気の向くままにつらつらと。

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2021/05/02

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その②


 
高樋を抜けると高樋青年団が寄贈したレトロな時計台がある。この脇の道を上っていくと紅葉の名所として知られる正暦寺。境内を流れる菩提仙川の水を使って、初めて清酒を作ったとも伝わる地である。今回は正暦寺と逆の方面へ進む。


柳茶屋墓地の入り口に延命地蔵尊がある。江戸時代初期に造立した石仏で、一石の花崗岩から彫り出されて作られている。この辺りの集落はかつて柳茶屋と呼ばれていた。


ここにも大峯山上五拾五度供養塔があった。やはりこの近辺の集落では大峰山信仰が流行していたようだ。


精華学院前の複雑な交差点を抜けると、緩やかな上り坂となる。竹林を抜けると道は下り坂となり、上山村集落へと入っていく。中古車販売店の脇に道標・案内板・万葉歌碑などがあるが、道標はこの道を直進する道を「伝・山の辺の道」としている。ただ、手元の地図はここを右折するルートを取っているので、今回は円照寺へ向かう道を採択する。


分岐点には昭和23年(1948年)建立の道路新設記念碑。今から向かうルートは明治の地図に描かれていないようなので、このときに整備されたものだろうか。


道は田んぼの中を進んでいき、山沿いを進んでいくと池の畔に出てくる。竜王池(大川池)と呼ばれるこの池は、元々円墳の外堀だったものを拡大し、上流の正暦寺方面からの水を集めて農業用溜池として利用するようになったものだという。池の中央には弁財天が祀られている。


岡山稲荷神社の鳥居が山に向かって口を開いており、ここから円照寺へと入っていく。奥がどうなっているか分かりにくく、なかなか勇気の要る登り口となっている。


大師堂への案内があったのでそちらへ向かうと、こじんまりとしたお堂がそこにあった。近くの円照寺との関連は不明とのこと。


大師堂の境内の一角に何十体もの石仏が並んでいる。おそらく西国三十三観音を写したものだが、数えてみると33体以上ある気がする。


鬱蒼とした森の中に整然と整備された寺院が現れる。ここは大和三大門跡の一つにも数えられる尼寺・円照寺。寛永17年(1640年)に後水尾天皇の第一皇女・文智女王が出家し、寛永18年(1641年)には京都・修学院に草庵を建てた。後に後水尾天皇が修学院離宮を建造することとなったため、現地にあった寺院は移転を余儀なくされ、明暦2年(1656年)にここより少し北の崇道天皇陵付近に移転し、「八島御所」と呼ばれた。寛文9年(1669年)には現在地に移転し、「山村御所」と呼ばれるようになり、現在に至る。

一般拝観が行われず、参道の途中までしか立ち入れないため、遠目から建物の姿を眺めるのみとなる。


円照寺の参道を北側へ逸れ山道を進む。少し開けた場所に石仏がまとめられており、中央にあるものは「向山地蔵」と呼ばれる。


さらに先に進むと道はイノシシ避けの防護柵に阻まれる。山奥の街道を歩くときなど、時折このような柵に巡り合うことがある。


貯水池(新池)に沿って道は進み、久々に車道に出てくる。ここには日本書紀から引用された勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ・後の第27代安閑天皇)が春日皇女へ贈った詠歌が設置されている。冒頭の「やしまくに」=「八島国」は8つの島で形成される国、つまり「日本」を表している。


池の前にあるのが崇道天皇陵(八島陵)。第49代天皇・光仁天皇の皇子である早良親王の陵とされる。早良親王は藤原種継暗殺の罪に問われたが、無罪を主張してハンガーストライキを決行し、息絶えてしまう。その後、親王を追及していた桓武天皇の近親者が立て続けに病死したり、疫病や洪水などの災害が重ねて起こったため、親王の怨念によるものではないかいう説が広まってきた。そこで、その怨念を鎮めるため、死後ではあるが早良親王を「崇道天皇」と追称し、墓所を現在地に移送したのがこの陵であると考えられている。


陵の前の道のど真ん中に穴が空いており、なにやらゴツゴツとした岩が埋め込まれているように見えるが、これには伝説がある。早良親王の死の際に9つの石を投げ、その石が落ちた場所に墓を作って欲しいと言い残した。その後9個のうち8個がこの地に落ちているのが発見され、ここに陵を作ることになったという。また、この地は「八島」という地名で、その由来がこの石という説もある。実際には「八島陵前石室古墳」と呼ばれる古墳時代後期造成の横穴式石室の天井石とされる。


八島陵から東に進んだところに、嶋田神社がある。延喜式の式内小社に比定されており、元は現在の八島陵があった場所に崇道天皇社と隣り合って鎮座していたが、明治19年(1886年)に二社を合祀する形で現在地に移設された。本殿は春日大社の本殿を再建した際、古い建物を別の場所に移設する慣例である「春日移し」により、江戸期に春日大社の旧本殿を移設したものとされる。

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