【雑記】下北沢と上北沢って離れてない?ここから始まる地名の話
今回の記事を書こうとしたきっかけは、こっそり歩いている甲州街道歩きで利用した「上北沢駅」についての疑問から。
上北沢駅は京王電鉄京王線の駅で、周囲は一言でいうと「住宅街」。新宿まで15分で行けるという立地から、若い世代の利用も目立つエリアである。一方、下北沢駅は小田急小田原線と京王電鉄井の頭線が交わる駅。「シモキタ」の愛称で知られる駅周辺には多くの小劇場や雑貨店などが並び、若者文化の象徴的なエリアとして馴染みが深い。
さてここで2駅の位置関係を見てみると、思ったより離れていることがわかる。上図は国土地理院地図より上北沢・下北沢の位置関係が分かる部分を切り出したものである。図の北側を東西に横断するように甲州街道が伸び、そのすぐ南に沿うように京王線の線路がある。上北沢駅は図の左端に位置し、下北沢駅は右端中央下に位置している。
下北沢駅から上北沢駅に行くには、京王井の頭線に乗り、新代田、東松原を通過し、明大前駅で京王線に乗り換え、下高井戸、桜上水を通過し、ようやく上北沢駅に到着する。線路が2駅を直線で結んでいるわけではないので最短距離にならないのは仕方ないが、そこまで迂回していないにも関わらず途中5駅を挟んでいる。なぜこのようなちょっと不思議な状況なのか、まずはそれぞれの地域の歴史を紐解くことで考察してみた。
交通の要衝であった上北沢
上図は天保13年(1842年)に発行された『富士見十三州興地全圖』より、荏原郡の北端あたりを抜き出したもの。この地図は富士山を臨むことができる13の国について、国境・郡境・街道・村名などを詳しく描いている図である。赤い線は街道を表しており、画像上部を上から左に通る線が甲州街道、右から下へ通る線が矢倉沢往還(青山通り大山街道)を表している。
上北沢駅のすぐ北側には国道20号、つまり甲州街道が東西に伸びている。甲州街道は江戸時代初頭、徳川家康によって整備された「五街道」の一つに数えられ、現在の下高井戸駅から上北沢駅までの広い範囲にかけては「下高井戸宿」が設けられていた。範囲は広いが実態は半宿半農の宿場で、建物もまばらで大した賑わいも無かったようである。
上北沢付近には古くから「滝坂道」と通称「古府中道」と呼ばれる道があった。二つの道は上北沢五差路で交わり、滝坂道はここを東西に横切り、古府中道は南北に縦断する。
滝坂道は経堂あたりから現在の甲州街道の北側にある「滝坂」を通過して府中に通ずる道で、甲州街道整備以前はこの道が東西の往来に利用されていたという。
古府中道は大化の改新の頃には存在していたとされる古道で、現在の赤堤通りに相当する。
どちらの道も武蔵国の国府が置かれていた府中との往来を重要視しており、甲州街道整備以前から、上北沢一帯は交通の要衝としての地位を確立していたと考えられる。
聖地であった下北沢
一方の下北沢一帯で最も歴史を誇るのが「北澤八幡神社」である。15世紀後半に世田谷城主の吉良頼康が勧請したと伝えられ、世田谷城の鬼門である北東方向の守護を担っていたと考えられる神社である。
天正18年(1590年)に小田原征伐によって世田谷城は開城され、その後廃城となった。このとき、吉良氏に仕えていた膳場(是庭)将監が下北沢村を開墾したという。膳場家は名主・伊東半蔵の先祖とされ、現在でも「膳場」の名がつく商店やビルを下北沢一帯で見ることができる。
慶長13年(1608年)には北澤八幡神社に隣接する形で森厳寺が開山し、この門前は下北沢村の中心地であった。上図『富士見十三州興地全圖』で下北沢村の右隣にある「アハシマ」は森厳寺に勧請された「淡島堂」を指す(上の写真が現在の淡島堂)。淡島堂で行われる「淡島の灸」は広く知られ、多くの参拝客を集めたという。その知名度からこの一帯を指して「淡島」と呼ぶこともあった。また森厳寺は徳川家康の次男にあたる結城秀康の位牌所であることから、下北沢村は幕末まで天領であった。
「上」と「下」は川との位置関係を表す
両村の江戸時代までの歴史を追うと、それそれが違うアプローチで集落を形成していることがわかった。ではなぜ似たような名前の2村がそれぞれ存在しているのだろうか。まずは村名の「上」と「下」に着目してみよう。
甲州街道沿いには、下高井戸と上高井戸、下石原と上石原、下布田と上布田など、上下セットになっている地名が数多く存在する。上北沢・下北沢ペアと異なりどれもが隣接している地名だが、東側の地名が「下」で西側が「上」となっている点は共通している。
このような上下地名については全国的にみられるが、その起こりにはいくつかの説がある。代表的なものを以下に3つ挙げてみた。
①京方を「上」、江戸方を「下」としている説
田舎から都市部へ出てきた人を「お上りさん」と呼んだり、質の悪いものを「くだらない」と呼ぶように、ある主要な都市を基準にそちらに近い方を「上」、遠い方を「下」と呼ぶことは、皆さんも馴染みがあるかもしれない。甲州街道の終点は諏訪だが、そこで中山道に乗り換えれば京まで辿ることができる。往時日本で最も主要な都市であった「京」を基準に考えれば、世田谷の辺りではより京までの距離が近い西方が「上」を冠するのは違和感がない。
②物理的に高い方を「上」、低い方を「下」としている説
最も直感的でわかりやすいのは、位置が高い方を「上」、低い方を「下」と呼ぶことである。○○坂上、○○坂下なんて呼称はよく耳にする。世田谷の辺りは(局所的な高低差を無視して)広い視野で見れば、西に行くにつれて山地に近づくため、僅かばかり高所になる。昔の人がどれだけ厳密に高度を測っていたかはわからないが、明確な高度差がなくても、例えば山に近づく方を「上」、離れる方を「下」と呼ぶことでおおよその高さを基準とした相対的な位置関係を表すということもできたかもしれない。
③川の上流・下流を指している説
今回最も有力なのが、川に対して上流を「上」、下流を「下」と呼ぶ説である。②と同じではないかとも考えられるが、やや異なる点がある。例えば谷間に川が流れている場合、谷底に対して局所的に高度が高いのは山側になるため、②の説では谷底が「下」、山側が「上」になる。しかし川の上流が「上」、下流が「下」となると、②とは90度異なる位置に上下が存在することになる。言い換えれば、上下を局所的に見るか、より広域的に見るかの違いでもある。
このように上下地名の由来にはいくつかの説があり、このうち何れかが正しいという訳ではなく、地域や土地の条件などによって由来いくつか考えられている。ただ、こと上北沢・下北沢については、後ろに「北沢」とついていることからも、この「北沢」の上流域・下流域を呼び分けるために「上下」を付けたのだろうと推察される。
「北沢」≒「北沢川」なのか
仮に「北沢」の上流域を上北沢、下流域を「下北沢」と呼んでいるとすると、その「北沢」とは何だろうか。その答えは現在「北沢川緑道」として名を残す「北沢川」なのだろうと考えるのが安直ではある。
北沢川は元々流量の少ない川で、上北沢の都立松沢病院にある「将軍池」やその周辺の湧水を水源としていたとされる。万治元年(1658年)に玉川上水からの分水が合流し、その後は北沢用水として農業などに利用されていた。現在はほぼ全面が暗渠化しているが、緑道の下には今でも水の流れがある。
北沢川が烏山川と合流して目黒川になるのは、現在の世田谷区三宿二丁目。その少し北が下北沢村の中心地だった場所である。
かつての北沢川が「川」という規模でなく「沢」だった時代、その上流域と下流域を示すの使われた呼称が「上北沢」「下北沢」なのだろう。
北沢川の「北沢」とは何か?
これは「北沢川の名前の由来が何なのか」という議題に等しい。糸口として一つ提供できるのは、世田谷を形容した「世田谷七沢八八幡」という言葉である。
江戸時代後期に発刊された新編武蔵国風土記によれば、かつて吉良氏が支配していた頃の世田谷は「七沢」=7つの沢と「八八幡」=8つの八幡社があった土地だったという。この「七沢」が何を指すのかには諸説あるが、
・廻沢(烏山川流域)
・吉沢(野川・丸子川流域)
・深沢(呑川流域)
・馬引沢(蛇崩川流域)
・野沢(蛇崩川南側)
・奥沢(九品仏川流域)
・北沢(北沢川流域)
と見ることもできる。
ちなみに比較的著名な地名である「駒沢」は、明治22年(1889年)に上馬引沢、下馬引沢、野沢、深沢が合併してできた地名なので歴史は他の地名より浅く、世田谷七沢には含まれない。
これら七沢の位置関係を考慮すると、世田谷地域の北側にあった沢だから「北沢」と呼ばれ、次第にその流域も北沢と呼ばれるようになったと考えるのがシンプルである。
北沢川流域は旧荏原郡の北端にも位置することから、荏原郡の北にある沢という説明もできるが、どちらにしろ「ある範囲内の北端に位置する沢」という意味で「北沢」の呼称が定着したのだろう。
なんで「南沢」は無いの?
上北沢・下北沢周辺、さらに範囲を広げて世田谷一帯や旧荏原郡域をみても、「南沢」や「西沢」・「東沢」という地名が見当たらない。下北沢駅から少し離れたところに「東北沢駅」があるが、これは「下北沢」の東に位置することから名付けられたもので、「沢」を基準にした方位を表したものではない。
「ある範囲内の北端に位置する沢」を「北沢」と呼ぶのであれば、同様の考えから「南沢」・「西沢」・「東沢」などの地名が点在してもよさそうなのに、なぜ存在しないのだろうか。
実は全国に散らばる「北沢」地名の多くは、周囲に「他の方位+沢」の地名が少ない。
岩手県紫波郡紫波町北沢
←旧陸奥国紫波郡北沢村
※字北沢の小字として「北沢」「中沢」がある。
宮城県伊具郡丸森町北沢
←旧陸奥国伊具郡丸森村字北沢
宮城県栗原市一迫北沢
←旧陸奥国栗原郡北沢村
※江戸期の栗原郡は92村あり、これを栗原、一迫、二迫、三迫、佐沼に区分けしていた。
宮城県気仙沼市松崎北沢
←旧陸奥国本吉郡松崎村字北沢
新潟県佐渡市相川北沢町
←旧佐渡国雑太郡相川北沢町
※江戸時代に鉱山町として整備された相川73町の一つ。近くに相川南沢町がある。
山形県酒田市北沢
←旧飽海郡北沢村
※明治9年に飽海郡寺内村、北境村、金生沢村が合併して北沢村が成立。
静岡県三島市北沢
←旧伊豆国君沢郡北沢村
※旧君沢郡には大沢、平沢、戸沢といった地名がある。
兵庫県たつの市揖西町北沢
←旧播磨国揖西郡北沢村
※近くに北山、南山はあるが、南沢などは無い。
調べた限りでは、佐渡市の一例を除いて、字や市区町村名で「北沢」と「南沢」がセットになって存在している地域がないことがわかった。
こう見ると「北沢」という言葉に何か特別な意味があるのか、そうでなくとも「北」という言葉に方角以外の意味があると考えたくなってくる。
「キタ」は方角を表しているのではない?
ここに一つの文献を紹介する。
和名類聚抄(和名抄)は平安時代中期の承平年間(931〜938年)に作られた辞書。特筆すべきは、古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅して記載している点である。※調査のため和名抄に記載されている国・郡・郷名を一覧化したページを作成したのでこちらも参照してほしい。
この和名抄によると、武蔵国荏原郡(現在の品川区・目黒区・大田区・世田谷区の一部・川崎市の一部にあたるエリア)には下記の郷があったという。
- 蒲田
- 田本
- 満田
- 荏原
- 覺志
- 御田
- 木田
- 櫻田
- 驛家
馴染みのある地名からそうでないものまであるが、着目すべきは「木田」郷。この木田郷が荏原郡のどこにあたるかの比定はなされていないが、上北沢・下北沢の「キタ」はこれに当たるのではないかという考察がある。
桜が多かった「櫻田」などと並んで木が多かった場所を「木田」と呼び、その周辺に流れる水を「木田の沢」あるいは「木田沢」と呼んだというわけである。和名抄には残念ながら他の地域に「木田」という郷がなかったので比較検討できないが、9世紀頃に実在した地名と結びつくのであれば面白い話である。
一方で、高知にある「北ノ川」という地名は、土佐方言で河岸段丘や崖の上を表す「ケタ」が転訛したところから「北」が付けられたという説がある。似たようなものに、「キダ」という音には「段」や「きれめ」という意味があり、河岸段丘を表すという説がある(民族地名語彙辞典など)。この説によると、九州の県名「大分」は「オオキダ」と呼ばれていた時代があり、「大きく刻み分けられた地」を表したとされる。この「キダ」が清音化して「キタ」という言葉になったとすると、全国に散らばる「北」が付く地名に「南」がセットになっていないのも合点がいく。
旧下北沢村の一部にも含まれていた「代田」。その地名の由来は妖怪の「ダイダラボッチ」に由来するという伝承がある。ダイダラボッチはいわば巨人の一種で、代田にはその足跡が窪地として残っているのだという。この話の信憑性がどうこうという訳ではないが、窪地にフォーカスがあたる程度の高低差がこの地にあったことは推測でき、その一部にかつては崖のような場所があったとしても不思議ではない。
あくまで考察の域を出ない話にしか着地しないが、色々と調べ物が進んでしまった。元々の下北沢と上北沢の位置関係から派生して、なにやら複雑な話へと飛躍させるとは。さすがサブカルの聖地、ニッチな話題を引き寄せる力を持っている。
上北沢に住む者です。
返信削除なかなか読み応えがありました。
後半の郷のところが特に。
コメントありがとうございます。
削除郷名については諸説がありすぎて推測の域を出ませんが、是非今後の街歩きの参考にしていただければと思います。
考察が深く、とても面白い
返信削除コメントありがとうございます。地名学についてはまだまだ調べきれていないところが多いので、精進していきたいと思います。
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