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今回のスタート地点は旧東海道と南番場通りの交差点から。この南東にはかつて東海道品川宿の問屋場があり、後に同じ建物に貫目改所が設置された。物価の高騰によって江戸庶民が生活が逼迫したことで起きた慶應2年(1866年)の打ち壊しは、この場所での襲撃を発端に武州・上州への一揆に波及していったという。
品川宿には幕府公用の旅人に向けた馬小屋が設けられ、その一帯を馬場町と呼んだ。これが宿の南北にあったため、それぞれ南馬場・北馬場と呼ばれていた。この名残が残る「南番場通り」を西進すると、京急本線の高架下をくぐる。その高架下に新馬場駅がある。高架ができる前は「北馬場駅」と「南馬場駅」がそれぞれこの北側・南側にあったが、昭和51年(1976年)の高架化により2駅が統合され、中間地点に新馬場駅が誕生した。
南品川四丁目交差点で国道16号を横切る。そこから先はゼームス坂通りとなる。慶應2年(1866年)に来日したJ.M.ゼームスは長崎のグラバー商会で勤務する傍ら、幕末志士と関係を深め、海援隊の関義臣をイギリスへ密入国させる手伝いをするなどしていた(台風により遭難して失敗に終わった)。明治20年代に品川の「浅間坂」という坂の近くに住んでいたが、地元の人が苦労して上り下りしていたのを見かねて、私財を投じて坂を緩やかにした。その出来事に親しみを込め、その坂はいつしか「ゼームス坂」と呼ばれるようになったのだという。
そんなゼームス坂通りは天龍寺前で南進するためここでお別れとなる。天龍寺は天正9年(1581年)に松平忠昌の生母・清涼院によって創建。門を入って左手には大正7年(1918年)に発生した碑文谷踏切事故で列車に撥ねられ死亡した犠牲者と、事故の責任を感じて後追い自殺した2名の踏切番を供養する「碑文谷踏切責任地蔵尊」が置かれている。
天龍寺の外壁の一部には古そうなレンガが使われている。これは戦前まで大井町駅西口付近にあった鐘淵紡績・大井工場で使われていたレンガを、昭和40年(1965年)の工場解体時に移設したもの。明治から昭和初期にかけて国内企業売上高1位を記録していた鐘淵紡績は、合併や事業分割などを繰り返し、2001年(平成13年)に「カネボウ株式会社」に社名変更した。繊維事業等の赤字を賄うために粉飾決算を繰り返すことが常態化し、その結果、平成19年(2007年)に破綻寸前で解散することとなった。
その先には日本ペイント東京事業所。明治14年(1881年)に光明社として創業し、帝国海軍に船体塗料を納入するなど、国産塗料製造のリーディングカンパニーとして君臨していた。東京事業所は明治29年(1896年)に南品川工場として設置された敷地を受け継いでいる。
事業所の入り口に道標が置かれている。享保21年(1736年)建立の道標で、「左ひ文や道」「右めくろ道」と刻まれている。かつてはこの近辺が目黒不動尊と碑文谷圓融寺との分岐点であった。
日本ペイントの敷地内に赤レンガの建物があり、内部が見学できる。この建物は明治42年(1909年)に建てられた日本最古の油・ワニス工場であったもので、現存する品川区内最古の西洋建築物。現在は「明治記念館」として、工場時代に利用されていた機械や日本ペンとの歴史がわかるような展示物を見ることができるようになっている。
「碑文谷ガード(碑文谷架道橋)」でJRの線路をくぐる。天龍寺の地蔵の事件があった碑文谷踏切はかつてこの場所にあったようだ。ここは品川区で目黒区碑文谷へはまだ距離があり、碑文谷道に由来して踏切名や架道橋名が付けられていたとみられる。
道は再び線路に阻まれる。この内側はJR東日本の東京総合車両センターへの引き込み線。この先に行くために、北側に大きく迂回して跨線橋を渡る。
線路の西側に出てくる。ここに妙光寺があるが、ここに隣接するように明治28年(1895年)に「妙華園」と呼ばれる植物園があった。約1万坪の敷地の中に当時珍しかったランやスイレンなどの西洋植物や小動物園を併設したテーマパークのようになっており、一時は向島百花園を凌ぐ名所だったというが、周辺地域の工業化に伴い、大正10年(1921年)に閉園した。
JR横須賀線、東海道新幹線に阻まれるが、今度は北三ツ木ガードをくぐって向こう側へ。ここから先はいくつかルートが考えられるが、古そうな三ツ木集落の中心地を通る道を選択した。
百反通り交差点で国道1号線を横切り、首都高速2号目黒線の下をくぐる。桐ケ谷交差点で都道2号線を横切り、旧中原街道も横断する。旧中原街道は江戸・虎ノ門を起点に東海道平塚宿の中原御殿までを結ぶ脇往還。東海道が海に近いルートを通っているのに対して、中原街道は内陸の高い位置を通っており、水害を避ける等の目的で現行の東海道ルートに代わって付け替えが検討されたこともあったという。