人・大圓阿闍梨日傅(日典)聖人により永仁6年(1298年)に創建したと伝わる由緒のある寺院。山門前の碑に書かれた「祖師御作開運多聞天」とは、日蓮が作ったとされる多聞天(毘沙門天)を指し、境内の堂内に安置されているという。


多聞寺と街道を挟んで反対側には湧水が点在する。この辺りはかつて二子浦と呼ばれており、中世以前には海と繋がっていたと考えられている。また、日蓮が鎌倉へ船で向かう際に利用した場所(降り津)だったとの伝説もあり、多聞寺はその霊跡の近くに建てたものだと伝わる。


文政6年(1823年)銘の庚申塔。旧本郷村と旧二子村の境と思われる位置に建っている。どちらも明治22年(1889年)の町村制施行時に葛飾村となり、葛飾町を経て現在では船橋市の一部となっている。


中山競馬場入口の交差点を越えると左手に葛飾神社がある。創建年代は定かではないが、かつては一郡総社葛飾大明神とも称しており、大正5年(1916年)にこの地にあった熊野権現社と合祀され現在に至るという。

東側にある勝間田公園はかつて「勝間田の池」という湧水池が広がっており、江戸名所図会に紹介されるほどの風光明媚な場所として有名であった。しかし人口増加に伴い、昭和45年(1970年)に埋め立てられ、現在の公園へと姿を変えた。


街道に沿って勝間田公園を越えたあたりの左手の民家の一角に庚申塔と祠が置かれていた。寛政12年(1800年)のもので、時代が比較的新しいこともあってか文字がはっきりしている。台座には「是よりかまかや道」と刻まれているという。


同じ敷地内に「無線電信所道」と刻まれた碑がある。これは日露戦争後に塚田村行田(現:船橋市行田)に設置された海軍無線電信所船橋送信所への道を示したもの。船橋送信所は真珠湾攻撃の際に、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電文を送信したことで知られる。現在は行田公園として整備されており、送信所特有の円形の道路区画が残されている。


鬱蒼とした木々の間を抜ける長い参道が特徴の山野浅間神社に立ち寄る。旧山野村の村人が富士浅間神社より勧請したことで創建され、鎌倉後期〜室町前期には存在していたと考えられている。

山野台と呼ばれた高台に位置することもあり、近年まで富士山を実際に拝むこともできたという。


国道は総武線を跨線橋で越えるが、街道はその手前で左に折れる。その先の跨線橋の脇に「式内元宮入日神社」というなんとも仰々しい名前の神社への案内板があったので、そちらを見てみる。そこにはこじんまりとした鳥居と社殿があった。

どうやらヤマトタケルが東征の際、下総国へ上陸した場所がこの地と伝わるようで、船橋大神宮の元宮とも言われているという。かつて海神を祀っていたこともあるようで、現在地の地名「海神」の由来地とも考えられている。


跨線橋を越えたところで街道を少し離れ、海神念仏堂に立ち寄る。海神小学校付近にあっとされる善光寺が戦国の動乱で消失し、その本尊である阿弥陀如来像が元禄年間に寄進されたことに由来するという。飾り付けられた祭壇の周りを太鼓や鉦を打ち鳴らしながら踊る「天道念仏」が有名で、江戸名所図会にも記載されるほとである。

観音堂の脇に元禄7年(1694年)の銘が入った道標が置かれている。「右いち川みち 左行とくみち」と刻まれたこの道標は、行徳街道と水戸佐倉道・成田街道のと分岐点に置かれていたもの。


だんだんと背の高いビルが増えてくると船橋の中心街に近づいているのがわかる。その一角に西向地蔵尊がある。この辺りが船橋宿の出入口付近とされる。

万治元年(1658年)の地蔵尊、延宝8年(1680年)の阿弥陀如来像、元禄9年(1696年)聖観音像など年代も仏も様々であるが全て西側を向いて鎮座している。


船橋宿の中心あたり、本町一丁目で本日は終了とする。

2020/04/09

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day1 その②



市川側の渡船場あたりから旧道が伸びているので、僅かばかりに寄り道する。旧道が国道14号(千葉街道)に出たところは「市川広小路」の交差点名。ここに胡録神社があった。
御祭神は面足命(おもだるのみこと)と惶根命(あやかしこねみこと)。人体の完全性を神格化した神であることから、健康長寿など様々なご利益を持つ。
また2柱は神代七代の六代目であることから、仏教における第六天魔王と同一視されており、元々第六天神社と呼ばれていたものが、明治の神仏分離時に「胡録神社」と称したと考えられる。
市川市内には胡録神社が5ヶ所もあるというから、第六天信仰の地域的な盛り上がりが感じられる。


国道14号に沿って進む。ここから船橋までは右手にJR総武線、左手に京成本線が街道に沿って走っているので、途中で歩くのをやめやすい区間でもある。

中央分離帯に「旧三本松」の看板が掲げられていた。
ここにはかつて3本の黒松が聳え立っており、市川の象徴的なランドマークであった。明治天皇の巡行の際にはその立派な姿に賛辞を賜ったという。
松は車の交通量が増えると枯れ始めてしまい、昭和10年(1935年)には伐採が行われ2本となった。最終的には、昭和33年(1958年)の道路拡張工事に伴って完全に伐採されてしまった。
今でも三本松があった辺りには「三本松」の名称を店名などに取り入れている施設があり、市川市民の心の拠り所となっている。


歩道上に「青面金剛」と刻まれた碑がある。結構邪魔な位置にあるので、もしかしたら昔はここまで宅地があってセットバックしたのかもしれない。石碑をよく見ると下部に三猿らしき膨らみ、上部に太陽と月をあしらった彫り物があり、庚申塔として建てられたことがわかる。
「東 八わた十六丁 中川一里」「西 市川八丁 江戸両国三り十丁」と刻まれているという。この場所は市川村と市川新田村の境にあたる地点である。


しばらく進むと再び胡録神社がある。この新田胡録神社は新田春日神社と同じく菅野白旗天神社が管理しており、祭りも同一日に行われるという。創建年代は不明だが、承応2年(1653年)に再建された記録が残っている。


曲がり角に石碑が2基建っている。一基にははっきりした文字で「左 宮久保山道」とある。「宮久保山」は市川市宮久保にある高円寺の山号。樹齢200年とも言われる長寿藤の名所である。
もう一方は寛政11年(1799年)の道標で「右 や王多道 左 春可野道」と刻まれているという。「や王多」は「やわた(八幡)」、「春可野」は「すがの(菅野)」を指す。この場所は市川新田村と平田村の境でもある。


平田諏訪神社に立ち寄る。
境内に入ると砂地に松が植えられており、この辺りが市川砂州と呼ばれる砂地でできた地形であることがわかる。拝殿の脇には一番御柱、二番御柱が奉納されており、本家信濃の諏訪神社さながらの雰囲気を漂わせている。


本八幡駅前の交差点に到着。左手に京成電鉄八幡駅、右手に総武線本八幡駅、足元が都営新宿線本八幡駅である。

近くにある葛飾八幡宮の門前町として成立した集落が、江戸時代に初期に八幡宿として宿駅指定された。新宿から八幡宿までは道中奉行の管轄で、これより先は佐倉藩が管理していた。隣の船橋宿までの距離が1里15丁(約5.5km)と短いこともあり、本陣・脇本陣は設置されず、宿泊にもあまり使われなかったという。

アクセスが良いこともあり本日はここまでとする。

2020/04/07

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day1 その①



今回の旅の起点となる新宿(にいしゅく)は、北条氏によって拓かれた集落である。大永5年(1525年)、古利根川を挟んで対岸にあった葛西城を攻略した北条氏綱は、葛西城を下総方面の進出の基点に位置づけていた。その進出の先駆け事業として行ったのが葛西新宿の整備である。史料が残る永禄11年(1568年)頃には整備されていたと考えられており、河川と街道の交通が交わる要衝となっていた。


追分を出てすぐ、石碑がまとめられている場所がある。ここにあるのが葛飾区で現存最古の道標「角柱三猿浮彫道標」である。元禄6年(1693年)建立の道標には「これより右ハ 下川原村 さくら海道」「これより左 下の割への道」と刻まれているという。


新金貨物線の高砂踏切を渡り、左手に大きめの寺が見えてくる。崇福寺は慶長3年(1600年)に日本橋浜町に建立された「崇福庵」にはじまり、徳川幕府の大老四家の一つ・酒井家の江戸での菩提寺として栄えた寺院である。明暦3年(1657年)の明暦の大火で消失した際に浅草に移転し、大正12年(1923年)の関東大震災で被災した際に現在地に移転してきた。


京成金町線の線路を越えると左手に桜道小学校がある。おそらく佐倉街道にちなんだものかと思うが、この先あたりから「旧佐倉街道」と書かれた現代の道標がところどころに設置されている。街道沿いには桜並木も広がり、街道沿いであることを意識した景観が作られており、「さくらみち」という通称名がつけられている。


江戸川区に突入すると道の名前が「親水さくらかいどう」に変わる。


親水とあるように、歩道沿いには小川が整備されて桜の花びらが流れて花筏ができていた。


親水さくらかいどうが江戸川土手にあたるあたりに大きな水神碑がある。江戸時代に水不足で悩んでいた小岩田村の石川善兵衛が中心となって、江戸川から農業用水を引いたことを讃えるものである。親水さくらかいどう沿いを流れる小川も、この功績を忘れないようにという思いから整備されたものだという。


水神碑そばの祠には石像・石碑がいくつか並んでいる。その一番右にあるのが、慈恩寺道の道標を兼ねた地蔵菩薩碑である。正徳3年(1713年)建立の石碑で、「これより右岩付慈恩寺道、岩付まで七里」「これより左千住道、千住より弐里半」と刻まれているという。
岩槻慈恩寺は埼玉県さいたま市(旧岩槻市)にある天台宗の寺院。江戸時代に江戸町民などの間で流行した坂東三十三箇所巡礼の第12番札所である。


街道は江戸川に差し掛かる。東京都と千葉県の境界を担う川であるが、江戸期には房総に対する要衝であったため架橋されず、市川の渡しで渡船していた。明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまでは渡船が運航していたという。


江戸川沿いに南下すると、公園が付帯した小岩田天祖神社がある。天正年間に創建したと伝わる神社で、現在の本殿は文政10年(1827年)に再建されたもの。


門前に青面金剛と馬頭観音像が置かれている寺院は真光院。「上小岩遺跡通り」という通称がある門前の東西に伸びる通りは、古代東海道の跡とされている。
かつては茅葺の本堂であったが、昭和47年(1972年)にコンクリート造りに建て替えられ、現在に至っている。


京成本線の江戸川駅を越えたところに再び慈恩寺道の道標がある。この辺りはかつて御番所町と呼ばれ、関所(=御番所)前の町であった。
またこの場所は両国方面から伸びる元佐倉道(旧千葉街道)との合流地点ともなっている。


小岩市川の渡しは室町時代には設けられていたとされる。現在は廃止されているので、近くに架かる市川橋で江戸川を渡る。
市川橋を渡ると千葉県に突入する。江戸時代は下総国であった。


堤防の上に冠木門が物々しく立っており、この辺りに関所があったことを知らせてくれる。
関所ができたのは万治年間(1658〜1661年)で、江戸川および利根川最下流の関所として重要視され、人の往来だけでなく船の運行の監視も行なっていた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では市川・船橋戦争と呼ばれる戦いがあり、軍事上の要衝であった関所近くでも戦闘があった。関所は明治37年(1904年)に廃止されるまで存続していた。

いまでは私のような人間でも関所を通過できるのだから、ありがたいことである。

【歩き旅・ルート】水戸佐倉道・成田街道 〜新勝寺を目指す道〜


水戸佐倉道の役割

戦国時代の佐倉は、本佐倉城に千葉氏の本拠地があり、この城は秀吉の小田原征伐では後北条氏の支城となった。天正18年(1590年)、北条方の敗戦によりに千葉氏が改易となり、城は徳川氏に接収された。
家康関東入府後の慶長15年(1610年)、本佐倉城に佐倉藩の藩庁が置かれて以後、佐倉は東国の防衛拠点としての役割を担うこととなる。その軍事拠点と江戸とを結ぶために整備されたのが、佐倉街道(水戸佐倉道)である。

江戸町民の娯楽だった成田詣

江戸時代が始まり暫くすると、それまでの武士主体の世は、町人が活躍する時代に移り変わっていった。
経済的に余裕ができた江戸の町人は、有名な観光地に旅行することを娯楽とするようになった。特に人気だったのは伊勢神宮への「お蔭参り」。東海道を西へ進み、日永追分で伊勢参宮街道を使い向かう。しかし伊勢までは15日程かかり、道中の宿泊費や食費、船賃など出費はかなり多く、資金や日程の準備のハードルが高かった。遠出したいけど行きづらい、そんな町人に打ってつけだったのが、江戸近郊の寺社仏閣への参拝であった。その一つが成田山新勝寺への「成田詣」であった。

新勝寺の開山は天慶3年(940年)、平将門の乱平定の平和祈願を目的として作られたと伝わる。
元禄元年(1688年)、当時人気を博していた歌舞伎役者の初代市川團十郎が新勝寺で子宝を願掛けし、二代目團十郎を授かったことから成田詣の人気が加速し、元禄16年(1703年)には深川永代寺で出開帳を行うまでに至った。この頃から「佐倉街道」ではなく「成田街道」と呼ばれることが多くなったという。
この人気が現在まで続き、移動手段が鉄道に変わった現在でも、初詣で人気のスポットとして「不動」の地位を築いている。

印旛沼・手賀沼の北側を回る水戸街道に対して、成田街道は南側を回るルートを取っている。成田山への登り区間以外は高低差もほとんどないため、非常に歩きやすい道のりであった。

(水戸街道新宿)ー市川宿ー八幡宿ー船橋宿ー大和田宿ー臼井宿ー酒々井宿ー成田宿ー寺台宿ー成田山新勝寺


1日目 2017/04/16 新宿追分〜八幡 その① その②
2日目 2017/04/22 八幡〜船橋 その①
3日目 2017/07/08 船橋〜ユーカリが丘 その① その② その③
4日目 2017/12/09 ユーカリが丘〜本佐倉 その① その② その③
5日目 2017/12/10 本佐倉〜成田山新勝寺 その① その② その③ その④