気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2022/08/13

【歩き旅】北国街道 Day4 その③



「十五丁」と刻まれた石が置かれていた。この善光寺までの距離を表した丁目石をカウントダウンしながら善光寺を目指す。


かるかや山前交差点を超えた右手に西光寺がある。創建した苅萱(かるかや)上人には妻子がいたが、出家後に訪問されるのを嫌い、それまでいた京都から高野山へ移る。子の石堂丸が後を追って尋ねるが、苅萱上人は父であることを隠し、父は他界したと嘘を教える。この話に嘆いた石堂丸は苅萱上人に弟子入りを懇願し、しぶしぶ許可されるが、その後再び一人で旅に立ち、善光寺如来に導かれて正治元年(1199年)にこの地に草庵を開いたものが西光寺の始まりである。

刈萱上人はこの地で亡くなるが、後を追って石堂丸もこの地で入寂している。本尊の木造苅萱親子地蔵尊像(来迎地蔵尊像)は苅萱上人・石堂丸親子による作と伝わる。

元禄14年(1701年)の善光寺本堂普請の際、西光寺に奉行所が置かれた。善光寺本堂が落成した後に、善光寺仮堂が西光寺に寄贈されて本堂となったことから、善光寺参拝の際に多くの参拝客が立ち寄るようになった。


善光寺参道から枝分かれして多くの小路がある。西光寺の先には「しまんりょ小路」があった。分岐点にある栽松院がかつて裾花川の中洲にあり、「島の寮」と呼ばれていたことから転訛して「しまんりょ」になったという。


大門交差点あたりからいわゆる表参道が伸びていたようだ(写真は大門南交差点)。善光寺の門前町として発展した善光寺宿は、町年寄の支配下にあった善光寺八町(大門町、後町、横町、新町、東町、西町、岩石町、桜小路)と、二大塔頭の善光寺大勧進(天台宗)直属の横沢町、善光寺大本願(浄土宗)直属の立町(2町を両御所前という)で構成された。


門前の八幡屋礒五郎は宝永年間創業の七味唐辛子の店の本店。日本三大七味(江戸浅草・やげん堀、京都清水・七味屋本舗、信州善光寺・八幡屋礒五郎)に数えられており、他の三大七味屋では使われていない素材としては「生姜」が特徴的。店舗向かって右隣りにある「藤屋旅館」が旧本陣の「ふぢや平五郎」。


善光寺交差点から善光寺の境内に入っていく。北国街道はここで右折してさらに北へと進んでいくが、本日は一大イベント・善光寺詣へと向かう。

平成27年(2015年)の4月5日〜5月31日は7年に一度の「善光寺御開帳」が行われていることもあり、この人出である。善光寺の本尊は絶対秘仏であるが、7年に一度のこの時期には本尊の身代わりとして、まったく同じ姿の「前立本尊」を本堂に遷座して、参拝できるというものである。


参道を歩き仁王門を潜る。宝暦2年(1752年)に建立されたものの、弘化4年(1847年)の善光寺地震などによって焼失し、現在の仁王門は大正7年(1918年)に再建されたもの。


こちらは向かって右手の吽形。仁王像は近代日本彫刻の第一人者・高村光雲と弟子の米原雲海の作。頭身のバランスや筋肉の造形に西洋的な表現を取り入れている。後世に永く残るように着色を施さず、経年によって現在の色味が表れている。


向かって左手の阿形。実は阿吽の配置が一般的な仁王門と逆になっている。これは冬至の朝、すべての始まりを象徴する「阿形像」に朝日が、終わりを象徴する「吽形像」に夕日が当たるような配置にしているためとも言われている。


仁王門から山門までは仲見世通りが賑わいを見せている。元々この場所には如来堂があったが、度重なる火災により境内北方へと移転した。その空き地に商店が集まるようになり、現在では宿坊、土産屋、飲食店など約50店が軒を連ねる。また、本堂へ続く石畳は約7,777枚あると言われる。


寛延3年(1750年)建立、重要文化財の山門にたどり着く。門の上部には有名な「鳩字の額」が掛かる。文字の中に5羽の鳩と「善」の字が牛の顔に見えるというもので、享和元年(1801年)輪王寺宮公澄法親王の筆である。


ついに本堂にたどり着く。宝永4年(1707年)建立の本堂は、国宝指定されている木造建築物の中で4番目に大きい。本堂を上から見ると奥の方が横方向に伸びており、「T」の形をしている。これが鐘を叩く「撞木」の形に似ていることから「撞木造り」と呼ばれる建築様式である。

本堂最奥左側が「瑠璃壇」と呼ばれる一角で、ここの厨子の中に本尊の一光三尊阿弥陀如来がある。この仏像は日本に仏教が初めて伝来した際に渡ってきたものの一つと伝えられているが、絶対秘仏のため7年に一度の御開帳でもその姿を見ることはできない。


御開帳では絶対秘仏の本尊の代わりに、同じ姿の「前立本尊」が宝庫から本堂に安置され、これを拝むことができる。前立本尊は鎌倉時代に作られた重要文化財。一目見ようと思っていたが、この日は休日ということもあり2時間待ちの列ができていたので、生きていればまた拝める機会もあるだろうと今回は断念することにした。

代わりというわけではないが、御開帳の期間には本堂の前に巨大な卒塔婆・「回向柱」が建てられる。この柱は前立本尊の右手中指と「善の綱」で結ばれており、回向柱に触れることで阿弥陀如来との結縁を結ぶことができるというものである。今回はこの柱に手を触れながら、旅の無事と世界平和を祈願しておくこととした。


戦国時代に一度荒廃した善光寺は、江戸時代に徳川家康の加護を受けるなどして再興する。その後町人文化が台頭してくると、多くの参拝客を集めてさらに善光寺は発展していくこととなる。

山門まで戻り、これに登ってこれまで来た参道を眺める。都市化された長野市街地のビル群を背景に、多くの参拝客がこちらへ向かってくる。現代では観光的な要素も強くなっているかと思うが、それでもどこかで拠り所を求める人々が多くいる。きっと人間の考え方や願望というのは、それほど昔と変わっていないのであろうと、そんなことを信州の風に当たりながら感じるのである。

2022/08/12

【歩き旅】北国街道 Day4 その②



丹波島橋で犀川を渡る。明治6年(1873年)に46艘の船を並べた舟橋が架橋され、明治23年(1890年)には木橋が架けられた。当初の舟橋・木橋は民間会社で運営されていて有料だったが、明治30年(1897年)に県に移管され、無料の橋となった。現在の橋は昭和61年(1986年)に架橋され、舟橋から数えて4代目にあたる。


橋には各時代毎の様子を描いたレリーフが埋め込まれている。絵にもあるように犀川の流れは急だったため、両岸に綱を渡し、それを手繰り寄せながら渡る方法で渡船を行っていた。


風に煽られ帽子が飛ばされそうになりながら、そして謎の羽虫に襲われながら橋を渡り切ると、橋の北詰の東西に常夜灯がある。写真は西側の文政6年(1823年)建立のもの。東側には文政3年(1820年)建立の常夜灯が立ち、これは現存する中で北国街道で最も古い常夜灯だという。


常夜灯の脇には欄干のデザインを担当した長野県出身の切り絵作家・柳沢京子氏の意匠解説があった。


街道は住宅街の合間を縫っていくと、左手に吹上地蔵堂が現れる。文政元年(1818年)造立の延命地蔵尊が安置されており、かつてはこの前に高札場があったという。また、善光寺四十九名所の一つ・行人塚はかつては吹上地蔵堂の境内にあったが、その後同じく四十九名所の一つ・木留神社境内に移転した。


住宅街を真っ直ぐ進む道が伸びる。この辺りの現行住所は「若里」だが、平成11年(1999年)まで旧荒木村域を「大字荒木」としていたこともあり、「荒木」を冠する建物も多い。


左手に蓮心寺がある。法然上人の弟子である朝日入道蓮心坊興隆が建久6年(1195年)に創建したと伝わる。裾花川の上流から流された善光寺造営用の木材が犀川に流れ込もうとした際、阿弥陀如来が現れて風を吹き寄せ、木材の流失を防いだという伝説から、本尊の阿弥陀如来は「風吹如来」とも呼ばれる。蓮心寺に隣接して木留神社が鎮座している。阿弥陀如来が吹き寄せた木材を陸に揚げて、この神社に留め置いたことに由来するという。


街道は線路に遮られるので跨線橋で反対側へ渡る。ちなみに長野駅東口側は訪問後に開発が進み、令和2年(2020年)にはこの付近に長野駅西側を南北に行き来できるアンダーパス(長野市道西608号線のアンダーパス)ができた。この写真の風景はもう過去のものになっている。

跨線橋を渡り、ホテルメトロポリタン脇を進んで長野駅南交差点に出る。さすが長野駅前だけあって、これまでで最も交通量が多い。さらに駅前の雑多なビル街を抜けると末広町交差点に辿り着く。そろそろクライマックス。この中央通りを真っすぐ行けば善光寺だ。

2022/08/11

【歩き旅】北国街道 Day4 その①



4日目は川中島駅よりスタート。川中島駅交差点で街道へ復帰する。


少し進むと左手に新田共同井戸がある。明治10年台に新田組二十三戸の共同井戸として採掘されたもの。昭和30年(1955年)に上水道が整備されるまで常用されていた。


丹波島交差点の手前に「浄生庵」の扁額がかかったお堂があった。これは元禄年間に丹波島宿の問屋を営んでいた柳島市郎左衛門によって創建された観音堂(浄生庵)で、祠の中には観音菩薩と延命地蔵尊が安置されている。


丹波島交差点を直進すれば丹波島宿となる。ここに宿場の案内板があったが、水準点までプロットされているのは珍しく感じた。


案内板の先に宿場の鎮守・於佐加神社がある。寛文2年(1662年)に諏訪河原より移設された神社で、境内には秋葉社、弥栄社、三峰社など9社が祀られている。街道は神社前で90度折れ、枡形になっている。


丹波島宿は慶長16年(1611年)、それまでの松代道がメインルートだった北国街道が矢代の渡し経由に変わった際に開設された宿場で、この後に控える犀川の渡し手前の宿場ということで賑わいを見せた。幹線道路からも外れたことから、現在では閑静な住宅街となっている。


宿場中程に高札場が設置されている。これは平成23年(2011年)の北国街道丹波島宿開設400年を記念して、当時と同じ場所に復元されたものだという。


高札場の隣には元問屋場の柳島家がある。立派な松を従えた冠木門の門前には「明治天皇丹波島御膳水」の碑が置かれている。


問屋跡の数軒先には「本陣」の表札を掲げた門がある。ここが丹波島宿の本陣で、問屋と同じく柳島家が務めていた。柳島家は元々甲斐武田家の家臣であり、北国街道開設の際に柳島家3代目の柳島太郎左衛門政雄が丹波島宿の開設に携わり、本陣を委任されている。


本陣向かいの細い道が旧松代街道で、松代藩の藩庁でもあった北国東往還(松代道)の松代宿へと向かう。以前紹介した北国東街道は善光寺の東側を迂回するルートを採るが、松代からこの道を利用して丹波島を経由すれば、善光寺へ向かうことができたというわけである。


宿場の東側は再び枡形になっており、北側へと90度折れる。右手の蔵造りの建物の屋根に小さい飾りがあるが、これは「鍾馗(しょうき)様」と呼ばれるもの。一説には鬼瓦によって跳ね返された邪気を鬼より強い鍾馗によって防ごうという考えから、街道の入口や家に設置されるようになったという。屋根に設置するものは近畿地方や中部地方で多く見られるといい、丹波島宿では5軒ほどの民家で設置されているのを見ることができる。


街道は犀川の土手に差し掛かる。ここに丹波嶋の渡し碑がある。かつては1kmほど下流に設置された「市村の渡し」がこの辺りの主要な渡し場だったようだが、北国街道の整備や犀川の洪水や増水に伴う流路変更に伴い、上流の丹波島の渡しの整備が進んだ。犀川の水かさが増してくると、年平均60日もの川留めが発生するようになり、難所としても知られていた。

2022/08/10

【歩き旅】北国街道 Day3 その④



屋代信号で国道18号に合流する。「市道升の浦線」の案内に沿って側道に入り、用水路沿いの道を進む。北陸新幹線の線路を頭上に見ながら、長野自動車道更埴ICのトンネルを抜ける。土手に突き当たるがかつてはこの道の延長線上を屋代の渡しで千曲川の対岸に渡っていた。ここからかなり東に迂回していき、篠ノ井橋で迂回して千曲川を渡る。


篠ノ井橋は明治5年(1872年)に12艘の船を並べて作られた舟橋を起源とし、明治22年(1889年)に木橋が架橋された。現在の橋は昭和47年(1972年)に架替えられた橋を平成6年(1994年)に道路拡幅工事に伴い拡張したもの。


千曲川を渡ると遂に長野市へと突入する。


土手を西へと向かい、対岸の渡しの発着場付近へと向かう。


矢代の渡しの対岸に位置するところに軻良根古(からねこ)神社がある。「軻良根古」は田畑を荒らす大鼠を退治する「唐猫」に由来するという。ここに矢代の渡し跡の説明板がある。天保14年(1843年)にはここに渡し船があった記録が残っている。


その先に「明治時代の更級郡制の中心地」の案内板があった。北国街道上のこの場所に郡役所を中心とした更級郡の関連役所が集まっていた。更級(さらしな)という地名は古く、奈良時代の木簡にもその地名が記されていた。しかし、平成17年(2005年)に大岡村が長野市に編入されて更級郡は消滅したため、実は地名としての「更級」は現存していない。


道は丁字路に突き当たる。ここに篠ノ井追分宿跡の碑がある。突き当りを左に向かう道が善光寺西街道(北国西街道)で、稲荷山宿、桑原宿、麻績宿、青柳宿、会田宿、刈谷原宿、岡田宿、松本宿、村井宿、郷原宿を経て中山道・洗馬宿へと向かう。篠ノ井追分宿はあくまで間の宿であったが、北国街道と善光寺西街道の追分ということと、千曲川の舟運の集積地として発展し、無許可で宿泊業を経営する者も多かったという。


北国街道は突き当りを右に進む。岡田川に架かる見六(みろく)橋で再び街道は北方向へと90度進行方向を変えるが、この橋の袂に道標がある。嘉永2年(1849年)の道標で「せんく王うし道」と刻まれているもので、平成の見六橋の架替え工事で川の中から発見されたものだという。


駅前通り手前の一角に「やすらぎ通り」と名のついたスナック街があった。奥の方には年季が入ったお店の看板が立ち並んでいる。


篠ノ井駅の様子を観察する。JR信越本線・篠ノ井線、しなの鉄道しなの鉄道線が乗り入れている駅だが、この日はあまり人出があるような感じではなかった。


驥山館(きざんかん)への側道入り口のところに秋葉神社と天神社がならんで覆殿に祀られていた。向かって左にあるのは蠶(蚕の俗字)碑だろうか。


芝沢交差点手前に万延元年(1860年)建立の庚申塔がある。裏面に「布施高田村」とあるが、このあたりは大正に入って篠ノ井町になるまで布施高田村であった地域である。


左手に蓮香寺の楼門が見える。貞治6年(1367年)に川中島原で創建され、慶長元年(1596年)に現在地に移転してきた。平成10年(1998年)の長野オリンピックでは、ドイツチームのゲストハウスとして利用された。


写真では見えづらいが、日の屋の横・大久保家の門前に「明治天皇原御膳水碑」がある。このあたりはかつての原村にあたり、間の宿として機能していた。


親鸞聖人御舊跡(御旧跡)と刻まれた碑がある。ここを左に曲がれば親鸞に縁のある唯念寺にたどり着く。唯念寺は嘉元三年(1305年)に親鸞の弟子・和田新四郎義包(よしかね)によって創建された。義包は和田義盛(鎌倉幕府の侍所別当)の嫡男・新左衛門尉常盛の四男にあたる人物。


JR川中島駅に到着。少し早めだが疲れてしまったので本日はここで終了。

川中島といえば武田信玄と上杉謙信との戦いである「川中島の戦い」が想起されるが、古戦場は街道から少し離れたところにあるということで、今回は立ち寄るのを断念した。