【歩き旅】山の辺の道 Day2 その①
山の辺の道2日目。石上神宮より北上して平安神宮を目指す。楼門前を東に進み、神宮の奥へと進む道がルートに指定されている。
駐車場に「奈良高樋」と刻まれた碑。ここより手前が高樋集落であった。
石上神宮の敷地を抜けると、布留川へ降りていく道がある。ここに掛かるなんの変哲もない橋は「布留の高橋」と呼ばれる。もちろんこの橋は近年架けられたもので、かつての正確な位置は不明だが、万葉集にも詠まれるほどの橋であった。当時の技術としては川底から相当高い位置に掛かっていたようで、珍しいものとされていたのだろう。
また、この橋周辺に住んでいた人が「高橋」姓を名乗り、それが全国に散らばったことから、「高橋」姓のルーツの地とされている。
車道に出てしばらくすると、道は未舗装路へと入っていく。その先に「豊日神社」があった。創建由緒など不明だが、火雷天神を祀る社で、豊日別(とよひわけ)ではない。
未舗装路を抜けると、鬱蒼とした藪へ進む道(豊田山城)と舗装路(東海自然歩道 迂回路)との分岐点に出てくる。手元の地図は迂回路を進むように案内されていたが、よりアドベンチャー感が高そうな藪道へと歩みを進めてみた。季節柄、藪はかなり深く、腰ほどの高さまで草が伸びている箇所もあり、それをかき分けながら進む。この道を選択したことを後悔してきた頃に「豊田山城跡」の案内板があった。
豊田山城は室町時代中期に布留郷で勢力を振るっていた豊田氏の居城で、明応7年(1498年)頃に落城したと考えられている。現在でも土塁や空堀が残っているというが、今回は立ち寄らなかった。
山の辺の道沿いには「橘(たちばな)」が植えてある箇所が点在している。橘は古くから日本に自生していた柑橘類だが、現在では数も少なくなっているが、なぜ山の辺の道沿いに植えてあるかというと『古事記』や『日本書紀』に縁があるからである。『日本書紀』では、垂仁天皇の部下・田道間守(たじまもり)が天皇の命により「非時香果(ときじくのかくのみ)」を常世の国に探しにいくが、持ち帰ったときには天皇が崩御しており嘆き悲しむというエピソードがある。この「非時香果」が「橘」であると考えられている。
草に埋もれて「狂心の渠(たぶれごごろのみぞ)」についての説明板があった。第37代斉明天皇は宮殿の東山に石垣を築くため、飛鳥と石上山(現在の豊田山)を結ぶ運河を建設し、天理砂岩と呼ばれる石を切り出して運河で輸送した。運河の建設に延べ3万人、石垣の建設に7万人を動員したものの、石垣は崩れ事業は失敗に終わった。このことから、当時の人々に「狂心の渠」として避難された。
道は竹藪へと突入する。
竹藪の中に石上大塚古墳がある。古墳時代後期・6世紀後半の増築と推定されている前方後円墳で、全長107mというサイズはこの時代の古墳の中ではかなりの規模だという。後方部の埋葬施設が破壊されており、そのおかげと言っていいのかわからないが、露呈した石室内部の様子の見ることができる。
石上低区配水池の貯水タンクの間を抜け、名阪国道の下をトンネルで抜ける。鉄塔の脇の道を上がっていくと白川ダムがある。元は昭和初期に農業用の「白川溜池」として作られたものだったが、それを嵩上げして1995年(平成7年)に治水ダムとして再整備された。現在ではへらぶな釣りで有名とのこと。ダム沿いの道を進んでいき、当時ハマっていたダムカードもしっかり収集した。
白川ダムを沿いを抜けたところは丁字路になっている。手元の地図では道を下っていく方の道を推奨しているが、路傍の道標は道を上るほうを指し示している。下ってから上るか、上ってから下るかの違いではあるが、今回は地図に従って下り坂をチョイスした。
天理市から奈良市に突入する。両方のルートの合流地点となる場所には溜池のようなものがあり、その脇に文政4年(1821年)建立の道標が置かれていた。「右 いが いせ 左 こくうぞう寺 道」と刻まれているようで、五ヶ谷街道を利用して伊勢神宮へ向かう際に、虚空蔵寺(弘仁寺)を経由する参拝者も多かったのだろうと推察できる。
道標の脇の道を入ればすぐに弘仁寺が現れる。弘仁5年(814年)空海により創建されたと伝わり、虚空蔵菩薩を空海自ら彫り、それを本尊としたという。元亀3年(1572年)には松永久秀により伽藍の大部分が消失したが、寛永6年(1629年)に再建された。現在では「高樋の虚空蔵さん」の通称で親しまれ、十三詣りが有名となっている。
弘仁寺の奥の院と言われる不動堂があり、弘法大師の作と伝わる不動尊像が鎮座している。弘仁寺がある虚空蔵山は修験道の信仰対象であったといい、その関係で設けられたものなのだろうか。山の辺の道は境内を抜け、東門より出る。
県道187号を横切り、五ヶ谷街道と伝わる道に合流する。五ヶ谷街道は大和郡山市外川の富雄街道から奈良市帯解で上街道(初瀬街道)を横切り、五ヶ谷を経由し、宇陀市三本松で青越伊勢街道と合流するまでの道筋を指すことが多い。
五ヶ谷街道を北進していくと、道中に「山上 大峯 八拾八度供養」と刻まれた石碑があった。奈良県南部の天川村にある大峰山(山上ヶ岳)は、日本の修験道発祥の地とされ、現在でも山上ヶ岳周辺は女人禁制が敷かれている。関西など一部地域では修行に行かないと成人として認めないという通過儀礼もあったようで、そういった修行を八拾八度実施したことを記念した碑なのであろう。