【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day4 その①
4日目はユーカリが丘よりスタート。
セブンイレブン佐倉上座店前に、ぽっきり折れた道標があった。明治27年(1894年)の道標で、これまで何度か出てきた岩田長兵衛によって建立されたもの。だいぶ昔に一度折れ、少なくとも10〜20年前くらいには繋げられて1本になっていたが、何かの拍子にまた折れてしまったようだ。
志津小学校に向かう看板がある信号の脇に、志津村道路元標がある。この場所は旧志津村の中心地で、役場は街道の向かい側あたりにあったという。志津村は昭和29年(1954年)の佐倉市制定の際に合併して消滅している。
北へ向かっていた街道が東へ進路を変えた辺りの民家の一角に縁結神社があった。見た目が新しかったこともあり、私設の神社かと思ったが、どうやらこの辺りが畑だったころから祠があったという。神社の奥の祠には道祖神が祀られており、そのご利益から縁結神社と呼ぶようになったという。
上座総合公園の周囲を回るように向かう街道の右手に、前回にも見た皇産霊神社があった。平成18年(2006年)の道路拡張工事に伴い、奥に並べられた出羽三山碑とともに現在地に移設されたという。写真では見にくいが、鳥居の奥に天保〜平成まで新旧の出羽三山碑が並べられているという。
街道は川に向かって坂を下っていく。その途中左手に広場があり、祠や石碑があった。ここはかつて寺院があったとされる場所で、不動堂などが残されている。
奥には太子堂や馬頭観音碑群、僧侶の墓石とみられるものなどがあり、ここがかつて寺院だったことが伺える。馬頭観音碑の一つ、明治45年(1912年)の銘が入ったものには、「此れより東生ヶ谷」と刻まれているという。馬頭観音碑群はもともとユーカリが丘駅の東側にあったもので、生谷(おぶかい)集落への道標を兼ねていたものと考えられる。
手繰川を手繰橋で渡ってすぐに国道から逸れた道へ。臼井台へは急な上り坂になるが、その入口には印象的な高くそびえる木があるので目印になる。
住宅街の合間を縫うように坂を登る。途中、長谷津児童公園に立ち寄る。ここは、かつて臼井城五砦(宿内砦、洲崎砦、稲荷台砦、仲台砦、田久里砦)の一つに数えられた「田久里砦」があった場所だという。解説板の脇には、祠や石碑がまとめられている。
永久二年(1114年)に臼井城を築城した臼井六郎常康によって、市川道(おそらく成田街道の前身となる道?)からの防衛を目的としたものと考えられる。
弥右衛門坂(手繰坂・田久里坂とも)で臼井台を登りきった丁字路に道標がある。文化3年(1806年)頃に建てられたとされ、「右 成田ミち」「西 さくば道」「左 江戸みち」と刻まれているという。作場道は「農道」を意味する。
東西にまっすく伸びる道を南下するように妙覚寺へと向かう道が伸びる。その墓地の入口に「雷電」と記された巨大な力士像碑がそびえ立っている。
雷電為右衛門は信濃国大石村(現在の長野県東御市)出身の江戸時代に活躍した力士。生涯幕内成績は254勝10敗2分という驚異の勝率で、大相撲史上最強と謳われており、その名を知っている人は多いことだろう。臼井宿にあった甘酒屋の娘・八重と結婚したことから、近くで巡業があった際には臼井に足を運んでいた。
晩年も臼井で過ごした雷電は、1825年(文政8年)に59歳で死去。墓地は定かではないが、推定地の一つがこの顕彰碑の近く、廃寺となった浄行寺跡にあり、妻の八重と娘と共に眠っている。