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2021/06/20

【雑記】電柱番号から見える少し昔の風景



地名は淘汰される

世の中には「無用になった地名」が存在する。

そもそも地名というのは、その地域・地区・集落などを同定するために使われた名前で、時代の流れや利便性により変更・淘汰が繰り返されるものであり、これは必然である。

かつて「江戸」と呼ばれた地域は、新しい時代の幕開けと共に「東京」と改められた。街道の分岐点に形成されていた「内藤宿」が正式に「内藤新宿」として整備されたが、いつしか短縮して「新宿」という呼称が定着した。

明治時代になるとそれまで存在していた自然村の大規模な統廃合が行われた。明治21年(1888年)に71,314あった村々は、翌年に市制・町村制が施行されるとその数は15,859にまで減少した。このとき合併前の村名は「大字」、村内の細かい集落や耕地を「小字」として住所表記する際などに利用していた。

しかし、戦後の区画整理や都市部を中心とした地番整理・住所表示などが進むと、住所としての字の有用性は失われてしまい、別の地域名に置き換わったり「○丁目」の表示に集約されたりするなどして、日常的に我々が目にする機会は少なくなった。

わずかに残るかつての小字

特に都市部ではかつての小字名を見かける機会は少ないが、いくつか残されている姿を見かけることができる。例えば、民家の表札に住所を併記していることがあるが、古い家だと住所表示前の小字を使って記載していることがある。また町内会名、神社の氏子名など、集落単位での活動が必要とされる場面では、現行の町名ではなくかつての小字をそのまま利用している例も多い。その場合「○○地区」や「○○区(市区町村の区とは異なる)」といった表記で明確に集落名を示している地域もある。

小中学校名や公園名、バスの停留所にも小字名が残る場合がある。東京都品川区南品川にある「浅間台小学校」は大正9年(1920年)に開校し、当時の地名である荏原郡品川町南品川宿字浅間台に由来する。

他にも知られるのが自動販売機の設置場所記載シール。防犯上の取り組みとして、道に迷った人などが現在地を確認したい場合などに、自動販売機を見れば住所がわかるよう、小字名まで詳しく書いている場合がある。

電柱番号をみてみよう


実は電柱番号にもかつての小字が使われているものがあるという話を耳にした。

電柱番号とはざっくり言えば電柱の「住所」である。基本的に町中にある全ての電柱には電柱番号が付与されており、警察や消防などではこの番号を伝えることで位置情報と連動して場所を把握できるようなシステムを導入していたりする。

電力会社によって記載方法が若干変わるようだが、例えば上図の場合は右上にロゴがあるため、電柱の所有者がNTT東日本であると判別できる。NTT東日本の場合、「本村支」は標識名、「2」は電柱番号、「2021」は設置年を表しているという。さらに標識名の「支」は支線を表している(他に「幹」=幹線があることを確認している)。つまり、この電柱は2021年に設置された本村支線の2番目の電柱であるということがわかる。(設置年については、電柱が再設置されたときに更新されることもあるようなので、かつての地名を調べる際には同じ路線の他の電柱も参考にしたほうがよさそうである。)

古い地名を調べる上で着目すべきは、もちろん標識名。上図でいう「本村」に注目する。

この電柱の所在地は東京都練馬区豊玉中3丁目だが、「本村支」の標識名の電柱は南に豊玉南3丁目の中野区境まで延びる。この辺りに「本村」という住居表示は無い。ここから少しずつ時代を遡ってみよう。

昭和22年(1947年)、練馬区が板橋区から独立する。それ以前、本村支線があった地域は「東京都板橋区豊玉中、豊玉南」であった。

昭和18年(1943年)、東京都制施行。以前は「東京市板橋区豊玉中・豊玉南」であった。

昭和15年(1940年)、初めて「豊玉」という地名が生まれる。それ以前は「中新井」であったが、近くに中野区の新井薬師があるなど紛らわしい状態だったため改称されたという。以前は「東京市板橋区中新井町三丁目・四丁目」であった。

昭和7年(1932年)、東京市板橋区が新設され、中新井村が板橋区に編入され中新井町となる。以前は「東京府北豊島郡中新井村大字中新井」であった。このとき、中新井町四丁目となった町域には「大字中新井字本村」があった。

長々と記載したが、つまり旧中新井村の小字であった「本村」が現在でも電柱の標識名に残されているのである。

残されているのは地名だけではない

本村周辺の他の電柱番号にも同様に小字名が残されているのではないかと調べていたのだが、実はあまり良い例が見つからなかった。一方で地名ではない「昔のもの」が残されている例がいくつかあったので紹介したい。

豊玉北6丁目近辺にある「市場」という支線名は、昭和39年(1964年)まで現在のアイカ工業東京支店の場所にあった、東京卸売市場淀橋市場練馬分場を表しているものと考えられる。

豊玉北5丁目近辺にある「産経」という支線名は、現在鍼灸治療院になっている場所にあった産経新聞の販売店から取ったものと考えられる。

この記事の冒頭に写真を載せている「鐘紡」は、練馬駅北側に昭和45年(1970年)まであった鐘淵紡績練馬工場を指しているのだろう。

このように電柱番号には、電柱が電気を供給しているという性質からか、「建物」や「施設」の名前を冠しているものが相当数あることがわかってきた。これらを紐解くことで少し昔の町の様子を窺い知ることができそうである。実は調査の過程で由来が不明な電柱番号が数多く発見されたので、その解明を引き続き行っていきたいと思う。

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その④


南都鏡神社に立ち寄る。鏡神社は佐賀県唐津市に本社を構えており、天平・天平神護年間に福智院に勧請された。現在地には大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守社として移設され、延享3年(1746年)には春日大社の本殿第三殿が譲渡された記録が残っている。明治の神仏分離によって、新薬師寺から独立した形で現在に至っている。


鏡神社の隣には新薬師寺。奈良時代に官立寺院として創建されたものとされるが、天平19年(747年)に聖武天皇の后である光明皇后によって建立されたという記録も残る。
国宝の本堂は奈良時代の現存する遺構として貴重であり、七間のうち中央の三間の柱間を他よりも少し広くとっているのが特徴的である。本堂の内部には同じく国宝に指定されている十二神将像などの仏像が安置されており、内部に仏像を置くことを見越して柱間を設計したことが窺える。


境内にある石仏群。六字名号の隣には地蔵十王石仏。中央の地蔵の周りによく見ると小さい人型がいくつか掘られており、これが十王である。わかりにくいが右手は阿弥陀如来の来迎印のように親指と人差し指を結ぶ形をつくっており、大和郡山市の矢田寺に多くあることから「矢田型地蔵」と呼ばれている。


その隣(写真左端)の半肉彫り如来像は手印の形が中世以降の石仏には見られないスタイルで、奈良時代後期の作造と推定されている。その右隣から永正3年(1506年)の地蔵菩薩、鎌倉後期の阿弥陀如来、大永5年(1525年)の地蔵菩薩と並ぶ。


新薬師寺の東側の道を進むと右手に不空院がある。奈良時代に鑑真和上がこの地に移住したと伝わり、平安時代に空海が興福寺南円堂を作る際、鑑真住居跡に八角円堂を試作したことが創建の由来とされる。その名の通り不空羂索観音を本尊とする寺院で、鎌倉時代作と伝わる本尊は国の重要文化財に指定されている。不空羂索観音は藤原氏の信仰仏とされ容易に作成されなくなったため現存する観音像は少ない。


突き当りを右折するが、この道は旧柳生街道。柳生新陰流や剣豪の町として有名な奈良市柳生町までを結ぶ。この道に沿って進んでいくと左手に地蔵尊がある。江戸時代末期頃、酒屋の武内新六という人物が酒代の徴収のため柳生へと向かった際、水を汲みに川に下ったところに地蔵が横たわっていたものを祀ったものだという。


その先の角地に「空也上人居跡」の碑。空也上人といえば六波羅蜜寺に安置されている口から6体の阿弥陀如来が飛び出す像で有名であるが、ここ隔夜寺がその居跡だという。空也上人は隔夜修行の開祖と言われる。隔夜修行は、隔夜寺(かつては隔夜堂)と初瀬の長谷寺を宿坊とし、この2箇所を1日ごとに念仏を唱えながら参拝する修行を1000日以上行うもので、大正時代まで続いていたという。


隔夜寺の角を左折すると、目の前に常夜灯と森への入り口が現れた。この森こそ、全国に約1,000社ある春日神社の総本社でユネスコ世界遺産にも指定されている、春日大社の境内地である。「上の禰宜道」という高畑町に住む禰宜が使っていたという道を通り、春日大社国宝殿前の表参道に合流する。2日間に渡った「山の辺の道」の行程としては、ここでひとまずゴールとする。もちろん折角なので、春日大社に参拝していく。二之鳥居をくぐる。


閑かな上の禰宜道とはうってかわって、人の多い表参道を進んでいく。当時は「インバウンド」という言葉が持て囃された時期でもあり、参拝客もアジア系外国人の姿が目立つ。しばらく緩やかな上り道を進んでいくと、本殿の周りを取り囲む朱色の回廊が見えてくる。本殿の正面に位置するのが国の重要文化財でもある南門。元々鳥居として使われていたものを、治承3年(1179年)に楼門に改めたものである。


本殿の撮影については禁止されており、一通り参拝・見学して後にした。
回廊の外側、南門の西側にあるこじんまりとした神社は摂社の榎本神社。一見地味な神社だが、延喜式神名帳の「春日神社」がこの神社だといわれている。つまり春日大社が創建される以前から、この地に祀られていたと考えられている。そのため、明治時代までは春日大社の参拝者はまず榎本神社に参拝し、その後春日大社の本殿を参拝するという風習があった。


折角なので鹿も愛でておく。奈良時代に常陸国から神様が白鹿に乗ってやってきたことから、神の使いとして神聖化されている奈良の鹿。現在では奈良公園を中心に1,300匹ほど生活しているという。


折角なので興福寺にも立ち寄る。興福寺の象徴・五重塔は天平2年(730年)に藤原不比等の娘である光明皇后の発願によって建立されたもの。現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建されたものとされる。現存する木造塔では東寺の五重塔に次いで日本で2番目の50.1mで、国宝にも指定されている。


五重塔の隣には同じく国宝に指定されている東金堂。神亀3年(726年)に聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を祈願して建立したもので、現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたもの。建物もさることながら、内部に安置されている国宝の十二神将像、四天王像、維摩居士像、文殊菩薩像、国指定重要文化財の薬師如来像、日光菩薩像、月光菩薩像の迫力ある姿も壮観である。


時間も遅くなってきたので、最後に南円堂を見学する。南円堂は弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が父の内麻呂の冥福を祈って建立したもの。本尊は不空院と同じく不空羂索観音で、観音が鹿皮を身にまとっていることから、鹿を神の使いと考える春日社の思想とも結びつき、藤原氏の信仰を集めた。現在の建物は寛保元年(1741年)に立柱、寛政元年(1789年)に再建されたもので、朱色の八角円堂は開けた興福寺境内の中でも不思議と目立つ存在となっている。

これにて2日間に渡る奈良の旅は完結とする。