気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2015/08/26

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の③ 〜小鹿野町へ突入〜



大指集落の外れ、大指バス停の奥には文化6年(1809年)建立の巳待塔が鎮座している。
巳待が行われる「巳の日」は弁財天の縁日でもあり、弁財天が水を司る神であることから、巳待講は水害が多発する地域でよく見られる。この巳待塔のある場所もすぐ脇に沢が流れている。
県道37号線を緩やかに登ると小鹿野町(旧両神村域)に突入する。

小鹿野町に入ってしばらくすると、かつて一里塚や巡礼宿があったとされる東下野沢に差し掛かる。その痕跡を探してみたが何も見つからなかった。
さらに道なりに進むと右手に八坂宮と巳待塔が鎮座している。隣接する住宅を改築した際に整備したらしく、整然と座している。巳待塔は明和4年(1767年)のもの。

ダイハツ自動車の整備工場脇を進み県道を離れる。屋根のある地蔵と二十三夜塔がある「馬坂」を登ると間庭の集落となる。
ここで最も存在感を放つのが「間庭の祠」である。八坂神社、鬼神神社、妙見宮などが祀られている。このうち八坂神社の元では毎年7月に「甘酒まつり」が開催されており、地元の信仰を集めている。
間庭の祠を右手にして道なりに50mほど進むと、右手の畑と民家の間に道ともいえぬ隙間がある。進むと民家の裏になにやら道が伸びている。道と言っても足元もおぼつかない未舗装路で、2度ほど切り替えしながら川へと下っていく。しばらく放置されていたようで、奔放に育つ木々によって寸断されている箇所もあった。
そんなこんなで小森川の河川敷に到達した。巡礼道は川を橋で渡っていたようだが、現存せず流れも急であるので近くの小森橋で迂回した。
対岸の旧道を登ると、天保12年(1841年)建立の霊符尊碑が道標と共に置かれていた。
道教の北辰(北極星)信仰に端を発する北辰妙見信仰において、霊符尊は北辰を神格化したもの。仏教で言うところの「妙見菩薩」と同等である。丁度小森川を挟んで対岸にある間庭の祠にも妙見宮が鎮座しており、もしかしたら対をなして意味を持つものなのかも知れない。
再び県道37号に合流すると味のある洋館に遭遇する。これは大正12年(1923年)築の近藤酒店(近藤銘醸)の店舗兼住宅だったもの。「秩父路」・「秩父志ら藤」などの銘柄を持つ造り酒屋であったが、平成16年(2004年)に後継者が途絶えたため250年続いた醸造業を廃業。現在は秩父ワインが建物を所有し、美術展などを不定期開催しているという。

道の駅両神温泉薬師の湯のお食事処で「薬師そば」をいただく。感想としては素朴な味の蕎麦だったと言っておこう。
道の駅の隣に建つ「法養寺薬師堂」は室町時代の創建で、日本三大薬師の一つに数えられているという(日本三大薬師には諸説あり、当寺を含めない説も多数ある)。奉納されている「木造十二神将立像」は、天正13年から14年(1585〜1586年)にかけて北条氏邦(1568年頃から鉢形城主であった)とその家臣らが奉納したものとされている。
小鹿野警察署両神駐在所と両神ふるさと総合会館の間の道を進み、小鹿野町役場両神庁舎の前に出てくる。庁舎と駐車場の間にちょっとした桜並木があり、その入口に「ミぎ三十一はん」の道標を兼ねた二十三夜待供養塔が鎮座している。摩耗して文字が読みにくいが、安永七年(1778年)のものとのこと。

ここからは「巡礼海道」と呼ばれる風情のある風景が見られる道となる。

2015/08/08

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の② 〜巡礼古道は危険がいっぱい〜



贄川宿は秩父甲州往還で大宮郷(現:秩父市)を出発して最初の宿場である。単なる宿場としてでなく、秩父三十三箇所巡礼で最も長い区間である三十番〜三十一番札所の中継地としても重要な役割を果たしていた。また三峰参拝の拠点でもあったため、当時はかなりの栄えていたと考えられる。宿場の東口には「六十六部廻国供養塔」などの石碑が置かれていた。

ここから先の巡礼古道は二通りのルートがある。
一つは贄川沢の西側山沿いを行き町分集落から伸びる「町分ルート」。三峰詣の参拝客が利用していたルートで、江戸巡礼古道の案内板もこの道をトレースするように案内している。
今回はもうひとつのルート「本コース」を辿ることにした。
本コースは贄川沢の東側に伸びるルートで、本来の巡礼古道である。しかし崩落が激しい箇所などがあり危険なため、あまり公式にオススメできないということで、特にルートの案内は無い。どうせなら本格的な道を堪能したいという一心で本ルートに足を運んだ。

本ルートの第一チェックポイント「阿弥陀寺」。入り口には味のある書体の木版が掲げられている。
阿弥陀寺はその名の通り阿弥陀如来を本尊としており、近年は無住となってしまったものの、開創は貞治二(1363)年の室町時代と歴史ある寺院である。また昭和55(1980)年に設定された秩父十三仏霊場の一つに数えられている。

手持ちのマップだと道がわかりづらく同じ場所をぐるぐる回ってしまった。途中大きめの蜘蛛の巣にかかり大声を上げてしまう失態を晒す。
阿弥陀寺の西側にある、右手に石碑群が並ぶ場所を左に入る未舗装路がおそらく正しいルート。マップにある「欅の大木並木道」というのはこの道を指すのでは無いかと思う。

しばらくすると再び舗装路に合流し、道なりに進むと鬱蒼とした林に足を踏み入れていく。勇気を振り絞って奥へと進んでいくと「林道ガニ沢線」の標識が見えてくる。その脇をよく見ると「巡礼道」の標が心もとなく添えてある。
江戸巡礼古道で最も往時の雰囲気が味わえる林間コースの始まりである。
林道を逸れて林の中に分け入っていく。道筋が見えないくらい草に覆われている箇所もあり、念のため軍手を装備しておいた。
すると早速H鋼でできた橋に遭遇する。その下の沢までの高さは2mほどだろうか。場所の雰囲気もあって恐怖心が高まる。滑らないよう足元に気をつけながらゆっくりと渡った。

H鋼の橋を渡ってホッとしていると、すぐに次の刺客が現れた。木製の橋である。そのフォルムは草と苔で完全に覆われ、どれくらい朽ちているのかもわからない。元々丸太を並べてできた橋だったようだが、何本かは失われてしまっていて、周りを土で固められている。不安な人は橋を渡らずに沢を渡るのも策かもしれない。

ところどころ「巡礼道」の道標があるので、道を間違えていないことを確認できて安心できる。しかし、気を緩むことなかれ、この道には危険箇所がまだ存在する。
左の写真は奥から手前に伸びる巡礼道だ。しかし右半分は崩落しており、その下は底を視認することができないほどの崖である。両足を並べたら一杯になってしまう幅の崖際の道を慎重に進む。
崖越えのあとはしばらく気持ちの良い林道が続く。再び木製の橋を渡る箇所もあるので注意。道標などに注目していけば特に迷うことなく進めるはずである。
しばらくすると贄川宿で別れた町分コースとの合流点に到達する。その地点に置かれた案内板には、町分ルートが赤矢印、本ルートが灰色の線で示されている。ここからも、本ルートが非推奨のルートであることがわかる。
ルートの合流地点のすぐ傍に贄川沢が流れている。ここからはこの沢を何度が渡って進んでいく。水量が多い時は町分ルートを戻り迂回しなければならないが、この日は水量は少なく、流れも穏やかで心地よかった。
徒渉には先人が残していった飛び石をうまく使えば、ほとんど濡れずに渡ることができる。つい最近誰かが残したであろう足跡が飛び石に残されていて、我々以外にも物好き(失礼)がいることを改めて認識する。
4回ほど徒渉を繰り返し、登り坂を進む。巡礼道の道標脇で台風か何かで倒された枝が道を塞ぐ様は、時代の流れとか諸行無常とか、そういったものを想起させるシーンである。

急坂を登り切ると古びた建物が目に飛び込んでくる。どうやら林間の道を抜けて諏訪神社に辿り着いたようである。秩父地域は戦国時代に小田原北条氏の領地であったことから、北条氏と結びつきの深い諏訪信仰が根付いているのであろう。
戸が常に閉ざされているようだが、周囲に祠がいくつかあるので、賽銭などはこちらで行えばよい。

神社の先の道を行くとようやく開けた場所に出てくる。大指(おおざす)は十数世帯ほどの小さな集落だが、それでも人家が近くにあるのは安心するものだ。
ここで足元が舗装路へと変わり、一時間弱共にした土の感触とお別れする。

今回辿ったコースは崩落地点や朽ちた橋などの危険箇所が点在することもあり、近いうちに通行不能になってしまうのではないかという懸念すらある。こういう道をどう保全していくのかが観光資源としての巡礼道のあり方を考える良い材料になりそうである。


2015/07/06

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の① 〜はじめての徒渉〜



秩父巡礼の旅5日目は、秩父鉄道白久駅からスタート。今回は友人を引き連れての文字通り「同行二人」の旅となる。
まずは30番札所を目指すわけだが、巡礼古道は少々わかりづらい場所から始まっている。目印は線路脇の馬頭観音だ。砂利道を進んでいくとこじんまりとした笠間稲荷神社があった。なにやら草木がガサガサと音がすると思えば、神社が野猿に占拠されていた。友人はこういう経験があまりなかったようで、だいぶ興奮していた。
サルたちに見送られて先に進むと、「橋場の双体道祖神」が鎮座していた。元々別の場所にあったものが最近になって移設されたものとのこと。

車道に出てきた。谷津川が削った谷間の道を登っていく。橋場の集落を横目に進むのだが、なかなかの登り坂である。
道中、川沿いの安定しない場所に建つ家の幾つかは廃墟のような荒み具合であった。巡礼道中とはいえ山間の集落である。過疎化の影響が目に見えてわかってしまい、少し悲しい気持ちになった。


30番札所・法雲寺に到着。境内には心字池を伴った浄土庭園が広がり、その景観は三十三箇所随一という呼び声も高い。その庭園に浮かんでいるかのように、観音堂は庭園より一段高くに位置する。

観音堂には回廊が巡らされており、姿が龍に見えるという「飛龍の松」が展示されている。
また、寺宝の一つに「巡礼納札」がある。「納札」は訪問の証に自分の姓名や住所を書いたものを寺社に納めたもので、これを簡易的にしたものが千社札にあたる。法雲寺に納められている天文五(1536)年の木版の納札には、「西国・坂東秩父百ケ所巡礼」と刻まれており、百観音の成立に関する貴重な資料となっている。

法雲寺を後にして、今度は同じ道を下っていく。白久駅が目前に迫ったとき、左の看板が目に入ってくる。後付の「通行注意」が意味するものは何かと問われれば、道があることが何となく分かる程度に藪が茂っていることではないかと入り口から想像がつく。その藪に、おっかなびっくり突っ込んだ。少し下り坂になっており、湿った草によって滑りやすくなっていた。

左手に山を従えながらうっすらと轍の残る未舗装路をゆく。しばらく進むと小さな祠が見えてきた。近くには古びた柄杓が置かれており、ガイドマップが指す「湧き水」の地点かと思われる。水の流れは緩やかで、湧き水と言われなければ単なる用水路かと思うほどである。


足元が土からアスファルトに変わり、原の集落を進む。途中「原の天狗まつり」の標柱が設置されていた。秩父ではかつてほぼ集落単位で天狗祭りなる催事が行われていたが、現存しているのはここだけだそう(原の祭りも平成24年度から中断している)。
右三十番と刻まれた安政九(1780)年の庚申塔を横目に荒川幹線4号線をゆく。
秩父鉄道の線路をくぐり、細い道に入ると文化6(1809)年の「東国高野大日向山石標」と「歴史の道 秩父甲州往還道」の標柱があった。
大日向山は「太陽寺」を表す。高野山は通常女人禁制だが、奈良の室生寺は女性でも参拝できる高野山として人気を博した。その東国版が太陽寺であったため、「東国の女人高野」として多くの参拝客が訪れたのだ。
秩父甲州往還ルートである直進の道をゆく。
しばらくすると左側に「六所大神」の祠が見える。麻疹や疫病除けの神様として崇められ、近くの「六所橋」の下を潜ってお参りしていたそうだ。また縄文時代の祭祀に使用されていた「石棒」が見つかるなど、古くから子孫繁栄の祈願が行われていたことが伺える神聖な場所となっている。

さらに先に進むと江戸巡礼古道の案内板があり「本来の古道だが川を渡れない」と書かれている。いつもならそうかそうかと迂回路へ進んでいくのだが今回は一味ちがう。確かに橋も渡しも無い現在では川を渡るのは難しい。しかし、事前に川の水量が少なければ歩いて渡れるとの情報を得ていたのだ!

荒川へ下る栃の木坂の途中、子供を抱いた姿の地蔵尊が置かれていた。「おしげ地蔵」とも呼ばれるこの地蔵は、昔ここで亡くなった親子を慰霊する目的で作られたものだそう。
近くには朽ち果てた馬頭観音らしきものも置かれており、僅かな区間ながらかつては険しい道程であったことを伺わせる。


栃の木坂を下りきるとそこには悠然と流れる荒川の姿が。
上流には、川を渡らない場合迂回することになるはずだった「白川橋」の様子も望める。
かつてはこの地に栃の木坂の渡し(八幡坂の渡し、川端の渡しとも呼ばれる)があったが、前述の白川橋の完成により昭和4(1929)年に廃止されている。

この日の荒川の様子は、水量もそれほど多くなく流れも穏やかであった。しかも飛び石が一帯に点在しており、うまくいけば濡れずに済みそうだ。安定していそうな石を選びつつ進んでみると、中洲のような場所まで濡れずにたどり着く事ができた。
しかしここからはどうしても水の中に入らなくては先に進めそうにない。靴と靴下を脱いで川を渡っていく。初秋のこの時期の川は刺すように冷たく、なかなかの関門となった。

川は思いの外深く、結局膝下まで浸かってしまった。どうにか対岸に辿り着き、砂利道を登っていくと、旧贄川村の村社・八幡神社と石仏群が迎えてくれた。おそらく渡しの名前にもなっている「八幡坂」がこの坂だろう。
かつて八幡神社の周囲には、荒川を渡った人の休息地として茶店や酒屋などがあったそうだが、現在は杉林に覆われて人影すら見当たらない。


八幡坂を登り、小休憩がてら贄川宿へ向かう。今日の旅はまだ始まったばかり。

2015/06/30

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day4の③ 〜秩父甲州街道をゆく〜



29番札所・長泉院に到着。
旧荒川村は枝垂れ桜の里として有名で、ここ長泉院の入り口にも枝垂れ桜が植えられている。
観音堂内には「葛飾北斎52歳」と銘が入った楼花の絵が掲げてあり、古くから桜にゆかりのあった地であったことが窺える。

参道前の道を横切り、薄暗い道に入っていくと、心求・はまの道標石、庚申塔、それと何かの石碑が一箇所にまとめられている場所があった。
かつての巡礼では川を越えたあとこの場所まで出てきて、ここから長泉院に向かっていたようだ。30番へもここから向かっていく。

清雲寺に立ち寄る。旧荒川村を代表する枝垂れ桜の名所で、その桜は樹齢600年とも言われている。
とはいえこの秋真っ只中では観光客の姿は一人もおらず、枝垂れ桜も次の春までのお休み期間のようだった。今見てもなかなか荘厳であったが、やはり春先の絢爛に振る舞う姿を見てみたいものである。

隣の若獅子神社に立ち寄る。この神社もまた桜の時期には観光客で賑わうのだが、この秋のシーズンの夕暮れには些か背筋がヒンヤリする空気を醸していた。
敷地内には県指定天然記念物である「若獅子断層洞及び断層群」や若獅子神社遊歩道も整備されており、機会があれば時間をかけて楽しむこともできそうだった。

道が二股に分かれる場所に様々な石標がまとめられていた。かつて寺院だった場所だったようで、馬頭尊や地蔵などが並んでいる。中には「右三十番」と刻まれた道標としての役割を持つ地蔵もあった。これは明和7(1770)年のものだというから、巡礼の歴史を物語る貴重な地蔵である。


さらに進むと再び二手に分かれる箇所が。
左の「巳待塔」は宝暦3(1753)年の銘入り。右の道標は左「舟川越事上二至ル(「船川」「越」「事上」の集落に向かうという意味)」右「三十番道」と刻まれた比較的新しい道標。


そばの花が咲き始めていた。
旧荒川村は秩父の中でも特にそばの生産が盛んな地域で、近年その生産量を増やしているという。かつては自地域内での消費に留まっていたが、最近では町おこしの観点などから秩父全体で「蕎麦推し」の傾向にあるようだ。

秩父鉄道・武州中川駅の脇を抜けて国道140号に出てきた。本来の古道は現在駅がある場所を突っ切るように通っていた。
秩父市役所荒川総合支所(旧荒川村役場)の脇から狭い道に入っていく。入り口には「歴史の道 秩父甲州往還道」と書かれた杭が設置されていた。秩父甲州往還は中山道熊谷宿から甲府に至る街道だが、そのルートの一部をこれからしばらく辿ることになる。
安谷川へ降りる道中には安政2(1855)年に建てられた自然石の芭蕉句碑「む可し幾計秩父殿さへ 寿まふとり」があった。
さらに下り木橋を渡る。水の流れる音がしばしの休息を与えてくれるが、その直後足場の悪い登り坂が待ち受けていた。さほど距離は無かったが、なかなか急坂なので注意が必要である。
国道140号線と再会するが、すぐに道は旧道へと逸れていく。旧道との分岐地点には三峰山講中が建立した三峰山登拝碑が立っていた。調べたところ、右「三峰山新道」左「旧道」と記されているとのこと。もちろん左へ進む。
進んだ先、民家の脇には「夜泣き石」と刻まれた石が。東海道の小夜の中山にも「夜泣き石」伝説があるのは知っていたが、どうやら全国各地にも同様の伝説が残されているようだ。


ここからの道は秩父鉄道沿いの道を行く。かつての巡礼道は秩父鉄道の建設工事と開通により分断されてしまい、往時のルートが不明となってしまった箇所も多い。
それでも道中の石碑などが線路脇に避けられて設置されており、歴史を知る貴重な資料となっている。左の薬師堂脇の馬頭観音は文化3(1806)年のもの。

旧白久村豆早原地区に伝わる「白久の串人形芝居」の説明板。文久・元治年間に始まったとされ、一体の人形を二人掛かりで操る「二人遣い」と呼ばれる操作方法が珍しい人形芝居とのこと。
この説明板の横の道から入ったところにある豆早原区公会堂に保管されているようで、創始に関する説明などがあった。
白久駅に到着。既に夕方5時目前だったので30番法雲寺への訪問は次回とした。
電車を待っていると、私と同じく徒歩での巡礼を行っている方と話をする機会を得た。ある男性は歩くのが好きで、秩父巡礼が済んだら坂東三十三箇所にも徒歩で挑戦するとのこと。またある女性は退っ引きならぬ理由によって巡礼を決意したとのこと。
巡礼には様々な境遇の人が呼び寄せられ、様々な想いが交錯している。


2015/06/07

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day4の② 〜地形を味わう〜



大渕寺を出ると、巡礼道は大渕寺を背にして丘陵から離れるように進み、秩父鉄道を横切る。そう思ったのも束の間、進路は再び90度折れ、民家と線路の間の道を西へ向かう。

暫く進むと道は突き当たり、「この先行き止まり」の不穏な看板が目に飛び込んでくる。「巡礼道」の標がなければ先に進むのも躊躇してしまいそうになる。
さらに進むと何やら薄暗い道に突き当たる。どうやら琴平ハイキングコースの一部として車両通行が禁止されている道のようで、丘陵沿いの未舗装路は両側から延びる木々によって日差しを和らげてくれる良道だった。


橋立浄水場の前には「影森用水之碑」などが置かれている。かつての影森村には井戸が2つあるのみで生活用水を得るのが困難だった。これを嘆いた地元の名主「関田宗太郎」が私財を投じて用水を建設し、安政2(1855)年に各戸に水を引くことに成功したという。
大正13(1922)年には埼玉県初の近代浄水場である橋立浄水場が建設されるなど、影森は水と縁がある地のようだ。


28番札所・橋立堂に到着。
本堂の背にある巨大な岩壁に目が奪われる。
本尊の「馬頭観世音」は日本百観音の中でも橋立堂を含めて2カ所にしかなく、非常に珍しい。
この場所は武甲山への登山口につながる拠点となっており、本堂下の広場にはカフェや休憩所などが設けられている。この日も観光客や登山客で賑わっていた。

観光客が集まるコンテンツがもう一つある。「橋立鍾乳洞」だ。
かつて橋立堂の奥の院としての役割を持っていた洞で、その3分の2が縦穴という高低差の激しい鍾乳洞である。
中に入ってみると、体がぶつかるような狭い箇所が多く、中腰での移動を余儀なくされる。かと思えば、天に昇るかのごとくそびえる鉄の階段が現れ、これをひたすら登る。
高所が苦手な私にとっては、洞窟の涼しさ以上に体が冷える体験だった。

橋立堂を後にして巡礼の道へ。
来た道を戻りながら浦山口駅方面へ向かう。お墓などが立ち並ぶ細い道を進んでいくと、お寺の脇に向かう道やキャンプ場への入口などがあるが、そちらは間違い。道なりに進んでいけば心求・はまの道標石があるので正しいルートだとわかる。
道標石の脇、久那区集会所の脇にある連鳥居の稲荷(名称不明)はなかなかの情緒と味わいを醸し出していた。
さらに進んで再び道標石。
「みぎ二十九番 ひだり日原」と彫られているそうだ。日原は奥多摩の日原(にっぱら)を表すのだろうか。かつて「日原みち」なる尾根道がここから日原へ繋がっていたようだ。
本来の巡礼道はここから浦山川を渡しで横切るルートを採るが、現在は通行できない。
迂回路を進むと芭蕉句碑が置かれている。
元々は諸下橋脇、秩父甲州往還の浦山川渡河地点に置かれていたもののようだ。
この諸集落はかつてこの地が久那村だった時代の中心地だったようで、少し手前には高札場跡も(礎石のみだが)残されていた。

諸上橋より浦山ダムを臨む。重力式コンクリートダムとしては全国2位の堤高を持つ巨大ダムで、エレベータを使って堤防上に上がれば、上流の「秩父さくら湖」を臨むこともできる。
またその開けた環境から、様々な特撮物の撮影地となっており、最近の仮面ライダーシリーズでは、毎年1度は舞台となる地でもある。

もう少しで29番寺!