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2016/02/18

名所江戸百景:中川口 -水の流れは変わるもの-



名所江戸百景では、水を主題にした作品が多い。江戸が水を有効に活用して町づくりを推し進めていたのも一因ともいえよう。
特に江戸時代は、それまでに無いような大規模な河川工事が多く行われた。有名どころでは、文禄3年(1594年)から開始された「利根川東遷」なんかがある。
江戸府内でも水運輸送を充実させるために、水路の整備が進められていた。特に「塩」の確保を重要視した幕府は、天正18年(1590年)、江戸入府と同時に行徳を天領とし、江戸府内から行徳に向かう水路を開削した。これが「小名木川」である。

ここで作品を見てみよう。
画面を横断する流れが「中川」、中川を挟んで奥に伸びるのが「新川(船堀川)」、手前側が「小名木川」である。小名木川については、名所江戸百景の他のいくつかの作品でも題材として描かれているので、ここで深く言及するのは避けておこう。
今回はこの場所にあった「番所」にフォーカスを当てたい。

番所は河川を往来する船の出入りを監視・取り締まりを行っていた幕府設置の機関であり、いわゆる「関所」の一種である。寛文元年(1661年)まで小名木川の西端・隅田川口にあった船番所を、この絵が描かれた中川口に移転してきたものが「中川船番所」である。

中川船番所の最重要任務は、船積みされた様々な物資の流通量を監視することにあった。メインの「塩」をはじめ、米、野菜、鮮魚、硫黄など、様々な商品の出入りを見張っていた。特に生鮮食品については夜間の通行も認めることで、鮮度の高いものを江戸府内で手に入れることができるようになっていた。

広重の作品を見ると、人の行き来も盛んに行われていたのがわかる。
この番所では物資に対する厳重な監視に対して、人の往来についてはそれほど厳しくなかったという。とはいえ、他の関所と同様、女性の通行は厳しく制限されていた。
ともあれ、主な交通手段が船であったこの時代には、非常に重要な機関であったことがわかる。

明治2年(1869年)に関所制度が廃止されると同時に、船番所もその役目を終える。以降も新川から小名木川を経由したルートは蒸気船の運行などにより重宝されていた。蒸気船「通運丸」は日本橋蛎殻町から銚子までを18時間以上かけて運行していた。しかし、明治28年(1895年)の総武鉄道の開通を皮切りに、長距離の旅客輸送は次第に鉄道に移行していき、旅客輸送は短距離化していった。

荒川放水路が開通すると、それまでの中川は旧中川、そのすぐ脇に荒川放水路、その東脇を中川放水路が流れるようになる。このとき新川の西側はほとんどが放水路によって消失した。また河川間に水位差が生じ、船舶の通行に支障をきたすようになったため、これを解消するために昭和5年(1930年)に旧中川・荒川放水路間に小松川閘門、荒川放水路・中川間に船堀閘門が設置された。

中川船番所があった場所には現在平成15年(2003年)開館の「江東区中川船番所資料館」が立っている。資料館内には当時の番所の様子をジオラマで再現しているコーナーもあり、往時の様子を伺うことができる。
資料館向かいの川沿いには「旧中川・川の駅」が平成25年(2013年)にオープンした。ここは墨田区・江東区を中心とした観光名所を周遊する水陸両用バス「SKY DUCK」が、陸地から旧中川へ勢いよくダイブする様子を見ることができるポイントにもなっている。



現在の広重視点からの風景。旧中川から新川間の流れは小松川閘門によって調整されていたが、昭和50年(1975年)に船の需要低下から閘門の使用が終了し、新川も運河としての役目を終えた。旧中川と荒川に挟まれた土地は日本化学工業の工場が立っていたが、クロム鉱滓の埋め立て問題が発覚し、その後処理を行った結果として平成9年(1997年)には大島小松川公園が整備された。

現在、小名木川から新川方面を臨むと、産業遺産としての旧小松川閘門の堂々たる姿を拝むことができる。その傍らでは水陸両用バスやカヌーなどのアクティビティを楽しむ人が散見できる。

かつての水運の要所はもはや要所ではなくなってしまったが、人々は未だに川と親しく付き合っている。

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