【歩き旅】大山街道 Day4その③ 〜住宅街に残る石仏〜
鷺沼駅前から八幡坂を下り再び国道246に出てくる。ここに小さなお堂が建っている。この阿弥陀堂には二体の石像が祀られており、阿弥陀如来像には元禄元年(1688年)の銘が刻まれている。疫病で亡くなった子供たちを弔うために地元町民が建立したものだという。
この先しばらくは旧道が失われている。できるだけ旧道に近いルートを選んで進むと、道標を兼ねた二基の馬頭観音があった。笠付のものには文化2年(1805年)の銘が入っており、「左大山道 右王禅寺道」と刻まれている。
王禅寺は川崎市麻生区にある古刹で、東の高野山とも称される寺院である。
馬頭観音の隣には矢倉沢往還・大山街道について説明した碑が置かれていた。単なる街道の説明にしては文字数が多いようだ。後半には東急電鉄の多摩田園都市開発に伴い、多摩丘陵の様子が変わったこと、そして昭和46年(1971年)の上有馬地区の開発を最後に旧道が失われてしまったことを嘆く文章が刻まれていた。
失われた旧道を感じながら進み、旧道の線形が残されている箇所に差し掛かった辺りで川崎市から横浜市に突入する。峠になる辺りで旧立場である皆川家(現在は皆川園)の脇を通る。
急坂であるうとう坂・血流れ坂を下りしばらく行くと、新興住宅街である港北ニュータウンに差し掛かる。そんな住宅街の一角に霊泉の滝(不動滝)がある。滝と言っても水量はほとんどなかったが、滝上にある小さな石仏の一つには明和年間(1764〜1771年)の銘が刻まれており、滝不動尊として崇められているという。
(参考:なぜ全国にこんなにも「不動滝」が点在しているのか? )
不動滝脇の階段を上ると老馬鍛冶山不動尊のお堂が鎮座している。字名でもある「老馬」は「牢場」が転訛したものとも言われており、地元の伝承では中世以前にこの近くに罪人を収監する牢場があったとされる。
街道を進むと早渕川へぶつかる。かつては氾濫に悩まされた河川だったが、近年の護岸工事でその心配は少なくなった。近くに「宿裏橋」があった。次の宿場は近い。
川から離れるようにカーブを描いているところに、庚申塔を祀ったお堂があった。庚申塔は寛政5年(1793年)に建立されたもので、この向かい側にかつては一里塚もあったという。丁度このあたりから荏田宿の下宿がはじまっていた。
荏田宿は日本橋から七里(約27.5km)の場所にあり、江戸を発った旅人が初日に宿泊する宿場であった。荏田村は大山街道の北側に位置する荏田城の城下町として栄え、東側に古鎌倉街道を抱える交通の要衝であった。
荏田宿は明治27年(1894年)の大火により、往時の姿をほとんど失ってしまった。数少ない遺構である「中宿常夜灯」は荏田交差点の手前にあったようだが見逃してしまった。
かつて高札場があったという大きな交差点を折れると、荏田城があったとされる台地がよく見える。
荏田宿はこのあたりで終わり、小黒谷(こぐろやと)の集落へと差し掛かる。昭和30年台までは「小黒鮮紅大長人参」という銘柄の人参が地場野菜として人気があったという。東名高速の高架をくぐると右手に小黒谷地蔵堂がある。江戸中期に造られた三体の地蔵が並んでいる。
街道は東急田園都市線江田駅前を折れて、再び国道246号線沿いを進む。現在の国道はほぼまっすぐだが、かつてはもう少しクネクネとした線形であった。
市が尾駅近くまで来ると地蔵堂がある。入口手前に地蔵や石仏が並んでおり、写真一番左の小さな庚申塔には「大山みち 江戸みち」と刻んであるという。
市ヶ尾竹下地蔵堂は江戸中期の創建とされる。毎年11月30日に行われるお十夜法要では、双盤鉦と呼ばれる鉦や太鼓をたたきながら念仏を唱える「双盤念仏」と呼ばれる行事が江戸時代から続いている。
境内には統誉上人の墓(入定碑)がある。宝暦元年(1751年)に即身成仏を果たしたという伝承が残る人物である。
地蔵堂の先で墓石群がある道へと折れて進むと薄暗い道へと入っていく。猿田坂と呼ばれる緩やかな坂で、地蔵堂前にあった庚申塔や統誉上人の入定碑もかつてはこのあたりにあったようだ。
猿田坂を下ると日野往還との交差点に旅籠「綿屋」がある。明治15年(1882年)創業で明治末期まで営業していたという。かつては周辺に「石橋屋」「小石橋屋」といった旅籠もあったが現存していない。
谷本川を川間橋で渡る。当時は今よりも下流に架かっており、橋が流されやすくその維持のために渡り賃三文を徴収していたので「三文橋」とも呼ばれていた。現在の橋は昭和40年(1965年)に河川の改修と共に架橋されたものである。
道は三叉路に差し掛かる。ここは大灘の辻と呼ばれた場所で、この先の高くなっている場所で崖崩れが起こると、このあたりまで土砂が迫り坂が上りにくいことからそう呼ばれるようになったという。大山街道は右手の道を進む。
大山街道シールが壁に貼ってある民家の敷地に、真ん中が空洞になっている榎がある。樹齢600年以上とされるこの木は、かつて二子の渡しの袂にあった木を移植したもの。渡しから荏田宿までの約一里の目印とされていた。木にあった空洞は火災の跡なのだが、現在でもしっかりと青葉を付けている。
一里塚前を通過した街道は柿の木台の台地にぶつかる。かつてはこの先の医薬神社まで台地を削るように切通しの道が続いていたというが、現在は住宅地になっているため迂回路をとる。
医薬神社に到着したころには大分夕日が差していた。元々は安土桃山時代創建の「医王山薬師院東光寺」であった。明治の廃仏毀釈により神道へ宗旨変えし、山号と寺名から文字をとって医薬神社とした。
不敵な笑みに見送られながら柿の木台を下る。藤が丘駅前に繋がる道から先は旧道はほとんど失われてしまっている。できるだけ旧道に近い場所を通りつつ、東急田園都市線青葉台駅から帰宅した。