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2023/09/05

薩摩街道・豊前街道 Day3 その②



新しめの施設が目に飛び込んできた。左手の建物は平成25年(2013年)開業の「九州芸文館」。地域の芸術文化交流施設で、建築デザインは国立競技場のデザインでもおなじみ隈研吾氏による設計となっている。右側の高架は九州新幹線のもので、縞模様は平成23年(2011年)開業の「筑後船小屋駅」。


高架の下をくぐり、鹿児島本線の線路を越える。右手には平成28年(2016年)竣工の「タマホームスタジアム筑後」。プロ野球福岡ソフトバンクホークスの2〜4軍の本拠地と練習場として利用されている。


ひたすらに高規格なのに車がほとんど通らない道路を進んでいくと、いつの間にかみやま市に突入している。左手に川が近づいてくると大子堂だというお堂が出現した。その隣に架かる橋が「行基橋」なので、行基を祀っているのだろうか。


沖端川(おきのはたがわ)を行基橋で渡り、本郷の集落へと差し掛かる。


集落の入り口にある戦後創業の葉玉酒店は、道路拡幅に伴って店舗を再建したとのこと。敷地内にある祠には石祠に祀られた恵比寿と木の切り株が。切り株は道路拡幅時に切り倒されたえのきだろうか。


さらに集落を進むと本郷聖母神社がある。「せいぼ」ではなく「しょうも」と発音する。聖母宮は長崎の壱岐に鎮座する神社で、神功皇后が創建した行宮を起源とする。「聖母」で「長崎」だが、キリスト教に由来するわけではない。


塩塚川沿いの道を進んでいく。民家の傍に小さな「辯才天」と刻まれた碑があった。


本郷集落を抜けて中山大藤交差点に出る。ここに稲荷神社と「二里石」があった。関ケ原の戦い後に逃亡中の石田三成を捕縛した手柄が認められた田中吉政は、筑後・柳川城が与えられ、筑後の府にふさわしい街作りを目指し、周辺のインフラ整備を進めていく。交通面では柳川と久留米を結ぶ田中街道を始めとする道路網を整備し、柳川からの距離の起点の標石となるよう一里毎に標石を置くこととした。この二里石は矢部川沿いに大分に向かう「矢部街道」の二里石だという。


上庄の集落に入っていくが、このあたりから瀬高宿となる。レンガ造りの建物は山下酒造・山下第二酒造所跡。「富貴鶴」や「神代菊」などの銘柄で知られた酒造所だが既に廃蔵となっている。上庄・下庄は江戸時代には酒造りが盛んとなり、江戸末期には瀬高で40軒ほどの酒蔵があったという。


お茶屋前交差点を横切る。かつてこの付近にお茶屋があったのだろうが、特にそれがわかるようなものはない。

突き当りを左折すると上庄八坂神社がある。かつては「祇園宮」と呼ばれ、扁額にもその名残がある。柳川藩の田中吉政や立花宗茂の庇護を受け、江戸時代に実施されていた祇園会では柳川藩家老が代参していたという。


少し先には享保20年(1735年)創業の菊美人酒造・菊美人醸造元がある。北原白秋の姉・加代の嫁ぎ先でもあり、日本酒のラベルにあしらわれる「菊美人」の文字は白秋によるもの。


瀬高橋で矢部川を越える。かつては舟による渡河だったが、文政・天保期に簡易的な橋ができた。洪水の時は一時的に梁を外して岸に上げられるようになっていたが、大名などの渡河の際には、舟を並べた船橋を設けていた。


矢部川を渡ると下庄の集落に入る。なまこ壁の建物など風情のある建物が残る。


新町公民会の前に「伊能忠敬測量基点之地」碑があった。文化9年(1812年)の測量記録には「羽犬塚〜尾嶋〜今寺〜本郷まで測り、無測にて瀬高町に至る。下庄の三池街道追分〜長嶋〜古賀まで測る」みたいなことが書かれているようだ。


新町、元町を抜けて用水路沿いの道を進む。すると鹿児島本線の線路にぶつかって道路が途切れてしまうので、少し北側の国道へ迂回する。先程途切れた道の延長に戻ると「二里石」があった。こちらは薩摩街道の二里石となる。


用水路沿いの道を進むと、国道443号に合流する。ここからしばらく国道に沿って南下していく。本当は僅かに旧道区間があったが消失区間も多いので横着して国道を進んでしまった。大根川に差し掛かったところで、国道を離れる。

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