名所江戸百景:駒形堂吾嬬橋 -浅草寺のはじまりを知る場所-
東京観光と言えば浅草寺は定番である。
「EKIMESE」としてリニューアルした東武浅草駅で待ち合わせをし、人であふれた雷門通り商店街を抜け、巨大な提灯に感嘆しながら雷門をくぐり、仲見世を通り抜けて本堂へ向かうのが、偏見を存分に含んだ鉄壁ルートだろう。
しかし、この鉄壁・鉄板・王道ルートでは浅草寺の歴史を知る上で重要な建物を見逃してしまう。それが今回紹介する作品「駒形堂吾妻橋」の主人公、メインで取り上げられている「駒形堂」である。
(参考:浅草寺|諸堂案内 駒形堂)
暗い印象を持った作品だが、手前左側に駒形堂、その奥に雄大な流れの隅田川と吾妻橋、その奥に橋の袂に広がる集落が描かれている。版によってはしっかりと雨が降っている様子が伺えるものもある。
雲の表現は「あてなしぼかし」と呼ばれる技法によるもので、広重の作品ではよく見られるもの。版木を濡らしてその上に絵の具を付けることで、絵の具が自然に広がっていき、柔らかいグラデーションが出来上がるというものである。
この作品では印象的に描かれている2つの物がある。
一つは風になびく赤い旗。これは駒形堂の斜め向かいにあった「紅屋百助」という小間物屋が掲げているもの。ここではおしろいなどの化粧品を販売しており、旗は「紅あります」の意味をもたせた広告みたいなものである。
もう一つ印象的なのが、空を舞うホトトギス。吉原の花魁・二代目高尾太夫が仙台藩主伊達綱宗に宛てた句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」にインスパイアされた表現である。
実際、隅田川周辺にはホトトギスにちなんだ作品や地名が点在しており、「ホトトギスと言えば隅田川」が当時定着していたために受け入れられる表現だろう。
これは江戸切絵図浅草御蔵前辺図(嘉永2年〜文久2年(1849〜1862年))から駒形堂周辺を抜き出したもの。右側が北になっており、中央の赤い四角「駒形堂」から雷門へ伸びる道(現国道6号・江戸通り)がはっきりと描かれている。
作品右下に立ち並ぶ角材のようなものは、実際の位置関係と異なるが材木町のものだろうか。船の往来が多いのは、切絵図にもある「竹町の渡し(中之郷の渡し・駒形の渡しとも呼ばれる)」が材木町と対岸の竹町を繋いでいたためであろうか。
この渡しは寛文7年(1667年)に許可されたが、安永3年(1774年)に吾妻橋が架橋されたことを皮切りに利用者が減っていった。その割に明治9年(1876年)まで営業していた記録が残っており、隅田川の渡しの中でも息の長い部類に入る渡しだったようだ。
現在の駒形堂は平成15年(2003年)に再建されたもの。朱が映える立派なお堂である。
多くの観光客が手前の道を行き来しているが、なかなか境内まで立ち寄る人が少ないのが悲しいところである。
現在ではビルやマンションが立ち並んでおり、駒形堂と吾妻橋を同時に臨むのはなかなか難しい。その代わりに東京の新名所「東京スカイツリー」が隅田川対岸で威勢よく構えている。
名所江戸百景では薄暗い様相で描かれているが、現在では浅草の喧騒とスカイツリー・アサヒビールタワーのお陰か、些か華やかな印象の風景であった。