【歩き旅】大山街道 Day4の① 〜溝口宿の町並み〜
大山街道四日目。京急田園都市線高津駅からのスタート。まずは二子・溝口宿の町並みを進んでいく。溝口緑地あたりをまでが二子宿、これより先が溝口宿となる。
溝口宿も二子宿と同時に寛文9年(1669年)に継立業務を開始した。毎月1日〜20日までを溝口村、21日〜月末までを二子村が継立業務にあたった。
タナカヤは江戸時代から創業する呉服店で、明治44年(1911年)に造られた蔵造りの建物が残る。
府中街道との交点である高津交差点には、明るく豊かな地域社会をづくりを目指して「ふれあいの鐘」が設置されている。溝口村は府中街道と矢倉沢往還の交わるところに集落が発生し、発展していったものとされる。尚、現在府中街道の通称を持つ国道409号は近年整備された道であり、一本西側に並走する道が旧道である。
宝暦年間創業の田中屋秤店。江戸時代に測量機器を販売するのには免許が必要で、幕府が認めた商家でのみ販売を許された。田中屋は度量衡販売の免許を受けてものさしやはかりを販売し、現在に至っている。
明和2年(1765年)創業の灰吹屋薬局のシャッターには江戸時代の門構えが描かれている。四谷にあった萬屋「総本家灰吹屋」を暖簾分けして出来た薬種店からはじまり、現在では支店を数店舗従えるチェーン薬局として規模を拡大している。
平成4年(1992年)に開館した大山街道ふるさと館は、大山街道に関する資料を展示する資料館。大山街道を専門的に扱っている資料館としては唯一だろう。
ふるさと館の入口には「高幡不動尊道」の道標が展示されている。伊豆石で作成されており、文政12年(1829年)の刻印がある。日野の高幡不動尊へ府中街道を利用して参拝に向かう人々に向けたものである。
二ヶ領用水を大石橋で越える。江戸時代に大きな石橋があったことに由来する。
二ヶ領用水の建設を指揮したのも前回六郷用水の掘削で登場した小泉次大夫。慶長16年(1611年)に、当時の稲毛領・川崎領の二領にまたがる用水路が完成し、二ヶ領用水と呼ばれることとなった。
七五三で賑わう溝口神社へ到着。江戸時代には溝口村の鎮守・赤城大明神として崇められていた。明治に入ると廃仏毀釈により、隣の宗隆寺と分離し、溝口神社と改称した。
こちらが宗隆寺。かつては池上本門寺の直末六ヶ寺の一つであった。御会式(宗祖(日蓮宗のため日蓮)の命日に合わせて行われる大法会)での万灯練供養が有名で、本門寺以外の万灯練供養の中では規模も大きいという。
境内には第一回人間国宝に選出された益子焼陶芸家の濱田庄司の墓がある。
栄橋交差点に栄橋の親柱が残されている。栄橋は平瀬川に架橋されていた橋で、ちょうどこの場所では根方十三ヶ村堀とも交わっていた。溝口村と下作延村の境界に架かることから「境橋」とも呼ばれており、ここまでが宿場町であった。平瀬川は暗渠化されて現在に至る。
栄橋親柱の隣に大山街道のマップがあった。今では単なる一本の道に過ぎないが、当時は主要な産業道路であり観光道路でもあった。こうやって往時を偲ばせるマップや看板が設置されているのは本当に嬉しい限りである。
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