【歩き旅】北国街道 Day4 その③
かるかや山前交差点を超えた右手に西光寺がある。創建した苅萱(かるかや)上人には妻子がいたが、出家後に訪問されるのを嫌い、それまでいた京都から高野山へ移る。子の石堂丸が後を追って尋ねるが、苅萱上人は父であることを隠し、父は他界したと嘘を教える。この話に嘆いた石堂丸は苅萱上人に弟子入りを懇願し、しぶしぶ許可されるが、その後再び一人で旅に立ち、善光寺如来に導かれて正治元年(1199年)にこの地に草庵を開いたものが西光寺の始まりである。
刈萱上人はこの地で亡くなるが、後を追って石堂丸もこの地で入寂している。本尊の木造苅萱親子地蔵尊像(来迎地蔵尊像)は苅萱上人・石堂丸親子による作と伝わる。
元禄14年(1701年)の善光寺本堂普請の際、西光寺に奉行所が置かれた。善光寺本堂が落成した後に、善光寺仮堂が西光寺に寄贈されて本堂となったことから、善光寺参拝の際に多くの参拝客が立ち寄るようになった。
善光寺参道から枝分かれして多くの小路がある。西光寺の先には「しまんりょ小路」があった。分岐点にある栽松院がかつて裾花川の中洲にあり、「島の寮」と呼ばれていたことから転訛して「しまんりょ」になったという。
大門交差点あたりからいわゆる表参道が伸びていたようだ(写真は大門南交差点)。善光寺の門前町として発展した善光寺宿は、町年寄の支配下にあった善光寺八町(大門町、後町、横町、新町、東町、西町、岩石町、桜小路)と、二大塔頭の善光寺大勧進(天台宗)直属の横沢町、善光寺大本願(浄土宗)直属の立町(2町を両御所前という)で構成された。
門前の八幡屋礒五郎は宝永年間創業の七味唐辛子の店の本店。日本三大七味(江戸浅草・やげん堀、京都清水・七味屋本舗、信州善光寺・八幡屋礒五郎)に数えられており、他の三大七味屋では使われていない素材としては「生姜」が特徴的。店舗向かって右隣りにある「藤屋旅館」が旧本陣の「ふぢや平五郎」。
善光寺交差点から善光寺の境内に入っていく。北国街道はここで右折してさらに北へと進んでいくが、本日は一大イベント・善光寺詣へと向かう。
平成27年(2015年)の4月5日〜5月31日は7年に一度の「善光寺御開帳」が行われていることもあり、この人出である。善光寺の本尊は絶対秘仏であるが、7年に一度のこの時期には本尊の身代わりとして、まったく同じ姿の「前立本尊」を本堂に遷座して、参拝できるというものである。
参道を歩き仁王門を潜る。宝暦2年(1752年)に建立されたものの、弘化4年(1847年)の善光寺地震などによって焼失し、現在の仁王門は大正7年(1918年)に再建されたもの。
こちらは向かって右手の吽形。仁王像は近代日本彫刻の第一人者・高村光雲と弟子の米原雲海の作。頭身のバランスや筋肉の造形に西洋的な表現を取り入れている。後世に永く残るように着色を施さず、経年によって現在の色味が表れている。
向かって左手の阿形。実は阿吽の配置が一般的な仁王門と逆になっている。これは冬至の朝、すべての始まりを象徴する「阿形像」に朝日が、終わりを象徴する「吽形像」に夕日が当たるような配置にしているためとも言われている。
仁王門から山門までは仲見世通りが賑わいを見せている。元々この場所には如来堂があったが、度重なる火災により境内北方へと移転した。その空き地に商店が集まるようになり、現在では宿坊、土産屋、飲食店など約50店が軒を連ねる。また、本堂へ続く石畳は約7,777枚あると言われる。
寛延3年(1750年)建立、重要文化財の山門にたどり着く。門の上部には有名な「鳩字の額」が掛かる。文字の中に5羽の鳩と「善」の字が牛の顔に見えるというもので、享和元年(1801年)輪王寺宮公澄法親王の筆である。
ついに本堂にたどり着く。宝永4年(1707年)建立の本堂は、国宝指定されている木造建築物の中で4番目に大きい。本堂を上から見ると奥の方が横方向に伸びており、「T」の形をしている。これが鐘を叩く「撞木」の形に似ていることから「撞木造り」と呼ばれる建築様式である。
本堂最奥左側が「瑠璃壇」と呼ばれる一角で、ここの厨子の中に本尊の一光三尊阿弥陀如来がある。この仏像は日本に仏教が初めて伝来した際に渡ってきたものの一つと伝えられているが、絶対秘仏のため7年に一度の御開帳でもその姿を見ることはできない。
御開帳では絶対秘仏の本尊の代わりに、同じ姿の「前立本尊」が宝庫から本堂に安置され、これを拝むことができる。前立本尊は鎌倉時代に作られた重要文化財。一目見ようと思っていたが、この日は休日ということもあり2時間待ちの列ができていたので、生きていればまた拝める機会もあるだろうと今回は断念することにした。
代わりというわけではないが、御開帳の期間には本堂の前に巨大な卒塔婆・「回向柱」が建てられる。この柱は前立本尊の右手中指と「善の綱」で結ばれており、回向柱に触れることで阿弥陀如来との結縁を結ぶことができるというものである。今回はこの柱に手を触れながら、旅の無事と世界平和を祈願しておくこととした。
山門まで戻り、これに登ってこれまで来た参道を眺める。都市化された長野市街地のビル群を背景に、多くの参拝客がこちらへ向かってくる。現代では観光的な要素も強くなっているかと思うが、それでもどこかで拠り所を求める人々が多くいる。きっと人間の考え方や願望というのは、それほど昔と変わっていないのであろうと、そんなことを信州の風に当たりながら感じるのである。