江戸時代の年号を覚えたい その②
※ここまでのまとめ
(中期)元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応)
ここでは年号と結び付きの強い「飢饉」と「大火」について調べてみた。
江戸時代初期は慢性的に凶作・飢饉に悩まされており、それが最大化したもの。
西日本を中心とした飢饉。これにより米価が高騰し、江戸で享保の打ちこわしが発生した。
東北地方を中心とした飢饉。これにより農村部から都市部に人口が流入し、治安が悪化。全国で打ちこわしが多発した。これら諸事により田沼意次が失脚し、事態の脱却を図るため寛政の改革が行われることになる。
洪水や冷害による凶作に伴う飢饉。百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発し、大塩平八郎の乱にも繋がった。
参考:Wikipedia|江戸四大飢饉
(初期)寛永の大飢饉→…
→(中期)元禄文化→享保の改革→天明の大飢饉→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応)
江戸の町について調べていると必ず引っかかるキーワードなのではないだろうか。この火事で江戸は一掃され、その教訓として回向院の建立、広小路の設置、隅田川東岸の宅地拡大をはじめ、江戸の都市計画が大きく変更される契機となった。
目黒行人坂にある大円寺での放火が原因となった火事。目黒から出火し千住まで広がった。その後の建物の修復や再建において資材が不足し、物価がそれまでの10倍になってしまった。これら災難が明和九年(迷惑年)という年号によるということから、この年に「安永」に改元された。
芝で出火し浅草まで延焼した火事。下谷にあった組屋敷が全焼し、空き地で朝顔の栽培を始めたところ、江戸に朝顔ブームが広がることとなった。
ここまでをまとめると次のようになる。
(初期)寛永の大飢饉→…→明暦の大火
→(中期)元禄文化→享保の改革→明和の大火→安永に改元→天明の大飢饉→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応)
ここまでで13個の年号が挙った。
ここからが難しいところになってくる。
(中期)元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応)
ここでは年号と結び付きの強い「飢饉」と「大火」について調べてみた。
飢饉
- 寛永の大飢饉
江戸時代初期は慢性的に凶作・飢饉に悩まされており、それが最大化したもの。
- 享保の大飢饉
西日本を中心とした飢饉。これにより米価が高騰し、江戸で享保の打ちこわしが発生した。
- 天明の大飢饉
東北地方を中心とした飢饉。これにより農村部から都市部に人口が流入し、治安が悪化。全国で打ちこわしが多発した。これら諸事により田沼意次が失脚し、事態の脱却を図るため寛政の改革が行われることになる。
- 天保の大飢饉
洪水や冷害による凶作に伴う飢饉。百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発し、大塩平八郎の乱にも繋がった。
参考:Wikipedia|江戸四大飢饉
(初期)寛永の大飢饉→…
→(中期)元禄文化→享保の改革→天明の大飢饉→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応)
江戸の大火
- 明暦の大火(振袖火事)
江戸の町について調べていると必ず引っかかるキーワードなのではないだろうか。この火事で江戸は一掃され、その教訓として回向院の建立、広小路の設置、隅田川東岸の宅地拡大をはじめ、江戸の都市計画が大きく変更される契機となった。
- 明和の大火(目黒行人坂の大火)
目黒行人坂にある大円寺での放火が原因となった火事。目黒から出火し千住まで広がった。その後の建物の修復や再建において資材が不足し、物価がそれまでの10倍になってしまった。これら災難が明和九年(迷惑年)という年号によるということから、この年に「安永」に改元された。
- 文化の大火(丙寅の大火)
芝で出火し浅草まで延焼した火事。下谷にあった組屋敷が全焼し、空き地で朝顔の栽培を始めたところ、江戸に朝顔ブームが広がることとなった。
ここまでをまとめると次のようになる。
(初期)寛永の大飢饉→…→明暦の大火
→(中期)元禄文化→享保の改革→明和の大火→安永に改元→天明の大飢饉→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応)
ここまでで13個の年号が挙った。
ここからが難しいところになってくる。