気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2025/07/06

【歩き旅】北国街道 Day8 その①



前回の北国街道散歩からほぼ1年後、再び高田駅に舞い戻ってきた。天気はすこぶる快晴だが、これが今回の歩き旅で波乱をもたらすことになろうとは。


高田宿を北へ向かい、前回歩いた奥州道と北陸道の分岐地点までやってきた。今回の歩き旅では、ここから西へ奥州道を進むこととする。


城下町らしく左右に折れ曲がりながら旧街道を進む。往下橋で青田川を渡る。青田川は高田城の外堀としての意味もあった。


街道に沿うように雁木が伸びている。雁木は火災の延焼の観点で言えばあまり優れたものではなく、新潟県が雁木廃止令を出したこともある。これにより新潟市内の雁木はかなりの数が姿を消したが、なぜかそれ以外の地域ではあまり徹底されることなく、高田のような町並みが残ることとなった。


直江八幡宮の案内に誘われると、鳥居にかかる扁額には「江埜神社」の文字。かつて直江津にあった式内社・江野神社の論社で、慶長17年(1612年)高田城築城の際に松平忠輝が遷座したもの。江戸時代以降、直江八幡宮と呼ばれるようになったという。


くねくねしながら旧街道を進んでいくと、川岸に「史跡 稲田口番所跡・史跡 高田銭座跡」の碑がある。高田城下への人や物資の出入りを取り締まるため、伊勢町口番所、陀羅尼口番所、そして稲田口番所が設けられていた。

また、銭座は江戸幕府によって設けられた銅貨の鋳造機関・組織で、当初は江戸の芝や近江坂本などにしかなかったが、銅銭の需要が高まるにつれて日本各地に次々と設けられるようになってきた。その際にここ高田の地にも設置された。

※2025年現在、この碑は道を挟んで向かいの暁光ひろばに移設されている模様。


稲田橋で関川を渡る。関川宿手前で長野から新潟に突入したときに越えて以来、久々に関川を跨ぐことになる。


対岸に渡った先にも更に雁木が続いている。街道は上越信用金庫のある交差点で県道186号に沿って北上する。雁木通りは次の信号で東側に折れるが、街道は曲がらずにさらに北上を続ける。


右手の神明社の敷地には、松の大木や御大典記念碑などが並ぶ。


寺交差点の手前に十二神社がある。新潟県の中山間部に点在する神社で、上越地方と旧魚沼郡に集中している。山の神としての意味合いがあると考えられている。

大日の集落に入ると、右手に「だいにちスローライフビレッジ」という高齢者住宅併設の複合型施設があった。朝食がてら施設内のパン屋でコロッケパンを購入。これが出来立てということもあり、めちゃくちゃ美味かった。人生一のコロッケパンにここで出会うことになるとは。


左手にこじんまりとした祠と碑がある。特に説明は無いが、ここが大日一里塚跡だという。祠は地蔵堂とされ、祠の左手にある碑には六字名号が刻まれている。徳本上人と義賢行者のものが併記されており、2名の六字名号が刻まれている点で珍しいという。


富岡の交差点を越えると、右手にそこそこ広い境内を持つ若宮八幡宮がある。誉田別尊を祀っているという。


若宮社の道を挟んで向かい側に、飯塚哲朗記念碑と飯塚哲朗の説明板がある。飯塚哲朗は、明治6年(1873年)に富岡に生まれ、中頸城郡新道村の村長を務めた人物。小学校の増築や、耕地整理などに尽力し、その功績を称えて旧邸宅跡地であるこの地に記念碑が建てられている。


北陸自動車道をくぐって左手に大道用水の碑がある。大道用水は子安新田や中々村新田を灌漑するため慶安年間(1648〜1652年)に開削された。ここまでの道中、県道186号に沿って進み始めたあたりから街道の右左にちょこちょこ水路が見え隠れしていたのだが、それが大道用水だったようだ。昭和46年(1971年)に水路がコンクリート化されるに伴い、正確には現在は「大道子安用水」として管理されている。