【歩き旅】水戸街道 Day2 その① 〜チーバくんの口元へ〜
水戸街道2日目は金町駅に降り立ち都道307号線の歩道橋からスタート。旧道へとの分岐点に小さな道標があった。
旧道に入ってすぐのところに神社の標柱があるので奥に進めば葛西神社がある。元暦2年(1185年)の創建で、葛西城城主で当地の領主であった葛西清重が香取神宮を分祀したことに始まるという。
また享保年間に神社の祭りの際に和歌に合わせて和歌囃子を行ったところ、江戸を始め全国に広がったことから祭り囃子の発祥の地とされている。
神社の鳥居の前に文政2年(1819年)建立の庚申塔。この場所は坂東三十三箇所第12番霊場の岩槻慈恩寺に向かう慈恩寺道沿いである。色鮮やかな献花が信仰の篤さを物語っていた。
江戸川の拡張により旧道は川の中となっているので、土手沿いを進む。対岸へ渡るには金町松戸の渡しを利用していたが、当然のことながら既に廃止されている。そのため葛飾橋を利用して対岸の千葉県へ渡ることにする。
千葉県に突入して河川敷を進むと、「是より御料松戸宿」と刻まれた石碑が建っており、松戸宿の入り口を教えてくれる。江戸時代の松戸は天領(御料地)であり、宿場の前後には天領を示す木製の御料傍示杭があった。現在ではこのその付近に石碑が建っている。
松戸宿は江戸川沿いに南北1kmに伸びる宿場町であった。江戸川を利用した水運により、物資の中継地として付近の経済的中心地としての役割を担っていた宿場であった。
宿場の東側にJR常磐線・松戸駅ができると、都心にも近いことから千葉県内のベッドタウンとして発展し、千葉市・船橋市に次ぐ県内第3位の人口を抱える都市となった。
松戸神社に立ち寄る。寛永3年(1626年)創建の神社で、松戸市の総鎮守である。大和武尊が武蔵国に向かう途中、この地で待ち合わせを行ったことから「待つ郷」→「待土(まつど)」という地名で呼ばれるようになったという伝承がある。
ちょうど秋葉神社の例大祭を行っていたようで、出店と人出で賑わっていた。
松戸宿は度重なる大火や都市開発の影響で、往時を偲ぶものがほとんど残っていない。
松戸宿を抜け、常磐線の線路を越え、国道6号に合流する。中根立体入口の交差点から再び旧道に入ったところで、長津川を馬橋で越える。良観上人なる人物が大雨の度によく流される橋を見かねて、馬の鞍の形をした橋を架けたところ流されなくなったという伝説にちなんでいる。
馬橋には萬満寺の門前町があり、松戸宿と小金宿の間の宿として発展していた。
萬満寺前から緩やかな「江戸見坂」を登り、八ヶ崎交差点で国道6号に復帰する地点に文化3年(1806年)建立の道標が立っている。この交差点は印西道との追分となっており、「左水戸街道 右印西道」と刻まれている。
国道6号線沿い、藪に隠れた場所に一里塚跡の標柱が立っている。ここに昭和40年代まで八ヶ崎一里塚があったが、現在遺構は何も残っていない。
そのまま国道を歩くと蘇羽鷹神社が見えてくる。ここは千葉孝胤が治めた三ケ月(みこぜ)の馬橋城があった地とされる。三ケ月という地名は現在も残っており、千葉氏の家紋にも三日月が使われている。孝胤が文明年間(1469年〜1487年)の酒井根合戦で太田道灌に破れたため、馬橋城は廃城になってしまった。
神社自体は天正4年(1576年)創建で、千葉氏が曽場鷹大明神を千葉宗家の居城であった亥鼻城の鬼門に祀ったものである。
境内には力石、庚申塔、姫宮(高城氏の小松姫を祀ったもの)など多くの石碑が置かれていた。庚申堂の中にある二ツ木庚申は猿田彦命を祀っているのだという。
蘇羽鷹神社のそばから再び国道を離れ、旧道を進む。