気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2019/01/27

【歩き旅】水戸街道 Day4 その① 〜常総の国へようこそ〜



水戸街道歩き4日目はJR常磐線・藤代駅からスタート。まずは宮和田宿の町並みを眺めがら歩き始める。


藤代宿同様、宮和田宿も往時の面影を残しているものは少ない。こちらの民家はだいぶ古そうであるが、茅葺き屋根だったものを改築したのであろうか。


堤防の傍に熊野神社がある。治承4年(1180年)千葉常胤の創建と伝えられている。本殿は嘉永4年(1851年)に再建されたもので、脈々と歴史が紡がれている。「宮和田」という地名の「宮」はこの神社を指すのであろうか。ちなみに「和田(ワダ)」は川の蛇行した部分にできる円形の土地を表すことが多く、地形的には合致している。


街道は小貝川にぶつかる。かつては宮和田の渡しが設けられていた。正徳5年(1715年)の記録によれば、渡賃は2文であった。


渡しのあった箇所から100mほど上流で小貝川を文巻橋で渡る。この付近の小貝川は現在では取手市と龍ケ崎市の市境であるが、古くは下総国と常総国との境であった。


橋を渡ったところに慈眼院がある。観音堂の中には十一面観音が収められており、牛久城主由良国重が先代の城主・岡見家の戦没した武士の慰霊のために建立した七観音の一つとも伝えられている。


直進する道が線路により寸断されているため、「龍ケ崎街道踏切」で迂回すると、「花と風の丘」「ようこそ龍ケ崎へ」の看板の奥に牛久沼排水機場が広がる。
利根川が増水すると小貝川や牛久沼の水位が上昇してしまい、その結果洪水や氾濫がこの周辺で頻発していた。その対策として昭和28年(1953年)にこの排水機場を設け、増水時に牛久沼の排水を行なっている。


馴柴小入口の交差点で県道5号線を離れる。ここにある老舗感漂う佇まいのトンカツ末広は残念ながら廃業しているが、店の前に屋根付き道標が置かれている。「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば 水戸」と刻まれているという。


馴柴小学校の敷地に道標が立っている。「水戸十六里 江戸十三里 布川三里」と道程が刻まれている。布川宿は初期水戸街道の宿場町であり、小貝川の治水がうまくいかなかった江戸初期以前は布川宿へ迂回していた。(関連記事:水戸街道 Day3 その①


次の若柴宿手前には田園風景が広がっていた。奥の森のように見える小高い場所は稲敷台地である。その南端に宿場がある。


若柴宿江戸側入口は大坂を登るところから始まる。この右手に戦国時代に牛久城の支城・若柴城があったとされる。岡見越前守勝頼が住んでいた記録もあるが、天正16年(1588年)に下妻多賀谷氏との合戦により横死。若柴城は廃城になったと考えられ、城下の人々は現在の若柴宿辺りに移動したことにより宿場の基礎が形成された。


坂を登りきった辺りに八坂神社がある。旧若柴村の総鎮守であるが由緒は不明。社殿は平成元年に建て替えられてこじんまりとしている。境内には江戸期の石仏や三峰神社、太子尊などがあった。


八坂神社のあたりから真っ直ぐ伸びる道に若柴宿があった。藤代宿や次の牛久宿との距離が近いことから本陣は置かれていなかったが、旧家と思しき家は点々と残っている。
宿場が台地上に位置することから、街道から横に入る道はおおむね坂になっており、各坂には名称が付けられていた。


若柴宿はクランク状になっており、これは桝形としての役割を果たしていたと思われる。宿場の水戸側クランクの先には、星宮神社があった。土浦城主であった平貞盛が天慶4年(941)年に建立し、何度も参拝に尋ねたと伝わる。「星宮」という神社名からも当時の房総平氏の妙見・北辰信仰の篤さがわかる。
また星宮神社の神の使いが「うなぎ」であるという伝説から、若柴ではうなぎを食べないという風習があるのだとか。


日本橋から15里目の成井一里塚がある。水戸街道で現存する一里塚はここが初めてであるが、その様相は「なんとなく盛土」といった感じであった。周囲に建物が余りないおかげで、その盛り土感は際立ってはいた。
永禄4年(1561年)には既に存在していたという説があるようで、そうなると水戸街道の本格整備前からある一里塚となる。

歩きやすい道をすすんでいく。

2019/01/02

【歩き旅】水戸街道 Day3 その② 〜茨城県に突入〜



広い境内を持つ神社があった。この柴崎神社は創建年代については不詳であるが、境内からは我孫子市内で最も古い年号の板碑が見つかっていることから、かなり古い時代からこの地で信仰を集めていたのだろう。 江戸時代には「妙見社」と呼ばれており、妙見像を奉納していた記録がある。千葉氏が妙見信仰に篤かったことは知られているので、この神社も千葉氏の手がかかっているのかもしれない。


街道は利根川に差し掛かる。かつては取手・青山の渡しで利根川を渡っていたが、現在は大利根橋で渡る。 大利根橋は全長1209mで、利根川に架かる道路橋では最長の橋である。昭和5年(1930年)に架橋され、現在の橋は昭和49年(1974年)に架け替えられたものである。


利根川を越えれば茨城県、そして取手宿の宿域になる。尚、エリア的には旧国名は下総国のままである。取手宿は天和年間の水戸街道付け替えによって成立した宿場で、利根川に沿うように北西から南東へ伸びている。 宿内には老舗も残っている。明治元年創業の奈良漬け屋「新六本店」は文政年間に利根川で廻船問屋を営んでいた家が創業したもの。隣の田中酒造店は明暦元年(1655年)創業の酒造である。


旧取手宿本陣である染野家住宅は、貞享4年(1687年)に水戸徳川家より本陣に指定された由緒ある家柄。主屋も寛政7年(1795年)に建てられた茅葺の風情ある建築物である。主屋入り口には、駕籠を横付けして中に入れるように式台が設けられている。
この日はたまたま見学可能な日だったので、内部の様子も見ることができた。


宿場の真ん中あたりには八坂神社が鎮座している。寛永3年(1626年)の創建で、取手宿を形成する上町・仲町・片町の総鎮守である。拝殿は天保3年(1832年)に建てられたもの。本殿は明治36年(1903年)に再建されたもので、後藤縫殿助・保之助親子が手がけた豪華な彫刻が刻まれている。


吉田バス停近くの分岐路に大きな木の板が置いてある。かつてこの場所にあった巨木を記念して残しているのだろうか。街道はこの先の土手を上がらずに下の道をゆく。


街道沿いに大きなサイカチ(皀)の木と、その脇に「江戸与利 十里二十二丁」(約42km)「水戸与利 十八里十八丁」(約72km)と書かれた水戸街道の道標が建てられていた。このサイカチの木は推定200歳の巨木で、取手市の保存樹木となっていた。


ここから先、田圃の間を直進して進む区間へと入る。この辺りは長兵衛新田と呼ばれる地域である。緑色が目に優しい。


雨が降りそうな天候になってきたため、少し早足で進む。


相野谷川を越える「土橋」には「旧陸前浜街道」と刻まれている。こういう案内が定期的にないと、単なる農道でしかない道である。


相野谷川を土橋で渡ったところに石碑が置かれている。これは川沿いを南下したところにある来応寺への道標である。側面には「江戸11里」「水戸18里」とも刻んである。 来応寺は月光院ゆかりの寺として知られる。月光院は江戸幕府第6代将軍徳川家宣の側室で、第7代将軍家継の生母にあたる人物である。


民家の脇に祠と不動明王が置かれていた。調べたところ、左は寛永8年(1631年)の東照大権現の祠で、右の不動明王像は慶應4年(1868年)建立とのこと。不動明王像の正面には「清安山」と刻まれており、板橋不動尊として有名なつくばみらい市の清安山不動院願成寺から勧請したものと考えられる。


釜神橋を渡って少しした十字路に昭和10年(1935年)の道標がある。「東中谷原渋沼ヲ経テ小文間」「西酒詰細井ヲ経テ山王水海道」「南百井戸小泉ヲ経テ吉田」「北谷中藤代宮和田ヲ経テ牛久」と4方向の道筋が刻まれている。


ほぼ直進してきた街道が右に90度折れる位置に相馬神社がある。元享元年(1322年)建立といわれ、現在の本殿は慶応3年(1867年)に再建されたものだという。元々八坂神社としていたが、明治40年(1907年)に相馬神社に改称した。当時の町名である相馬町にちなんだものだろうか。 この辺りが藤代宿の江戸側の入り口となる。


藤代宿は正確には江戸側半分が藤代宿、水戸側半分が宮和田宿で形成されていた。どちらにも本陣が設けられ、5日交代で業務にあたっていたが、宮和田宿の本陣については記録が残っておらず詳細は分からないという。 二つの宿場の中間地点あたりに愛宕神社がある。寛永15年(1638年)に京都愛宕神社より分祀し、現在の神社は昭和59年(1984年)に遷座したものである。

雨にも降られることなく無事にここまでたどり着いた。本日は近くのJR常磐線藤代駅より帰宅する。