気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2017/12/27

【歩き旅】大山街道 Day4その③ 〜住宅街に残る石仏〜



鷺沼駅前から八幡坂を下り再び国道246に出てくる。ここに小さなお堂が建っている。この阿弥陀堂には二体の石像が祀られており、阿弥陀如来像には元禄元年(1688年)の銘が刻まれている。疫病で亡くなった子供たちを弔うために地元町民が建立したものだという。


この先しばらくは旧道が失われている。できるだけ旧道に近いルートを選んで進むと、道標を兼ねた二基の馬頭観音があった。笠付のものには文化2年(1805年)の銘が入っており、「左大山道 右王禅寺道」と刻まれている。
王禅寺は川崎市麻生区にある古刹で、東の高野山とも称される寺院である。


馬頭観音の隣には矢倉沢往還・大山街道について説明した碑が置かれていた。単なる街道の説明にしては文字数が多いようだ。後半には東急電鉄の多摩田園都市開発に伴い、多摩丘陵の様子が変わったこと、そして昭和46年(1971年)の上有馬地区の開発を最後に旧道が失われてしまったことを嘆く文章が刻まれていた。


失われた旧道を感じながら進み、旧道の線形が残されている箇所に差し掛かった辺りで川崎市から横浜市に突入する。峠になる辺りで旧立場である皆川家(現在は皆川園)の脇を通る。

急坂であるうとう坂・血流れ坂を下りしばらく行くと、新興住宅街である港北ニュータウンに差し掛かる。そんな住宅街の一角に霊泉の滝(不動滝)がある。滝と言っても水量はほとんどなかったが、滝上にある小さな石仏の一つには明和年間(1764〜1771年)の銘が刻まれており、滝不動尊として崇められているという。
(参考:なぜ全国にこんなにも「不動滝」が点在しているのか? )


不動滝脇の階段を上ると老馬鍛冶山不動尊のお堂が鎮座している。字名でもある「老馬」は「牢場」が転訛したものとも言われており、地元の伝承では中世以前にこの近くに罪人を収監する牢場があったとされる。


街道を進むと早渕川へぶつかる。かつては氾濫に悩まされた河川だったが、近年の護岸工事でその心配は少なくなった。近くに「宿裏橋」があった。次の宿場は近い。


川から離れるようにカーブを描いているところに、庚申塔を祀ったお堂があった。庚申塔は寛政5年(1793年)に建立されたもので、この向かい側にかつては一里塚もあったという。丁度このあたりから荏田宿の下宿がはじまっていた。

荏田宿は日本橋から七里(約27.5km)の場所にあり、江戸を発った旅人が初日に宿泊する宿場であった。荏田村は大山街道の北側に位置する荏田城の城下町として栄え、東側に古鎌倉街道を抱える交通の要衝であった。


荏田宿は明治27年(1894年)の大火により、往時の姿をほとんど失ってしまった。数少ない遺構である「中宿常夜灯」は荏田交差点の手前にあったようだが見逃してしまった。
かつて高札場があったという大きな交差点を折れると、荏田城があったとされる台地がよく見える。

荏田宿はこのあたりで終わり、小黒谷(こぐろやと)の集落へと差し掛かる。昭和30年台までは「小黒鮮紅大長人参」という銘柄の人参が地場野菜として人気があったという。東名高速の高架をくぐると右手に小黒谷地蔵堂がある。江戸中期に造られた三体の地蔵が並んでいる。


街道は東急田園都市線江田駅前を折れて、再び国道246号線沿いを進む。現在の国道はほぼまっすぐだが、かつてはもう少しクネクネとした線形であった。
市が尾駅近くまで来ると地蔵堂がある。入口手前に地蔵や石仏が並んでおり、写真一番左の小さな庚申塔には「大山みち 江戸みち」と刻んであるという。


市ヶ尾竹下地蔵堂は江戸中期の創建とされる。毎年11月30日に行われるお十夜法要では、双盤鉦と呼ばれる鉦や太鼓をたたきながら念仏を唱える「双盤念仏」と呼ばれる行事が江戸時代から続いている。
境内には統誉上人の墓(入定碑)がある。宝暦元年(1751年)に即身成仏を果たしたという伝承が残る人物である。


地蔵堂の先で墓石群がある道へと折れて進むと薄暗い道へと入っていく。猿田坂と呼ばれる緩やかな坂で、地蔵堂前にあった庚申塔や統誉上人の入定碑もかつてはこのあたりにあったようだ。


猿田坂を下ると日野往還との交差点に旅籠「綿屋」がある。明治15年(1882年)創業で明治末期まで営業していたという。かつては周辺に「石橋屋」「小石橋屋」といった旅籠もあったが現存していない。


谷本川を川間橋で渡る。当時は今よりも下流に架かっており、橋が流されやすくその維持のために渡り賃三文を徴収していたので「三文橋」とも呼ばれていた。現在の橋は昭和40年(1965年)に河川の改修と共に架橋されたものである。


道は三叉路に差し掛かる。ここは大灘の辻と呼ばれた場所で、この先の高くなっている場所で崖崩れが起こると、このあたりまで土砂が迫り坂が上りにくいことからそう呼ばれるようになったという。大山街道は右手の道を進む。


大山街道シールが壁に貼ってある民家の敷地に、真ん中が空洞になっている榎がある。樹齢600年以上とされるこの木は、かつて二子の渡しの袂にあった木を移植したもの。渡しから荏田宿までの約一里の目印とされていた。木にあった空洞は火災の跡なのだが、現在でもしっかりと青葉を付けている。

一里塚前を通過した街道は柿の木台の台地にぶつかる。かつてはこの先の医薬神社まで台地を削るように切通しの道が続いていたというが、現在は住宅地になっているため迂回路をとる。


医薬神社に到着したころには大分夕日が差していた。元々は安土桃山時代創建の「医王山薬師院東光寺」であった。明治の廃仏毀釈により神道へ宗旨変えし、山号と寺名から文字をとって医薬神社とした。


不敵な笑みに見送られながら柿の木台を下る。藤が丘駅前に繋がる道から先は旧道はほとんど失われてしまっている。できるだけ旧道に近い場所を通りつつ、東急田園都市線青葉台駅から帰宅した。

2017/12/06

【歩き旅】大山街道 Day4その② 〜下末吉台地を楽しむ〜



JR南武線大山街道踏切を渡る。開かずの踏切として悪名高い踏切で、通勤ラッシュの時間帯には開いている時間よりも閉じている時間のほうが長いというから驚きである。
そんなこの踏切も、道路計画の見直しでアンダーパス化することが検討されている。


溝の口駅南口へと伸びる通りとの交差点に片町庚申塔が置かれている。文化三年(1806年)建立の庚申塔は風化と損傷が激しく、ちょうどビンの裏側辺りにある三猿はほとんど認識できない状態となっている。
側面に「西大山道 東江戸道 南加奈川道」と刻まれており、道標の役割も果たしている。


分岐を細い道へと進む。こちらは「ねもじり坂」と呼ばれ、かつては「根もちり坂」と書いていたように道に木の根が張っていたという。今では立派な舗装路だが、明治中頃までは狭くて急な道で難所として知られていた。
このあたりは下末吉台地と呼ばれる台地で、台地を縫うように河川が流れているため坂が多いエリアである。


ねもじり坂を上りきると立派な地蔵堂がある。明鏡寺の飛び地境内に建てられた笹の原子育て地蔵堂である。西国三十三観音巡礼に訪れた巡礼者が子供が授かったお礼として建立したのが始まりだという。
ちなみに写真は昭和19年(1944年)の久本空襲の犠牲者を弔うために建てられた地蔵。


弘化4年(1847年)建立の秩父坂東西国供養塔には如意輪観音半跏像が置かれている。この後ろ側が地蔵堂である。お堂や祠は平成5年(1993年)に改修されたため非常に綺麗な佇まいとなっている。


東急田園都市線の梶ヶ谷駅入口を通過して細い道を進むと、アパートの駐車場の一角に祠と道標がある。祠の中には宝暦12年(1762年)銘の庚申塔が建っており、側面には「右大山道 左やうがすじ道」と刻まれているという。「やうがすじ道」は用賀筋道を指す。


庚申塔の脇には道標が置かれており、「西 荏田方面 東 二子橋方面」とある。摩耗は激しいが昭和の御大典を記念して昭和3年に住民の手で建てられたものだという。


厚木街道こと国道246号を末長歩道橋で越える。宮崎中学校入口の交差点の次で左折したところにあるのが「宮崎大塚古墳」である。住宅街の民家の敷地内にあるが、れっきとした方墳であるという。別の道沿いに古墳に上る階段があったようだが見逃してしまった。
梶ケ谷周辺には馬絹古墳(7世紀後半頃)、西福寺古墳(6世紀中後半頃)などが発掘されており、古代より重要な土地であったことがわかる。


宮崎台を進み、庚申坂を上る。近くに庚申堂があったことに由来する坂名だが、そもそもの旧道は宮崎台・宮崎団地の開発に伴って消失してしまっている。台地を八幡坂で下ると、東急田園都市線・宮前平駅前に出てくる。
その駅前に小台八幡神社が鎮座している。


神社の階段前に小台庚申塔が鎮座している。正徳4年(1714年)建立の庚申塔で青面金剛の足元に三猿が浮かぶ。


かつては石段の中央が土橋村と馬絹村の堺にあり、境内は両村の共有地であった。平成7年(1995年)に社殿が再建されており、美しい建築美を見せてくれる。

ここから鷺沼駅近くまで、小台坂を下り、先程とは異なる八幡坂を下りながら旧道が複雑な線形を描く。

2017/11/18

【歩き旅】大山街道 Day4の① 〜溝口宿の町並み〜




大山街道四日目。京急田園都市線高津駅からのスタート。まずは二子・溝口宿の町並みを進んでいく。溝口緑地あたりをまでが二子宿、これより先が溝口宿となる。
溝口宿も二子宿と同時に寛文9年(1669年)に継立業務を開始した。毎月1日〜20日までを溝口村、21日〜月末までを二子村が継立業務にあたった。
タナカヤは江戸時代から創業する呉服店で、明治44年(1911年)に造られた蔵造りの建物が残る。


府中街道との交点である高津交差点には、明るく豊かな地域社会をづくりを目指して「ふれあいの鐘」が設置されている。溝口村は府中街道と矢倉沢往還の交わるところに集落が発生し、発展していったものとされる。尚、現在府中街道の通称を持つ国道409号は近年整備された道であり、一本西側に並走する道が旧道である。


宝暦年間創業の田中屋秤店。江戸時代に測量機器を販売するのには免許が必要で、幕府が認めた商家でのみ販売を許された。田中屋は度量衡販売の免許を受けてものさしやはかりを販売し、現在に至っている。


明和2年(1765年)創業の灰吹屋薬局のシャッターには江戸時代の門構えが描かれている。四谷にあった萬屋「総本家灰吹屋」を暖簾分けして出来た薬種店からはじまり、現在では支店を数店舗従えるチェーン薬局として規模を拡大している。


平成4年(1992年)に開館した大山街道ふるさと館は、大山街道に関する資料を展示する資料館。大山街道を専門的に扱っている資料館としては唯一だろう。
ふるさと館の入口には「高幡不動尊道」の道標が展示されている。伊豆石で作成されており、文政12年(1829年)の刻印がある。日野の高幡不動尊へ府中街道を利用して参拝に向かう人々に向けたものである。


二ヶ領用水を大石橋で越える。江戸時代に大きな石橋があったことに由来する。
二ヶ領用水の建設を指揮したのも前回六郷用水の掘削で登場した小泉次大夫。慶長16年(1611年)に、当時の稲毛領・川崎領の二領にまたがる用水路が完成し、二ヶ領用水と呼ばれることとなった。


七五三で賑わう溝口神社へ到着。江戸時代には溝口村の鎮守・赤城大明神として崇められていた。明治に入ると廃仏毀釈により、隣の宗隆寺と分離し、溝口神社と改称した。


こちらが宗隆寺。かつては池上本門寺の直末六ヶ寺の一つであった。御会式(宗祖(日蓮宗のため日蓮)の命日に合わせて行われる大法会)での万灯練供養が有名で、本門寺以外の万灯練供養の中では規模も大きいという。
境内には第一回人間国宝に選出された益子焼陶芸家の濱田庄司の墓がある。


栄橋交差点に栄橋の親柱が残されている。栄橋は平瀬川に架橋されていた橋で、ちょうどこの場所では根方十三ヶ村堀とも交わっていた。溝口村と下作延村の境界に架かることから「境橋」とも呼ばれており、ここまでが宿場町であった。平瀬川は暗渠化されて現在に至る。


栄橋親柱の隣に大山街道のマップがあった。今では単なる一本の道に過ぎないが、当時は主要な産業道路であり観光道路でもあった。こうやって往時を偲ばせるマップや看板が設置されているのは本当に嬉しい限りである。

2017/11/13

【歩き旅】大山街道 Day3 〜多摩川を越えて〜



3日目は予定が近くであったため、さくっとした行程。
用賀駅からスタートして駅前の都道を南下していくと、道の分岐に延命地蔵尊が鎮座している。安永6年(1777年)に用賀村の女念仏講中によって設置されたものである。ここを分岐として右側に向かうのが旧来からの大山道(慈眼寺線)で、左へ向かうのが江戸時代に開通した江戸道(行善寺線)。今回は右の古道を進むことにした。


住宅地の間を縫うように進むと、幼稚園前が園児とその両親が帰宅のタイミングで賑わっていた。幼稚園の前には笠付庚申塔が設置されている。元禄10年(1697年)造の三猿+青面金剛のオーソドックスな庚申塔である。


笠付庚申塔の脇には小さいサイズの享保16年(1731年)の駒形青面金剛庚申塔と大正11年(1922年)の馬頭観音碑が並んでいる。


喜楽山法令院慈眼寺は徳治元年(1306年)開山とされる寺院。法印定音なる人物が諸国を巡っている最中、降三世明王の像を瀧ヶ谷戸崖の中腹で発見したことから小宇を建立したことに始まる。瀧ヶ谷戸はこの西側にあった谷戸で、以前は小さい滝があったが昭和19年(1944年)に陸軍が地下壕を掘った際に消滅したという。
現在地は国分寺崖線の端の崖上に位置し、元々堂宇は崖下にあったが、天文二年(1533年)に長崎四郎左衛門により現在地に移った。


慈眼寺の隣には瀬田玉川神社がある。永禄二年(1559年)の創建で、寛永3年(1626年)に長崎四郎右衛門嘉国により現在地に移転したとされる。先程の慈眼寺と同様、この一帯で長崎家の勢力が強かったことがわかる。
元々は御嶽神社として信仰を集めていたが、明治41年(1908年)に神社合祀により地名をとって「玉川神社」と改称。その後「瀬田玉川神社」と改称した。


丸子川を治太夫橋で渡る。慶長2年(1597年)に開削が始まった六郷領用水(六郷用水)の建設を指揮した小泉次大夫にちなんだ名称である。六郷用水は「次大夫堀」とも呼ばれ、元は天領であった六郷領への灌漑目的であったが、後に流路であった世田谷領でも利用が可能となった。昭和20年(1945年)に用水が廃止され、そのほとんどが暗渠化されている。


治太夫橋の袂には「右むかし筏みち むかし大山みち」と刻まれた石碑がある。筏道は品川みちとも呼ばれた古道で、府中の大國魂神社から国分寺崖線に沿って品川・六郷に至るる。多摩川上流で伐採した木材は筏にして下流の六郷・品川まで運ばれた。その後、この道を通って上流へ戻っていったという。


二子玉川商店街を抜けて多摩川沿いへと出てくると、人の往来が多くさすがはニコタマといったところだろうか。多摩川は江戸防衛の最前線との位置付けだったため、江戸時代には架橋されなかった。対岸との交通を担っていたのが「二子(瀬田)の渡し」であり、元禄年間から運行が始まったと考えられている。
大正14年(1925年)に二子橋が架橋されると、同年に渡しは廃止された。


東京側から眺めた多摩川の風景。東急田園都市線の二子玉川駅が多摩川に被さるように伸びているのがわかる。
二子橋が架橋された当初は、鉄道(当初は路面電車)・歩行者・自動車が並行して走る鉄道道路併用橋であったが、昭和41年(1966年)の東急田園都市線長津田延伸を期に鉄道は専用橋となった。


二子の渡しは利用できないので、二子橋で多摩川を渡り神奈川県川崎市に突入する。橋の下はバーベキューを楽しむ家族やグループで賑わっていた。
橋を渡った先に御影石の親柱が置かれている。二子橋が架橋された大正14年(1925年)から昭和53年(1978年)に道路の拡幅工事がされるまで使用されていた親柱である。


「旧大山街道二子の渡し場入口」と書かれた標柱があった。この先にきっと渡し場があったのだろうが、道路と堤防に阻まれて確認することができなかった。


先程の標柱の先に変わった形のオブジェが置かれており「岡本かの子文学碑」との説明がった。
岡本かの子は「芸術は爆発だ」でおなじみの岡本太郎の母親にあたり、歌人・小説家として活躍した人物である。この近くの大貫家で生まれたことから、その生涯を顕彰して昭和39年(1964年)に息子の太郎がこのオブジェ「誇り」を制作した。


文学碑は二子神社の境内に建てられていた。
二子神社は寛永18年(1641年)、武田家に従事する家臣の小山田兵部による創建とされる。矢倉沢往還の二子村が二子宿として継立村に指定されたのは寛文9年(1669年)であり、二子宿の鎮守として信仰を集めていた。
大山詣でが盛んになる江戸中期には、宿場は往来客でたいへんな賑わいとなる。大山講を行う村では山開きの日に大山燈籠を村内に立てることが慣習となっており、二子の渡しや二子神社の前にも燈籠が立てられていた。


二子二丁目公園はかつて大貫家の住宅があった地である。先述したように岡本かの子の生家であり、後にかの子の兄弟がこの地で大貫病院を営んでいた。岡本太郎もここ大貫病院で生まれた。
大貫家は代々幕府や諸藩の御用達を生業としていた地主であり、地域の発展に貢献してきた。大貫病院は平成11年(1999年)に閉院している。


光明寺は甲斐武田氏の家臣・小山田宗光により慶長6年(1601年)に開基された。その後寛永18年(1641年)に現在地に移転した。かつては宝暦12年(1762年)に制作された梵鐘があり、継立業務にあたる人々に正確な時刻を知らせる「時の鐘」の役目を担っていたが、第2次世界大戦で供出されてしまった。
また寺内には岡本かの子の兄・大貫雪之丞の墓がある。


明治から続く金物屋・飯島商店の前には巨大な釜が堂々たる姿で座している。
昭和53年(1978年)にNHKで放送された松本幸四郎主演の大河ドラマ「黄金の日々」で石川五右衛門を茹でるシーンで利用したものだという。
石川五右衛門役は根津甚八で、このドラマが出世作となり後の活躍に繋がったという。


高津図書館の敷地内に国木田独歩の碑が設置されている。溝口宿にあった旅館「亀屋」に宿泊した際、その旅館と主人をモデルにした作品「忘れえぬ人々」を執筆。独歩の27回忌を期に旅館前に立てられたものである。
亀屋旅館は明治天皇の皇后も宿泊したことがあるという由緒正しき旅館。亀屋はその後廃業し、記念碑は図書館に移設された。


夕刻に差し掛かり宿場に暗闇が迫ってきた。僅かながら残る古い建物よりも新しく建てられたビルの方が夕日が映えるように見えるのは、色合いの問題だけだろうか。
高津駅から東急線に乗って再び多摩川を越えながら帰宅した。