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歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2019/07/09

【歩き旅】水戸街道 Day5 その③ 〜石岡の歴史を堪能する〜



恋瀬川を渡り石岡市へ。「石岡」は明治時代からの地名で、以前は「府中」と呼ばれた。これは律令制が設置された7世紀に、常陸国の国府が置かれたことに由来するものである。
国道355号からさらに一本旧道へ入った住宅街の一角に、ひっそりと佇んでいる神社も、律令時代のこの地を語る材料となる。

この神社は日天宮と呼ばれ、国府が設置されたと同時期に建立されたとされる。石岡には同時期に建立されたとされる神社が他に月天宮、星の宮(現在は常陸国総社宮に合祀)とあり、当時の人々が民間信仰として天体を崇拝していたことがわかる貴重な史料となっている。

街道沿いに金刀比羅神社があった。江戸時代の金比羅信仰の流行に乗って、文政10年(1827年)に造営されたもので、もともとこの地には平氏ゆかりの森が広がっていたとされる。社殿は平成12年(2000年)に火災に見舞われ、平成19年(2007年)に再建されたものである。


石岡は火災の多い町として知られているようで、明治時代に4回、大正時代に1回の大規模火災に見舞われている。火災に対する備えは他一倍していたが、昭和4年(1929年)に起きた「石岡大火」での被害により、街並みは殆ど失われてしまった。
しかしその後の復興事業では、街道にガス灯や街路樹が植えられ、商家は看板建築で彩られ、近代的な街並みへと生まれ変わった。


丁子屋は江戸末期に建てられた商家建築。昭和4年(1929年)の石岡大火で唯一残った商家建築である。石岡大火は関東大震災での被害を上回り、石岡町の4分の1が焼失している。
かつては染物屋を営んでいたが、現在では観光施設「まち蔵 藍」として営業している。


街道は国分町府中3丁目交差点でくの字に折れるが、府中の歴史を感じられるスポットにいくつか立ち寄ることにする。

まずは国分寺。天平13年(741年)聖武天皇が仏教による国家鎮護を命じた「国分寺建立の詔」により、常陸国府に建てられたのが常陸国国分寺である。勅命に従い天平勝宝4年(752年)に建立されたと伝わり、幾たびの火災に遭い衰退の一途を辿っていった。
慶長年間には国分寺は千手院の末寺としての位置付けであったが、大正8年(1919年)に千手院と国分寺が合併したことにより現在の国分寺が成立した。


常陸国分尼寺跡が近くにある。国分尼寺は国分寺と同時に建立された。国分寺が男性の僧が務めるのに対し、国分尼寺は女性の僧が務める寺院であった。
天正18年(1590年)に佐竹氏による府中城攻めの際、国分寺と共に火災に遭い消失して以来、再建されず現在に至っている。現在では門や柱の礎石が残されたり、柱の遺構が一部復元されており、芝生の生える公園となっている。


国分尼寺の近くの交差点のど真ん中に道標が残されている。元文2年(1734年)の道標で、「左 かきおか まかべみち」「右 うつの宮 かわらい道」と刻まれている。左方面は柿岡街道で、かつて柿岡城の城下町や柿岡藩の藩庁所在地として発展した柿岡宿(現:石岡市柿岡)へ向かう道である。右は宇都宮街道で、瀬戸井街道との追分である瓦谷(現:石岡市瓦谷)を経由して宇都宮方面へ向かう道である。


青屋神社という小さな神社があった。青屋とは「仮屋」を意味する。何の仮屋かというと鹿島神社の仮屋である。
常陸国司が任命されると鹿島神社を参拝するのが習わしとなっていた。通常、石岡の南、高浜から船で鹿島に向かうのだが、荒天などで出航できないときは高浜に芦や真菰などで仮屋を作り、そこから鹿島神社を遥拝して参拝に代えていた。高浜で作っていた青屋は後に高浜神社となるが、この青屋神社は国司の参拝制度が無くなって以降、鹿島神社を遥拝するためのものから安産祈願の意味合いに変わっていったものと考えられている。そのため本殿は鹿島神社の方角を向いていない。


江戸時代の石岡は、水戸光圀の弟・松平頼隆が藩祖となった常陸府中藩が置かれていた。水戸徳川家から分家した親藩である「御連枝」にあたるため、格式が高く、藩主は江戸定府であった。藩主不在の領地を管理する役所がこの陣屋であった。門は文政11年(1828年)に再建された陣屋の表門で、江戸の小石川にあった藩邸を新築した際に余った木材を使用して作られたものである。
かつては石岡小学校の校門として利用されていたが、平成26年(2014年)に現在地に移設された。


常陸国総社宮に参拝する。総社とは、律令時代に国衙の近くに設置され、その国の神々を一箇所に合祀し、祈りを捧げることでその国を治めようという施設である。
表参道の右手側に位置するのが石岡小学校は、常陸国府の役所である国衙跡である。


拝殿は昭和39年(1964年)の失火により消失したものを昭和60年(1985年)に再建したもの。その裏手にある本殿は寛永4年(1627年)に建てられた境内最古の建造物である。


最後に照光寺に立ち寄る。応安7年(1374年)創建とされる本寺は、かつて常陸五大寺の一つに数えられていた。天正18年(1590年)に府中城が佐竹義宣によって落城すると、その時の兵火によって消失してしまう。それを憂いた佐竹義宣の叔父・佐竹左衛門慰が上人を招き、文禄4年(1595年)に現在の地に再興するというから不思議なものである。
江戸後期には照光寺学寮という名で寺子屋教育が行われ、後の石岡小学校へつながる。


石岡の町を堪能して、JR石岡駅より常磐線で帰路に就く。平成28年(2016年)に完成した橋上駅舎の壁面の筑波山に別れを告げる。